中原中也生誕110年に寄せて読む詩・その20/「寒い夜の自我像」
さて、この詩を恋の詩と呼んでいいか。
恋の詩とは
言わないのが普通でしょう。
そう呼ぶには
恋人は遠いところにいます。
都会の冬の夜、
恋人であった女性は
あっちの方で鼻唄を歌う群れの一人です。
◇
寒い夜の自我像
きらびやかでもないけれど
この一本の手綱(たずな)をはなさず
この陰暗の地域を過ぎる!
その志(こころざし)明らかなれば
冬の夜を我(われ)は嘆(なげ)かず
人々の憔懆(しょうそう)のみの愁(かな)しみや
憧れに引廻(ひきまわ)される女等(おんなら)の鼻唄を
わが瑣細(ささい)なる罰と感じ
そが、わが皮膚を刺すにまかす。
蹌踉(よろ)めくままに静もりを保ち、
聊(いささ)かは儀文(ぎぶん)めいた心地をもって
われはわが怠惰(たいだ)を諫(いさ)める
寒月(かんげつ)の下を往(ゆ)きながら。
陽気で、坦々(たんたん)として、而(しか)も己(おのれ)を売らないことをと、
わが魂の願うことであった!
(「新編中原中也全集」第1巻より。現代かなに変えました。)
◇
実際に鼻唄を歌っていたのを聞いたのか
喩(メタファー)であるかもしれない
そういう噂が流れてきたのを知っただけなのかもしれない。
女は
近くにいるものでないことははっきりしています。
◇
「山羊の歌」の中で
「わが喫煙」や
「時こそ今は……」のように
恋人が至近距離にある時間を歌ったのと異なり
「寒い夜の自我像」に現われる女性は
あっちの方の別の世界の時間を生きている存在です。
◇
この詩が「白痴群」創刊号に発表されたとき
詩末に記された制作日時は
昭和4年(1929年)1月20日でした。
◇
女性はこの詩で遠景にありますが
過去形(時制)で歌われてはいません。
恋人でもなんでもない
街行く女性と読んでもいいのですが
自我像にまったくの赤の他人が現われる理由もありませんから
長谷川泰子以外をイメージすることも困難です。
そんなことを知らなくても
この詩を読むことはできますが
「盲目の秋」
「わが喫煙」
「妹よ」と並んで
「少年時」の章に配置されているのは
この詩が歴史的現在という時制で
過去(の出来事)を歌った詩群の一つであることを物語るものでしょう。
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