中原中也生誕110年に寄せて読む詩・その35/「独身者」
「独身者」には
大原女(おはらめ)が登場することから
京都を扱った作品であることを知ります。
京都といえばやはり泰子の面影が
大原女に重なるのは必然的です。
この詩の主人公の彼は
詩人の分身であることも間違いないことでしょう。
つまり、この詩は
馴れ初めのメタファーです。
遠い日を回想し
それをメタファーで表現しています。
◇
独身者
石鹸箱(せっけんばこ)には秋風が吹き
郊外と、市街を限る路(みち)の上には
大原女(おはらめ)が一人歩いていた
――彼は独身者(どくしんもの)であった
彼は極度の近眼であった
彼は“よそゆき”を普段に着ていた
判屋奉公(はんやぼうこう)したこともあった
今しも彼が湯屋(ゆや)から出て来る
薄日(うすび)の射してる午後の三時
石鹸箱には風が吹き
郊外と、市街を限る路の上には
大原女が一人歩いていた
(「新編中原中也全集」第1巻より。現代かなに変えました。原文の傍点は“ ”で示しました。編者。)
◇
独身の彼(詩人)が
湯屋(いまの銭湯)から出てきたところで
大原女が歩いているのを見た
――というだけの出来事を叙述する
いわば叙事詩ですが
絶妙な抒情感が漂う不思議な詩です。
この抒情は
どこからもたらされるものでしょうか?
そのことを追求していくと
恋ごころが見えてくるかもしれません。
◇
それにしても
彼を捉える詩人の言語感覚のユニークな(鋭い)こと!
第2連の
彼は極度の近眼であった
彼は“よそゆき”を普段に着ていた
判屋奉公(はんやぼうこう)したこともあった
――は、
叙述でありながら
リアリズムであることを超えてしまっていて
いつしか詩人の経歴の喩(たとえ)になっています。
近眼は勉強家、
よそゆきを普段着にしているというのは
ランボー風のファッションか、
あるいは親元を離れての暮らしで
衣類に普段着の持ち合わせがなかったから
あらたまった外出着をいつも着ていたことをさすのか、
判屋奉公(はんやぼうこう)は
両親のしつけが厳しかったことを表しているでしょう。
いずれも詩人の実体験の比喩です。
◇
第3連の、
今しも彼が湯屋(ゆや)から出て来る
薄日(うすび)の射してる午後の三時
――も、きっとそういう時があったのです。
京都で、遠い遠い日に。
◇
石鹸箱を湯屋に持ち込んで
湯に浸かり身体をゴシゴシ洗って外に出ると
湯上がりで火照る肌に
爽やかな秋風が吹きつけるというのも
きっと実体験。
それだけで
詩行の隅々に
いわく言い難い抒情が入り込みます。
◇
では、
彼と大原女の関係はなんなのでしょう?
大原女が
泰子の比喩であるわけがここにありますが
なぜ大原女か。
それを論理的に解こうとしたって
無理な話です。
泰子を大原女に譬える
何かしらがあったのであり
詩人の感性(天性)が炸裂したというしかありません。
◇
「在りし日の歌」の前章「在りし日の歌」の
終わり近くに「独身者」は配置されています。
大原女が歩いている姿は
いかにも遠景にありますが
それは恋の消滅というより
過去に確かに存在していたということを示しています。
遠景にありながら
くっきり鮮やかな輪郭をもつ理由(わけ)です。
この詩は
「永訣の秋」の章の「ゆきてかえらず」へ通じていきます。
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