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2017年5月31日 (水)

中原中也生誕110年に寄せて読む詩・その24/「含羞」

 

「在りし日の歌」になると

現われる女性は一段と謎めいて

モデルを探すなどという実証的アプローチは

いよいよ無意味になると言えば

言い過ぎでしょうか?

 

早い時期に作られた詩であっても

「在りし日の歌」の詩が

もはや「山羊の歌」に置かれた詩とは異なるのは

音楽の長調から短調への変化(転調、移調)に

譬えることができそうです。

 

長男・文也の死の影が

この詩集には

色濃く射していることを断ることはないでしょう。

 

 

含 羞(はじらい)

        ――在りし日の歌――

 

なにゆえに こころかくは羞(は)じらう

秋 風白き日の山かげなりき

椎(しい)の枯葉の落窪(おちくぼ)に

幹々(みきみき)は いやにおとなび彳(た)ちいたり

 

枝々の 拱(く)みあわすあたりかなしげの

空は死児等(しじら)の亡霊にみち まばたきぬ

おりしもかなた野のうえは

”あすとらかん”のあわい縫(ぬ)う 古代の象の夢なりき

 

椎の枯葉の落窪に

幹々は いやにおとなび彳ちいたり

その日 その幹の隙(ひま) 睦(むつ)みし瞳

姉らしき色 きみはありにし

 

その日 その幹の隙 睦みし瞳

姉らしき色 きみはありにし

ああ! 過ぎし日の 仄(ほの)燃えあざやぐおりおりは

わが心 なにゆえに なにゆえにかくは羞じらう……

 

(「新編中原中也全集」第1巻より。現代かなに変えました。原文の傍点は“ ”で示しました。編者。)

 

 

それにしてもこの詩は(詩人は)

なぜ、なにを、羞じらっているのでしょうか?

 

詩(人)が羞じらう理由を問うほどに

湧き立ってくる疑問のなかに

読み手も同じように立たされますが

詩(人)がその答えを知っていたとしても

読み手に答えはすぐに見つかりません。

 

謎は

永久に読み手のなかに残されるのでしょうか。

 

 

次々に

謎が立ち上ってきます。

 

とりわけ

この詩に現れる女性らしき人物の謎は

深まるばかりです。

 

 

幹々(みきみき)は いやにおとなび彳(た)ちいたり

――は、幹の擬人化ですし

 

枝々の 拱(く)みあわすあたりかなしげの

――は、枝の擬人化ですから

ともに植物の擬人化ですから

性別を問う必要はないのかもしれませんが

 

第3連、第4連に来て

姉らしき色 きみはありにし

――とルフランされる

「姉」「きみ」は

女性です。

 

男性を女性に見立てた暗喩と考えることもできるのですから

性別を問うことはないのかもしれませんが

やはり

ここは女性と見做すのが自然です。

 

 

そのひとは

どのような存在だったのでしょうか?

 

謎がますます深くなり

この詩の深み(魅力)がますます増していくから

不思議です。

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