中原中也生誕110年に寄せて読む詩・その33/「朝鮮女」
「在りし日の歌」の前章「在りし日の歌」48篇は
「骨」「秋日狂乱」につづき
「朝鮮女」を配して
中盤を超えたあたりにさしかかります。
現われる女性の像(かたち)は
いっそう泰子のイメージを離れ
恋の詩は少なくなるように見えます。
◇
朝鮮女
朝鮮女(おんな)の服の紐(ひも)
秋の風にや縒(よ)れたらん
街道(かいどう)を往(ゆ)くおりおりは
子供の手をば無理に引き
額顰(ひたいしか)めし汝(な)が面(おも)ぞ
肌赤銅(はだしゃくどう)の乾物(ひもの)にて
なにを思えるその顔ぞ
――まことやわれもうらぶれし
こころに呆(ほう)け見いたりけん
われを打(うち)見ていぶかりて
子供うながし去りゆけり……
軽く立ちたる埃(ほこり)かも
何をかわれに思えとや
軽く立ちたる埃かも
何をかわれに思えとや……
・・・・・・・・・・・
(「新編中原中也全集」第1巻より。現代かなに変えました。)
◇
「女」が出てくるだけで
ここで取り上げるのには戸惑いがありますが
恋とは何かを考える材料になるかもしれない
――と思う頭の中に
「むなしさ」との類似点と相違点について
どんどんどんどん考えが進んでいくのを止めることができません。
なので
ここで読むことにします。
◇
「むなしさ」に
よすがなき われは戯女(たわれめ)
――や
それらみな ふるのわが友
――とあるようには
同一化がこの「朝鮮女」には無いように見えますが。
同一化は
まことやわれもうらぶれし
――とあるのです。
違いは
古くからの知り合いであるか
初めて見た女であるかであり
この詩では
街中で初めて見た朝鮮女性を歌ったところです。
◇
詩(人)は
何をかわれに思えとや
――のルフランで
その感慨を述べますが。
その心の中は
まことやわれもうらぶれし
――という同一化の感情なのですから
このルフラン行(何をかわれに思えとや)が歌われたということになります。
後(あと)のルフラン
何をかわれに思えとや……
――の「……」には
詩人の万感が込められていて
さらに
詩の最終行の「…………」は
万感以上の
尽くし得ない思いの渦巻(うずまき)か
あるいは沈黙を意味するのか。
朝鮮女性の着ている服の紐が
秋風のために縒(よ)れているのだろうか?
――とふと浮かんだ疑問に
軽く立ちたる埃かも
――というもう一つの別のルフランを歌い
自ら答えを見い出したのか。
言い尽くせぬ感情と思索の爆発とを
示すしかないもののようでした。
◇
われ(詩人)を避けるようにして去った母子でしたが
詩人はしっかりと
母子への連帯(としか言いようにない)のあいさつを
送ったのです、この詩で。
これを恋心(こいごころ)と
言ってはいけないものでしょうか。
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