中原中也生誕110年に寄せて読む詩・その26/「六月の雨」
冒頭連に
眼(まなこ)うるめる 面長(おもなが)き女(ひと)
――とある、
このモジリアニの絵のような女性はだれだろう。
「六月の雨」では
真っ先にこの謎にぶつかります。
すると自然に浮かんでくるのは
やはり長谷川泰子ですが……。
◇
六月の雨
またひとしきり 午前の雨が
菖蒲(しょうぶ)のいろの みどりいろ
眼(まなこ)うるめる 面長(おもなが)き女(ひと)
たちあらわれて 消えてゆく
たちあらわれて 消えゆけば
うれいに沈み しとしとと
畠(はたけ)の上に 落ちている
はてしもしれず 落ちている
お太鼓(たいこ)叩(たた)いて 笛吹いて
あどけない子が 日曜日
畳の上で 遊びます
お太鼓叩いて 笛吹いて
遊んでいれば 雨が降る
櫺子(れんじ)の外に 雨が降る
(「新編中原中也全集」第1巻より。現代かなに変えました。)
◇
この詩もまた
リアリズムの詩ではないのですから
面長の女のモデルを探すのは無理なのですが
ついつい長谷川泰子をイメージしてしまうのは
詩人が意図する意図しないに関係なく
詩人の作る(創る)詩に現れる女性が
長谷川泰子と切り離せないイメージとして
定着してしまった歴史があるから
無理もないことでもあるのです。
◇
この詩の醍醐味(見事さ)は
眼(まなこ)うるめる 面長(おもなが)き女(ひと)
――が
菖蒲(しょうぶ)のいろの みどりいろ
――という前行から連続し
菖蒲の緑が、女性の眼につながっていく
錯覚のような、めまいのような小さな混乱を
混乱ではなく統制する作りが施されているところにあり
この作りは
以後、全行にわたって展開されているところです。
仕舞いには
幼児がおもちゃの太鼓を叩いて遊ぶ
畳のうえのシーンへと移る
幻想のような
雨に見入ったことのある人なら
見覚えのあるような懐かしくはかない記憶が
よみがえってくるような
なんとも甘酸っぱいようなほろ苦いようなところです。
◇
はて、さて、
この女性への恋心を
否定することはできるでしょうか。
◇
昭和11年(1936年)の「文学界」7月号で発表された
文学界賞で選外1席となり受賞を逸した作品。
同年4月と推定される
晩年の制作です。
(「新編中原中也全集」より。)
晩年(といっても詩人29歳の年ですが)にも
泰子は歌われました。
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