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2017年4月 4日 (火)

新川和江・抒情の源流/「睡り椅子」の世界・番外編/小自伝「始発駅まで」結語の確信

 

 

9月から授業が再開される。

苦手の数学のある日には、足はひとりでに下館に向く。

休日にも、書き置きして家を抜け出す。

 

疎開中の西条八十への訪問が繁くなるにつれ

はじめは大目に見ていた母親の忠告が激しくなる。

 

そのあたりは、

 

“詩”からというより“詩人”から、娘を引き離さねばと躍起になりはじめていた。明方まで坐り続けて叱責されていた晩もあった。

 

――と「始発駅まで」に記されます。

 

 

西条八十への訪問は

詩集「睡り椅子」の後記では

次のように記されています。

 

 

そのころ、私はまだ女学生で、作品といつても童謡に近いものばかりであつたが、西條先生はそれを丹念にお読みになつては、よく削られた鉛筆で、雀の卵ほどの〇をつけたり、添作して下さつたりした。そのノートをかかへて、いそいそと帰つて来る私の心は、赤い三重丸を貰つた小学生の様にはづんで、途すがら、無気味に鳴り出す空襲警報のサイレンも、遠い世界の出来事程にしか、ひびかなかつた。

 

(花神社「新川和江全詩集」所収「睡り椅子」後記より。)

 

 

空襲警報のサイレンも遠い世界の出来事

――と記される一途さの背後には

母親との格闘があったわけですが

考えてみれば

空襲警報も気にならないほどの詩作への打ち込み振りは

母親の制止を振り切るパワーになったということであります。

 

空襲警報と母親の制止とを比較することはできませんが

詩作への熱中は

どちらをも障害にしなかったほどの

強度があったということになります。

 

この熱中がなかったら

詩人は生まれていなかったかもしれません。

 

この熱中の足跡の一部が

第1詩集「睡り椅子」に結晶しました。

 

 

「始発駅まで」の結びは

「睡り椅子」出版の直後のことが書かれています。

 

反響(反応)があったのです。

 
反響があったことを記すなかに

始発駅以後を記しています。

 

その一つ。

秋谷豊、緒方健一から誘われて

「地球」グループに参加します。

 

 

もう一つ。

「詩学」が広告を出すことになり

詩学社を訪れて知った木原孝一の言葉に

激しく揺さぶられます。

 

木原は、

新川さん、恋愛詩ひとつ書くにもしても、なにか、こう、宇宙に通じるようなものを書かなくちゃ、ダメなんだよなァ

――と発言した。

 

詩人は衝撃を受ける。

 

「始発駅まで」は

次のように結ばれています。

 

 

ぐらりと地軸が傾く気がした。昔、西条先生の口から、「ゲンダイシ」という言葉をはじめて聞かされた時と、内容こそちがえ、同じ衝撃であった。けれども最早、途方に暮れることは無かった、「現代詩」と今こそ明瞭に表記し発音できるという、確信のようなものをその瞬間には摑んでいた。それを、これからはじめるのだ、と思った。

 

 

木原孝一は「詩学」の編集者であり

「荒地」のメンバーでした。

 

衝撃というより

途方に暮れることは無かった、というところが重要です。

 

「睡り椅子」には

現代詩の「種」が撒かれてあったという確信が

この言葉にはあります。

 

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

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