中原中也生誕110年に寄せて読む詩・その28/「夏の夜」
実在感というよりも
抽象化(人工化)が進んだような女性が
やがて現われます。
女性は
桜色であり、花弁であり
ほかに何ら言及されませんが。
◇
夏の夜
ああ 疲れた胸の裡(うち)を
桜色の 女が通る
女が通る。
夏の夜の水田の滓(おり)、
怨恨(えんこん)は気が遐(とお)くなる
――盆地を繞(めぐ)る山は巡るか?
裸足(らそく)はやさしく 砂は底だ、
開いた瞳は おいてきぼりだ、
霧(きり)の夜空は 高くて黒い。
霧の夜空は高くて黒い、
親の慈愛(じあい)はどうしようもない
――疲れた胸の裡を 花弁(かべん)が通る。
疲れた胸の裡を 花弁が通る
ときどき銅鑼(ごんぐ)が著物(きもの)に触れて。
靄(もや)はきれいだけれども、暑い!
(「新編中原中也全集」第1巻より。現代かなに変えました。)
◇
3行×5連の詩は
定型を指向するものの
4-4-3-3のソネットに至っていません。
というわけで
「朝の歌」以前に作られたと推定されています。
(「新全集」)
◇
第2連以下第5連まで
あたりを払うような(!)独断的詩語の列。
読み手を拒むような難解な言葉使いは
高踏的と呼ばれるようです。
ダダっぽい感じもありますが。
◇
第1連は、しかし
明快といえば明快です。
草臥れた詩人の胸のうちを
女性の面影が通りすぎた
――というような意味でしょう。
桜色の女性は
続く連で花弁になるのですから
連続する物語を歌うようです。
ならばやはりこの詩は
桜色の女(きっと泰子でありそう)への思い(恋心)を
歌ったものといえそうです。
水田の滓(おり)
怨恨(えんこん)は気が遐(とお)くなる
――盆地を繞(めぐ)る山は巡るか?
――には歯が立たないにしても。
◇
愛は怨恨を生んだのか?
親との確執のごとき感情を
夏の夜の暑苦しさに託したのか。
親は実の親のことではなく
慈愛のメタファーでありそうです。
慈愛は恋の類義語ですから
詩人のものであってもおかしくはありません。
◇
桜色の女の優しいイメージが
最後には「暑い!」と歌われるのですから
これが恋の詩であるなら
恋心は変化していることを示すでしょう。
◇
「生活者」昭和4年(1929年)に
「詩七篇」として発表された詩の一つ。
詩人22歳の年の制作(推定)です。
7篇は、
「都会の夏の夜」
「逝く夏の歌」
「悲しき朝」
「黄昏」
「夏の夜」
「春」
「月」
――というラインアップでした。
ほとんどが「山羊の歌」に収録されたなかで
「在りし日の歌」へ配置されたのは
「春」とこの「夏の夜」だけです。
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