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« 中原中也生誕110年に寄せて読む詩・その9/「追懐」 | トップページ | 中原中也生誕110年に寄せて読む詩・その11/「或る夜の幻想(1・3)」 »

2017年5月10日 (水)

中原中也生誕110年に寄せて読む詩・その10/「別離」

 

 

 

ここでこの詩を読むことが

適当であるのか

正しいのか正しくないのか

よくわからないままに

やはり読むことにします。


 

「青い瞳」や「追懐」と同様に

この詩にも謎めいた詩行があり

詩人はそれを意図的に

説明しようとしていないという意図を含んでいるような詩です。

 

 

 

別 離

 

 

 

さよなら、さよなら!

 

いろいろお世話になりました

 

いろいろお世話になりましたねえ

 

いろいろお世話になりました

 

 

さよなら、さよなら!

 

こんなに良いお天気の日に

 

お別れしてゆくのかと思うとほんとに辛い

 

こんなに良いお天気の日に

 

 

さよなら、さよなら!

 

僕、午睡(ひるね)から覚(さ)めてみると

 

みなさん家を空けておいでだった

 

あの時を妙に思い出します

 

 

さよなら、さよなら!

 

そして明日の今頃は

 

長の年月見馴れてる

 

故郷の土をば見ているのです

 

 

さよなら、さよなら!

 

あなたはそんなにパラソルを振る

 

僕にはあんまり眩(まぶ)しいのです

 

あなたはそんなにパラソルを振る

 

 

さよなら、さよなら!

 

さよなら、さよなら!

 

 

        (一九三四・一一・一三)

 

 

   2

 

 

僕、午睡から覚めてみると、

 

みなさん、家を空けておられた

 

あの時を、妙に、思い出します

 

 

日向ぼっこをしながらに、

 

爪摘(つめつ)んだ時のことも思い出します、

 

みんな、みんな、思い出します

 

 

芝庭のことも、思い出します

 

薄い陽の、物音のない昼下り

 

あの日、栗を食べたことも、思い出します

 

 

干された飯櫃(おひつ)がよく乾き

 

裏山に、烏(からす)が呑気(のんき)に啼いていた

 

ああ、あのときのこと、あのときのこと……

 

 

僕はなんでも思い出します

 

僕はなんでも思い出します

 

でも、わけても思い出すことは

 

 

わけても思い出すことは……

 

——いいえ、もうもう云えません

 

決して、それは、云わないでしょう

 

 

   3

 

 

忘れがたない、虹と花、

 

  忘れがたない、虹と花

 

  虹と花、虹と花

 

 

どこにまぎれてゆくのやら

 

  どこにまぎれてゆくのやら

 

  (そんなこと、考えるの馬鹿)

 

 

その手、その脣(くち)、その唇(くちびる)の、

 

いつかは、消えて、ゆくでしょう

 

(霙(みぞれ)とおんなじことですよ)

 

 

あなたは下を、向いている

 

向いている、向いている

 

さも殊勝(しゅしょう)らしく向いている

 

 

いいえ、こういったからといって

 

  なにも、怒(おこ)っているわけではないのです、

 

  怒っているわけではないのです

 

 

忘れがたない虹と花、

 

虹と花、虹と花、

 

(霙(みぞれ)とおんなじことですよ)

 

 

 

   4

 

 

何か、僕に、食べさして下さい。

 

何か、僕に、食べさして下さい。

 

きんとんでもよい、何でもよい、

 

何か、僕に食べさして下さい!

 

 

いいえ、これは、僕の無理だ、

 

  こんなに、野道を歩いていながら

 

  野道に、食物(たべもの)、ありはしない。

 

  ありません、ありはしません!

 

 

   5

 

 

向うに、水車が、見えています、

 

  苔むした、小屋の傍(そば)、

 

ではもう、此処(ここ)からお帰りなさい、お帰りなさい

 

  僕は一人で、行けます、行けます、

 

僕は、何を云ってるのでしょう

 

   いいえ、僕とて文明人らしく

 

もっと、他の話も、すれば出来た

 

  いいえ、やっぱり、出来ません出来ません

 

 

(「新編中原中也全集」第2巻所収「ノート小年時」より。新かなに変えました。原詩の傍点

は“ ”で示しました。編者。)

 


「1」に現われる「あの時」と

「2」に現われる「あの時」「あのとき」が

そもそも同じ時を示しているのか

異なる時なのか

「1」から「5」を通じる時間の流れが

一貫した時間であっても

同じ時であるかは不明ですし

別個の時間なのかもしれませんし

別離のさまざまな場面をコラージュしたのかもしれません。

 

 

「2」の末尾の3行、

わけても思い出すことは……

——いいえ、もうもう云えません

決して、それは、云わないでしょう

――は口が裂けても言えない秘密の存在を

意図的に匂わせるようで

そう匂わせたところで目的を達しているような詩の言葉なのかもしれず

そうならばその秘密は読者は知らなくてもよいことかもしれず

いずれにしてもじれったさが残ります。

 

 

別離は

家族、中でも、母親とのものも含まれたり

パラソルを振るところは

恋人のようにも受け取れますから

母親を恋人のように歌ったとも考えられますし

母親とは別の女性のイメージなのかもしれません。

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