中原中也生誕110年に寄せて読む詩・その46/「夏日静閑」
「夏日静閑」の末尾には
「一九三七、八、五」の日付があり
「文芸汎論」の昭和12年(1937年)10月特大号に発表されましたから
その夏の制作であることは確定されています。
生前に発表した詩で
詩人が実際に手に取って
活字になったものを読んだ最後となります。
この年の10月に
詩人は急逝しました。
◇
鎌倉らしい街並みの描写。
最後の1行に登場する女性は
写真誌の宣伝でしょうか
映画のポスターでしょうか
写真店の掲示ですから真新しく
スタイリッシュな女性が写っていたのでしょう。
この女性に長谷川泰子が重なっていることに違いはなく
これを見た時彼女を思い出したに違いないのでしょうが
そうとは思わせないように
さりげなく距離感を出そうとしても
滲(にじ)み出るような1行です。
◇
夏日静閑
暑い日が毎日つづいた。
隣りのお嫁入前のお嬢さんの、
ピアノは毎日聞こえていた。
友達はみんな避暑地(ひしょち)に出掛け、
僕だけが町に残っていた。
撒水車(さんすいしゃ)が陽に輝いて通るほか、
日中は人通りさえ殆(ほと)んど絶えた。
たまに通る自動車の中には
用務ありげな白服の紳士が乗っていた。
みんな僕とは関係がない。
偶々(たまたま)買物に這入(はい)った店でも
怪訝(けげん)な顔をされるのだった。
こんな暑さに、おまえはまた
何条(なんじょう)買いに来たものだ?
店々の暖簾(のれん)やビラが、
あるとしもない風に揺れ、
写真屋のショウインドーには
いつもながらの女の写真。
一九三七、八、五
(「新編中原中也全集」第1巻より。新かなに変えました。)
◇
「山羊の歌」の絶唱「憔悴」の「Ⅱ」「Ⅲ」に、
Ⅱ
昔 私は思っていたものだった
恋愛詩なぞ愚劣(ぐれつ)なものだと
今私は恋愛詩を詠(よ)み
甲斐(かい)あることに思うのだ
だがまだ今でもともすると
恋愛詩よりもましな詩境にはいりたい
その心が間違っているかいないか知らないが
とにかくそういう心が残っており
それは時々私をいらだて
とんだ希望を起(おこ)させる
昔私は思っていたものだった
恋愛詩なぞ愚劣なものだと
けれどもいまでは恋愛を
ゆめみるほかに能がない
Ⅲ
それが私の堕落かどうか
どうして私に知れようものか
腕にたるんだ私の怠惰(たいだ)
今日も日が照る 空は青いよ
ひょっとしたなら昔から
おれの手に負えたのはこの怠惰だけだったかもしれぬ
真面目(まじめ)な希望も その怠惰の中から
憧憬(しょうけい)したのにすぎなかったかもしれぬ
ああ それにしてもそれにしても
ゆめみるだけの 男になろうとはおもわなかった!
――とあったのを
すぐさま思い出させます。
「憔悴」は
昭和7年(1932年)2月の制作ですから
5年余の時が経過していますが
「夏日静閑」には
すでに帰郷の決意を固めていた詩人に
まだ倦怠と恋愛が持続していたように思わせる調べがあります。
この詩のウインドーの女性はしかし
印刷物に写されたコピーに過ぎず
近くにありますが
遠い存在です。
遠い存在でありながら
詩に登場しなければならない存在でした。
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