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2017年6月17日 (土)

中原中也生誕110年に寄せて読む詩・その35/「独身者」

 

 

「独身者」には

大原女(おはらめ)が登場することから

京都を扱った作品であることを知ります。

 

京都といえばやはり泰子の面影が

大原女に重なるのは必然的です。

 

この詩の主人公の彼は

詩人の分身であることも間違いないことでしょう。

 

つまり、この詩は

馴れ初めのメタファーです。

 

遠い日を回想し

それをメタファーで表現しています。

 

 

独身者

 

石鹸箱(せっけんばこ)には秋風が吹き

郊外と、市街を限る路(みち)の上には

大原女(おはらめ)が一人歩いていた

 

――彼は独身者(どくしんもの)であった

彼は極度の近眼であった

彼は“よそゆき”を普段に着ていた

判屋奉公(はんやぼうこう)したこともあった

 

今しも彼が湯屋(ゆや)から出て来る

薄日(うすび)の射してる午後の三時

石鹸箱には風が吹き

郊外と、市街を限る路の上には

大原女が一人歩いていた

 

(「新編中原中也全集」第1巻より。現代かなに変えました。原文の傍点は“ ”で示しました。編者。)

 

 

独身の彼(詩人)が

湯屋(いまの銭湯)から出てきたところで

大原女が歩いているのを見た

――というだけの出来事を叙述する

いわば叙事詩ですが

絶妙な抒情感が漂う不思議な詩です。

 

この抒情は

どこからもたらされるものでしょうか?

 

そのことを追求していくと

恋ごころが見えてくるかもしれません。

 

 

それにしても

彼を捉える詩人の言語感覚のユニークな(鋭い)こと!

 

第2連の

彼は極度の近眼であった

彼は“よそゆき”を普段に着ていた

判屋奉公(はんやぼうこう)したこともあった

――は、

叙述でありながら

リアリズムであることを超えてしまっていて

いつしか詩人の経歴の喩(たとえ)になっています。

 

近眼は勉強家、

よそゆきを普段着にしているというのは

ランボー風のファッションか、

あるいは親元を離れての暮らしで

衣類に普段着の持ち合わせがなかったから

あらたまった外出着をいつも着ていたことをさすのか、

判屋奉公(はんやぼうこう)は

両親のしつけが厳しかったことを表しているでしょう。

 

いずれも詩人の実体験の比喩です。

 

 

第3連の、

今しも彼が湯屋(ゆや)から出て来る

薄日(うすび)の射してる午後の三時

――も、きっとそういう時があったのです。

 

京都で、遠い遠い日に。

 

 

石鹸箱を湯屋に持ち込んで

湯に浸かり身体をゴシゴシ洗って外に出ると

湯上がりで火照る肌に

爽やかな秋風が吹きつけるというのも

きっと実体験。

 

それだけで

詩行の隅々に

いわく言い難い抒情が入り込みます。

 

 

では、

彼と大原女の関係はなんなのでしょう?

 

大原女が

泰子の比喩であるわけがここにありますが

なぜ大原女か。

 

それを論理的に解こうとしたって

無理な話です。

 

泰子を大原女に譬える

何かしらがあったのであり

詩人の感性(天性)が炸裂したというしかありません。

 

 

「在りし日の歌」の前章「在りし日の歌」の

終わり近くに「独身者」は配置されています。

 

大原女が歩いている姿は

いかにも遠景にありますが

それは恋の消滅というより

過去に確かに存在していたということを示しています。

遠景にありながら

くっきり鮮やかな輪郭をもつ理由(わけ)です。

 

この詩は

「永訣の秋」の章の「ゆきてかえらず」へ通じていきます。

 

 

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