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2017年7月

2017年7月31日 (月)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・現代詩への確信

 

 

 

 

新川和江が小自伝「始発駅まで」を書いたのは

 

1976年6月のことで

 

第1詩集「睡り椅子」の出版(1953年)から

 

23年が経過していました。

 

 

 

この自伝の末尾に、

 

 

 

ぐらりと地軸が傾く気がした。昔、西条先生の口から、「ゲンダイシ」という言葉をはじめて

 

聞かされた時と、内容こそちがえ、同じ衝撃であった。

 

――とあり、つづけて、

 

 

 

けれども最早、途方に暮れることは無かった。「現代詩」と今こそ明瞭に表記し、発音出来

 

るという、確信のようなものをその瞬間に私は摑んでいた。それを、これからはじめるの

 

だ、と思った。

 

――と記されてある部分は重要です。

 

 

 

 

 

 

ぐらりと地軸が傾く感じは

 

「詩学」の編集に携わっていた詩人、木原孝一の言葉に接した中で得たものと記されてい

 

ます。

 

 

 

木原の言葉は、

 

 

 

新川さん、恋愛詩ひとつ書くにしても、なにか、こう、宇宙に通じるようなものを書かなく

 

ちゃ、ダメなんだよなァ

 

――というものでした。

 

 

 

この発言が1953年の「睡り椅子」発行の直後の

 

新進詩人、新川和江への「荒地」詩人のはなむけでした。

 

 

 

 

 

 

新川和江の記述で重要なのは

 

最後の部分に、

 

「現代詩」と呼べるものを

 

これから発信していくのだという確信が述べられているところです。

 

 

 

第1詩集を世に問うた時期に

 

現代詩を書くための確信が抱かれていたのです。

 

 

 

この確信は

 

20年余を経た回想として述べられましたが

 

そこに虚飾(虚偽)があるはずもなく

 

この20年余の間に

 

この確信は証明された(証明した)ことをも

 

この結語は明らかにしています。

 

 

 

 

 

 

「始発駅まで」の結語が示す時期に

 

もう少し焦点を当てて

 

新川和江の詩を読み

 

また彼女の詩人たちとの交流にも目をやりながら

 

現代抒情の行方を追ってみたくなりました。

 

 

 

 

 

 

途中ですが

 

今回はここまで。

 

 

2017年7月 1日 (土)

中原中也生誕110年に寄せて読む詩・その46/「夏日静閑」

 

 

夏日静閑」の末尾には

「一九三七、八、五」の日付があり

「文芸汎論」の昭和12年(1937年)10月特大号に発表されましたから

その夏の制作であることは確定されています。

 

生前に発表した詩で

詩人が実際に手に取って

活字になったものを読んだ最後となります。

 

この年の10月に

詩人は急逝しました。

 

 

鎌倉らしい街並みの描写。

 

最後の1行に登場する女性は

写真誌の宣伝でしょうか

映画のポスターでしょうか

写真店の掲示ですから真新しく

スタイリッシュな女性が写っていたのでしょう。

 

この女性に長谷川泰子が重なっていることに違いはなく

これを見た時彼女を思い出したに違いないのでしょうが

そうとは思わせないように

さりげなく距離感を出そうとしても

滲(にじ)み出るような1行です。

 

 

夏日静閑

 

暑い日が毎日つづいた。

隣りのお嫁入前のお嬢さんの、

ピアノは毎日聞こえていた。

友達はみんな避暑地(ひしょち)に出掛け、

僕だけが町に残っていた。

撒水車(さんすいしゃ)が陽に輝いて通るほか、

日中は人通りさえ殆(ほと)んど絶えた。

たまに通る自動車の中には

用務ありげな白服の紳士が乗っていた。

みんな僕とは関係がない。

偶々(たまたま)買物に這入(はい)った店でも

怪訝(けげん)な顔をされるのだった。

こんな暑さに、おまえはまた

何条(なんじょう)買いに来たものだ?

店々の暖簾(のれん)やビラが、

あるとしもない風に揺れ、

写真屋のショウインドーには

いつもながらの女の写真。

  

               一九三七、八、五

 

(「新編中原中也全集」第1巻より。新かなに変えました。)

 

 

「山羊の歌」の絶唱「憔悴」の「Ⅱ」「Ⅲ」に、

 

 

昔 私は思っていたものだった

恋愛詩なぞ愚劣(ぐれつ)なものだと

 

今私は恋愛詩を詠(よ)み

甲斐(かい)あることに思うのだ

 

だがまだ今でもともすると

恋愛詩よりもましな詩境にはいりたい

 

その心が間違っているかいないか知らないが

とにかくそういう心が残っており

 

それは時々私をいらだて

とんだ希望を起(おこ)させる

 

昔私は思っていたものだった

恋愛詩なぞ愚劣なものだと

 

けれどもいまでは恋愛を

ゆめみるほかに能がない

 

 

それが私の堕落かどうか

どうして私に知れようものか

 

腕にたるんだ私の怠惰(たいだ)

今日も日が照る 空は青いよ

 

ひょっとしたなら昔から

おれの手に負えたのはこの怠惰だけだったかもしれぬ

 

真面目(まじめ)な希望も その怠惰の中から

憧憬(しょうけい)したのにすぎなかったかもしれぬ

 

ああ それにしてもそれにしても

ゆめみるだけの 男になろうとはおもわなかった!

 

――とあったのを

すぐさま思い出させます。

 

「憔悴」は

昭和7年(1932年)2月の制作ですから

5年余の時が経過していますが

「夏日静閑」には

すでに帰郷の決意を固めていた詩人に

まだ倦怠と恋愛が持続していたように思わせる調べがあります。

 

この詩のウインドーの女性はしかし

印刷物に写されたコピーに過ぎず

近くにありますが

遠い存在です。
 

遠い存在でありながら

詩に登場しなければならない存在でした。

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