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2017年6月13日 (火)

中原中也生誕110年に寄せて読む詩・その33/「朝鮮女」

 



「在りし日の歌」の前章「在りし日の歌」48篇は
「骨」「秋日狂乱」につづき
「朝鮮女」を配して
中盤を超えたあたりにさしかかります。

現われる女性の像(かたち)は
いっそう泰子のイメージを離れ
恋の詩は少なくなるように見えます。



朝鮮女

朝鮮女(おんな)の服の紐(ひも)
秋の風にや縒(よ)れたらん
街道(かいどう)を往(ゆ)くおりおりは
子供の手をば無理に引き
額顰(ひたいしか)めし汝(な)が面(おも)ぞ
肌赤銅(はだしゃくどう)の乾物(ひもの)にて
なにを思えるその顔ぞ
――まことやわれもうらぶれし
こころに呆(ほう)け見いたりけん
われを打(うち)見ていぶかりて
子供うながし去りゆけり……
軽く立ちたる埃(ほこり)かも
何をかわれに思えとや
軽く立ちたる埃かも
何をかわれに思えとや……
・・・・・・・・・・・

(「新編中原中也全集」第1巻より。現代かなに変えました。)



「女」が出てくるだけで
ここで取り上げるのには戸惑いがありますが
恋とは何かを考える材料になるかもしれない
――と思う頭の中に
「むなしさ」との類似点と相違点について
どんどんどんどん考えが進んでいくのを止めることができません。

なので
ここで読むことにします。



「むなしさ」に
よすがなき われは戯女(たわれめ)
――や
それらみな ふるのわが友
――とあるようには
同一化がこの「朝鮮女」には無いように見えますが。

同一化は
まことやわれもうらぶれし
――とあるのです。

違いは
古くからの知り合いであるか
初めて見た女であるかであり
この詩では
街中で初めて見た朝鮮女性を歌ったところです。



詩(人)は
何をかわれに思えとや
――のルフランで
その感慨を述べますが。

その心の中は
まことやわれもうらぶれし
――という同一化の感情なのですから
このルフラン行(何をかわれに思えとや)が歌われたということになります。

後(あと)のルフラン
何をかわれに思えとや……
――の「……」には
詩人の万感が込められていて
さらに
詩の最終行の「…………」は
万感以上の
尽くし得ない思いの渦巻(うずまき)か
あるいは沈黙を意味するのか。

朝鮮女性の着ている服の紐が
秋風のために縒(よ)れているのだろうか?
――とふと浮かんだ疑問に
軽く立ちたる埃かも
――というもう一つの別のルフランを歌い
自ら答えを見い出したのか。

言い尽くせぬ感情と思索の爆発とを
示すしかないもののようでした。



われ(詩人)を避けるようにして去った母子でしたが
詩人はしっかりと
母子への連帯(としか言いようにない)のあいさつを
送ったのです、この詩で。

これを恋心(こいごころ)と
言ってはいけないものでしょうか。

 

 

 

 

 

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