中原中也生誕110年に寄せて読む詩38/「米子」再
「永訣の秋」の16篇は
昭和11年(1936年)11月から
翌12年10月までの間に
詩誌や雑誌などに発表された詩です。
16篇のうちで
恋の別れを歌ったものは
「ゆきてかえらぬ」
「あばずれ女の亭主が歌った」
「或る男の肖像」
「米子」
――の4篇に絞ることができるでしょう。
この4篇以外には
女性が副詞句「処女の眼のように」(言葉なき歌)や
「花嫁御寮」、「奥さん」(春日狂想)などの詩語として現れますが
恋の主題とはほど遠い詩語でしかありません。
この4篇に
長谷川泰子のイメージが色濃い女性が登場することは
それだけで驚異であり
泰子との出会いが運命的であったものと言えることでしょう。
それにしても
その泰子への永訣の意味も
込められていたということになるならば
永訣とは
最後の最後の恋と言えるのかもしれません。
◇
「米子」は
「永訣の秋」の最終詩「蛙声」へ連なる5篇の
「冬の長門峡」の次に配置され
「正午―丸ビル風景」
「春日狂想」という流れの中にあります。
なぜ「米子」=よねことしたか?
ここには
詩人の言語感性のいっさいが動員されて
考えに考え抜かれたものか
あっさりと天から降りてきたものか
米子=よねことしか言いようにない
泰子の象(かたち)が籠(こも)っているような一語です。
もう一度
「米子」を読みましょう。
◇
米 子
二十八歳のその処女(むすめ)は、
肺病やみで、腓(ひ)は細かった。
ポプラのように、人も通らぬ
歩道に沿(そ)って、立っていた。
処女(むすめ)の名前は、米子(よねこ)と云(い)った。
夏には、顔が、汚れてみえたが、
冬だの秋には、きれいであった。
――かぼそい声をしておった。
二十八歳のその処女(むすめ)は、
お嫁に行けば、その病気は
癒(なお)るかに思われた。と、そう思いながら
私はたびたび処女(むすめ)をみた……
しかし一度も、そうと口には出さなかった。
別に、云(い)い出しにくいからというのでもない
云って却(かえ)って、落胆させてはと思ったからでもない、
なぜかしら、云わずじまいであったのだ。
二十八歳のその処女(むすめ)は、
歩道に沿って立っていた、
雨あがりの午後、ポプラのように。
――かぼそい声をもう一度、聞いてみたいと思うのだ……
(「新編中原中也全集」第1巻より。現代かなに変えました。編者。)
◇
もう一度、と思うこころを
恋しいといいますね。
◇
巷間に伝わる長谷川泰子のイメージと
ずいぶん違うようですが
そのような疑問は不要です。
詩人が恋していたのは
米子でしたから。
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