カテゴリー

2024年1月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ

« 2017年7月 | トップページ | 2017年9月 »

2017年8月

2017年8月30日 (水)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊⑩堀辰雄へのわかれ

 

私が信濃追分の堀さんを訪ねたのは、戦争のはじまった年であったから、それは、たぶん、昭和16

年の8月だったと思います。

――と、秋谷豊は、堀辰雄訪問の日を回想しています。

 

油屋へ行くと、ワイシャツの袖をまくった堀さんは、麦藁帽子をかぶった姿で、旅館の庭の荒れた草花

の中に立っていました。私は緊張して何も話すこともなく、1時間ほどいましたが、堀さんはかたわらの

顔色の悪い青年と、静かな声で何やら絵の話などをしていました。

――などと続けるのですが

親しげな会話を交わすこともなく

初めてであり最後であったこの訪問はおわります。

 

「昭和の詩――芥川の死から敗戦まで」のタイトルの講演記録の中の

「若き日の詩人群像」という項で述べているのですが

この日の秋谷豊の内面を駆けめぐっていたものが

次のように表現されているのは

謎めいていながらも

やはり、わかれの言葉として読めるもののようです。

 

 

私は心の中ではじっと堀さんを見つめていました。

うつむいてばかりいましたが、

私は堀さんに会えたことで、気がしずまり、

それに満足していたのでした。

文学という幻影、それは私にとっては幻影に近いものなのでした。

 

(「抒情詩の彼方」1976年、荒地出版社。※この部分、改行を加えてあります。ブログ編者。)

 

 

この訪問の年、昭和16年(1941年)末に

太平洋戦争ははじめられました。

 

 

第2詩集「葦の閲歴」には

堀辰雄へのわかれを歌った詩と見なされている詩が二つあり

どちらの詩にも

幾分かこの訪問で得たイメージの反映があるかもしれません。

 

というよりか

この訪問で得たイメージ以前に

なにがしかの幻影、文学という幻影は

秋谷豊のなかに抱かれてあったというべきなのかもしれません。

 

 

晩春の死

      堀辰雄に

 

火の山の麓のむこうで

銃声がきこえる

あれは 街道の村に流れついた

文明の朽木であろうか

それとも黄色い日射のなかを

射たれて墜ちてくる

美の獲物であろうか

棘のある 椅子におちて

動こうとしない

神の死んだ

黒い夜の悲哀も

しばし ヨーロッパを見つめた

燈火のなかの微笑も

すべては 透いた木の実となって

永遠の岸のむこうへ

流されていくのだ

 

山つつぢの花が灼ける

やつれた午前の時

ふるえる

葉桜のくろい茂みの中に

傷ついた 鳥が ねむっている

暗い生の飛翔に疲れた

よるべない翼を やすめている

 

その荒涼の 事物のかげを

重たい咳をして あるいて行くのは

誰だろう

今日の夕焼に背を向けて行く

その人は

 

(土曜美術社「日本現代詩文庫3秋谷豊詩集」所収「葦の閲歴」より。)

 

 

堀辰雄は1953年の5月28日に

長い闘病の末に亡くなります。

 

関東大震災の年(1911年)、19歳の時に発病した

結核に斃(たお)れたのでした。

 

この詩「晩春の死」は

堀辰雄の死に触れて

秋谷豊が書いた挽歌ということになります。

 

 

葉桜のくろい茂みの中に

傷ついた 鳥が ねむっている

暗い生の飛翔に疲れた

よるべない翼を やすめている

――とある鳥は

死んだ詩人を示しているのですが

そのひとはまた、

その荒涼の 事物のかげを

重たい咳をして あるいて行く

――その人であることを歌った詩のようです。

 

 

詩の構造の

この謎のようであるのは

文学という幻影の中に

秋谷豊がいまだ存在していたことを

物語るものでしょうか。

 

死が生々しすぎて

幻(まぼろし)と見まごうほどであったからでしょうか。

 

火山の麓の銃声は

戦争のはじまりを告げている。

 

すべては

永遠の岸へ流されていく悲しみ、むなしさ――。

終連の、

重たい咳をして あるいて行く

今日の夕焼に背を向けて行く

――その人に、

秋谷豊自身の影がかぶさります。

 

 

叫びに似た声が聞こえるようですが

静かな調べです。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2017年8月29日 (火)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊⑨抒情の変革

 

 

依然、「小さな町で」の出典を確かめることができないでいますが

新たにわかってきたことどもを記しながら

秋谷豊の詩を味わうことにしましょう。

 

 

「死について」は

第2詩集「葦の閲歴」(1953年、新文明社)に配置されています。

 

その冒頭(第1連「Ⅰ」)に、

 

日毎 夏は汚れていった

短くなった日射のなかで

樹々が身ぶるいする

爽凉な栄養と

大きな日暮をすこしずつ振り落す

(以下略)

――という詩行があることを発見し

身を乗り出します。

 

この詩行の第3行から第5行までは

「蝉」の最終稿と思われる

「降誕祭前夜」(1962年)収録の「蝉」の冒頭行と同一のものです。

 

そして

「小さな町で」の冒頭行とも同一ですが

「死について」の前に配置されてある「蝉」には

存在しない詩行です。

 

この「蝉」を読まないわけにはいきません。

 

 

 

短くなった午後 枯草に黒い雨がふり雨はやがて凩とな

った 壁にひっそり掛っている 色褪せた額縁のなかの

おまえの顔 壁に映っている裸木の影 疲れて匍い出た

脱け殻は そこでしずかに燃えている

ぼくは廃園のふかい落葉のなかに 見失ったひとつの果

実をみつける 青い石に果実はあたらしいにくたいとい

となみをあたえる ぼくは果実をだいて風見のみえる野

のほうへあるいて行こう

――人よ しばらくはおまえと別れるために

 

(土曜美術社・日本現代詩文庫3「秋谷豊詩集」より。)

 

 

この詩に書き残した思い(イメージ)を

「死について」で書いただけのことでしょうか。

 

樹々が身ぶるいして

すこしずつ振り落したもの。

 

爽凉な栄養と大きな日暮は

やがて(最終稿「蝉」では)

葡萄の皿に種子ばかりを残す、のですが

実りと再生を示す、樹木の生命循環(自然の法則)を

この詩では削ぎ落とした(不要とした)だけのことでしょうか。

 

それを、次の詩「死について」や

「蝉」最終稿で復活したのでしょうか。

 

このような詩の作り方は

秋谷豊に限らず

割合広く行われていることかもしれません。

 

 

ここで再び「小さな町で」に歌われている

リルケの抒情とのわかれを想起することになります。

 

リルケの果樹園の匂ひのする抒情よ

しばらくは君と別れを告げるために

――と、その最終行にはありました。

 

この詩行に立ち返るまでもなく

「葦の閲歴」をひもといてみると

「蝉」に続いて

堀辰雄を副題にした詩が二つあることを知り

抒情の変革を迫られていた詩人の

叫びのような声を聞きます。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/「絵本『永遠』」

 

 

「孤独な出発」を書いたころ

新川和江のからだには新しい命が宿っていました。

 

1955年7月、長男誕生。

26歳でした。

 

それから丸4年

第2詩集「絵本『永遠』」は生まれます。

 

1959年、30歳。

 

 

地球社から発行されたこの詩集の

ラインアップをのぞいてみると――。

 

「生について」

「ECHO」

「死について」

「孤独な出発」

「早春」

「犬」

「眠られぬ夜」

「ありふれた略図は」

「森へ行く」

「紙片」

「期待」

――と、全24篇(「繊い枝」は1篇と計算」)のうちの前半およそ10篇が

母親になる前の詩人の苦悩に満ちた歌です。

 

「孤独な出発」は4番詩として置かれています。

 

後半部に入って

「誕生」

「扉」が現れるあたりから新しい生命がモチーフになり

子供の成長のおりふしが歌われます。

 

「るふらん」

「絵本『永遠』」

「地上」

「繊い枝」

 Ⅰ 留守居

 Ⅱ 臆病

 Ⅲ 駐車場

 Ⅳ けむり

「弱い目」

「問」

――と母親であることを自覚していく詩人が歌うのも

手放しの幸福感というものであるより

一個のいたいけない子供が

一個の人間存在である少年として出現し

彼との対等な時間のなかで

翻弄され問い惑い思索する

自身の苦味を含んだ姿のようです。

 

それは形而上学(思索)に近いものに達しますが

いつのまにか詩人が自然に赴くところは

愛です、

愛の歌です。

 

名作「Chason」が

ここで歌われます。

 

文明批評への皮肉を

たっぷりと利かせて。

 

 

「小人のジニー」

「口上」

「落差」

「自叙伝」

――は、詩集の締めの意図が含まれていて

詩の方向(未来)を暗示する

新種の作品がチャレンジされているかのようです。

 

 

詩人新川和江の長い詩歴の中でも

傑作の誉れ高い「絵本『永遠』」を

ここで読まないわけにはいきません。

(ほかにも読みたい作品が犇めいていますが)

 

すこし回り道ですが

そぞろ歩きの特典です。

 

 

絵本「永遠」

 

――帰ろうよ

あそびの途中でふいにおまえは立ちあがり

そう言い出しては

思慮浅い母親を狼狽(ろうばい)させた

おお どこへ帰ろうというのか

おまえのうまれたこの家に

つながる血を紙テープよりもたやすく断ち切り

馴れ親しんだ玩具たちを未練げもなくほうり出して

 

どんな声がおまえをよぶのか

どんな力がおまえをはげしくひきよせるのか

母親は耳そばだていっしんにききとろうとするが

相もかわらぬ蒼空(あおぞら)には

かたちにならぬ雲ばかりあって

花壇のなかには

ソルダネルのひとむらが呆(ほう)けて咲いているばかりで

春の日は永くいかにもおだやかである

 

つい今しがたまで その椅子に深く腰かけ

乳牛の話などきかせてくれた

北国のカレッジで牧草の研究をしているという

あの美しい青年は

あす チモシーのにおいのなかへ帰るという

絵本のなかの

小鳥はいつでも巣にかえり

狐は穴にもどってねむった

 

母親の知らぬまに

おまえはどんな絵本を読んだのだろう

――帰ろうよ

憑(つ)かれたようにせきたてるおまえのそばで

最早

母親は ’ (コンマ)や ・ (ピリオド)よりも微小なひとつの物体にすぎなくなる

 

(花神社「新川和江全詩集」所収「絵本『永遠』」より。)

 

 

帰ろうよ、とは

愛の逃避行へ誘う呼びかけなのではありません、よね。

 

少年の言葉は

母親をどのように撃ったのでしょうか?

 

いま=ここ(この家)以外に

帰るところであるそこは

未知の、未来の場所なのでしょうか?

 

そういう時を

おしなべて人は

どこかにあることを知っていて

少年がズバリとある瞬間に口にした――。

 

永遠が描かれている絵本。

 

 

この絵本が描かれる過程は

一人の現代抒情詩人の誕生を告げていました。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2017年8月27日 (日)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊⑧

 

 

立ち止まったり

先を急いでみたり。

 

そぞろ歩きは

気ままでありながら

興が乗れば、ささいなことにもひっかかり

あれもこれもと気が惹かれ赴くままに

どこへでもふらふらと出かけます。

 

何でもよいというのではなく

惹かれるものに一定の物差しはあるようです。

 

ゲンダイシ――。

 

 

秋谷豊が

活動の拠点を「地球」に定めたころ

詩壇の公器を目ざした「詩学」は

いよいよ活況を呈し

多くの若き詩人たちが詩学研究会に参加します。

 

木原孝一は

「詩学」の主宰者側(編集)にあり

この詩学研究会を企画、

さまざまな詩人たちと交流しました。

 

新川和江は「詩学」には参加しませんでしたが

「睡り椅子」発行の後

「詩学」が広告を出すことになり

木原孝一と面識を得ることになります。

 

 

ここで、新川和江が

「地球」に寄せた作品をもう一つ読みましょう。

 

「睡り椅子」発行の2年先になりますが

自筆年譜1955年の項に、

 

3月、「孤独な出発」を「地球」16号に書く。

――と詩人は記しました。

 

この詩を読みたくなるのは自然の流れでしょうから。

 

 

孤独な出発

 

若い駿馬を連れ出すには骨が折れる

好きなスカンポやチモシーの繁茂する牧場のにおいを

彼は忘れはしないので

代赭いろの土も露わな丘にさしかかると

やにわに飛び上り

狂熱的な素早さで逃げ戻ってしまうからだ

 

若い駿馬を捕えるには息がきれる

貪婪なにんげんの 脂にまみれた手綱など

彼はいまだに身につけていないので

この青々とした牧草地帯は

おのれの所有地

飼われるものの卑屈さで項垂れたりはせぬからだ

 

若い駿馬を眠らせるには注意が要る

星々がいつもの位置で輝きを増し

すこし魯鈍な牧夫頭が

鼻唄まじりで見廻りを教えても

牧舎の片隅

昨日に変るつめたい風が

鬣を吹き分けて通るのを

磨かれた皮膚でするどく感知するからだ

 

馬は眠らない

馬はよっぴで考える

厩の土間を

時折いらだたしげに踏み鳴らすのはそのせいだ

 

やがて

あけがたの最初の光が彼の額を射抜くとき

ただひとり 若い駿馬は出発する

白銀の山巓めざし

みずからの意志もて進む者の

倨傲なまでに美しいすがたを

逆光のなかにくっきりと浮き立たせながら

 

(花神社「新川和江全詩集」所収「絵本『永遠』」より。)

 

 

秋谷豊が見抜いた

「比喩の美しいひらめき」が

ここにも堂々と歌われていて

息を飲む見事さです。

 

わざわざ年譜の1行に記すには

相当の理由があったからでしょうが

何らの説明も記さないところに

詩人の強さみたいなものがあります。

 

 

若い駿馬に擬せられたのは

きっと詩人そのものということができるでしょう。

 

最終連の「白銀の山巓」は

すでに「冬の金魚」に

「銀嶺の雪」として歌われていることに

懸命な読み手は気づいていることでしょうか。

 

若い駿馬は

にんげんの手綱の思うがままにはならない。

 

明方の陽光にその額を浴びる時

固い誓いを反芻する。

 

あの白銀の山巓にのぼるのだ

いつかかならず。

 

逆光に浮かび上がる駿馬の

神々しいまでの立ち姿を歌い切りました。

 

詩人もまた白銀の山巓を目指すのです。

 

 

詩人は年譜に

「新しい出発」を地球に発表と記した後に

7月、長男博誕生。

――の1行を記しています。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

2017年8月24日 (木)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊⑦

 

 

新川和江が「睡り椅子」を出した少し前1950年に

第3次「地球」が出発します。

 

秋谷豊、28歳。

 

秋谷が書いた年譜には、

4月、ネオ・ロマンチシズムを唱えて「地球」創刊。

同人は、木下夕爾、丸山豊、松田幸雄、唐川富夫、小川和佑、新川和江、松永伍一ら。の

ちに、安西均、嶋岡晨、白石かずこ、風山瑕生、寺山修司、長田弘、高橋睦郎、斎藤庸

一、犬塚尭ら多くの俊秀が参加する。

――とあります。

 

新川和江が正式に同人となったのは

1954年2月発行の第11号からです。

秋谷豊公式ホームページ詩鴗館/「地球」年表より。)

以後、2017年の現在まで

秋谷亡き後も「地球」は

新川和江のホームグランドのような場所です。

 

 

新川和江が

「地球」に発表した最初の詩が

第11号の「壺」であることを

「廃墟の詩学」(中村不二夫、土曜美術社出版販売)が伝えています。

 

その「壺」に

目を通しましょう。

 

 

 

白磁の壺よ

どんな火に抱きしめられて

おまえの現在(いま)はつくられたのだろう

雪山の巓(いただき)からはこばれて来たかのような

ひややかな美しさ

 

ときどき思い出して

もだえることもあるのだろうか

火の腕のなかで

火よりもいっそう火であった

密室での あのめくるめく時間を――

 

いや 無いだろう 無いだろう

あるとすれば歪んでいて

そうして立ってはいられないはずだ

どこかが罅(ひび)われていて

悲しい水をにじませているはずだ

 

――この わたしのように

 

(花神社「新川和江全詩集」中「夢のうちそと」より。)

 

 

「比喩の美しいひらめきと、語感のやわらかさがある。」と

この詩「壺」を秋谷豊は評しているそうです。

(「山と現代詩」、「詩と思想」1998年8月。)

 

白磁の冷艶な美しさが生れてくる

始原(みなもと)への想像と

詩人の自己の苦闘(悲しみ)を重ね合わせて

堂々とした比喩。

 

その比喩が

秋谷豊の言語意識に響いたのでしょう。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2017年8月23日 (水)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊⑥

 

 

秋谷豊の詩「蝉」を

「現代詩人全集・第10巻・戦後Ⅱ」(角川文庫、鮎川信夫解説)で見つけたのは

まったく偶然でしたし、

「廃墟の詩学」(中村不二夫)に引用されている

「小さな町で」に巡り合ったのも

まったく偶然でしたが

この偶然は

日本現代詩文庫3「秋谷豊詩集」(土曜美術社)の中で

詩集「葦の閲歴」収載の詩「蝉」を見つけては

必然的な出会いと変化しつつあるようなところへ来ています。

 

「秋谷豊詩集」には

詩集「降誕祭前夜」を全篇掲載してあり

中に「蝉」があり、これは、

「葦の閲歴」中の「蝉」とは異なる「蝉」であり

「現代詩人全集・第10巻・戦後Ⅱ」中の「蝉」と同一の詩であることも知りました。

 

一つの詩との偶然の出会いは

時を置いて

必然の出会いのように振り返ることができます。

 

 

「葦の閲歴」中の「蝉」を

ここで読みましょう。

 

 

 

短くなった午後 枯草に黒い雨がふり雨はやがて凩とな

った 壁にひっそり掛っている 色褪せた額縁のなかの

おまえの顔 壁に映っている裸木の影 疲れて匍い出た

脱け殻は そこでしずかに燃えている

ぼくは廃園のふかい落葉のなかに 見失ったひとつの果

実をみつける 青い石に果実はあたらしいにくたいとい

となみをあたえる ぼくは果実をだいて風見のみえる野

のほうへあるいて行こう

――人よ しばらくはおまえと別れるために

 

(土曜美術社・日本現代詩文庫3「秋谷豊詩集」より。)

 

 

「葦の閲歴」中の「蝉」と

「降誕祭前夜」中の「蝉」とは

最終行の呼びかける相手が

「おまえ」と「きみ」の違い以外は同一であり

「小さな町で」の最終行には

リルケの果樹園の匂ひのする抒情よ

――の1行が加わっているところが際立っています。

 

「廃墟の詩学」は

「小さな町で」を紹介する中で

「地球」復刊第2号(1947年11月)への発表としていますから

歴史的表記の「小さな町で」が最も古い制作になり

次に「葦の閲歴」の「蝉」

次に「降誕祭前夜」の「蝉」の順で制作されたと見るのが

妥当であることがわかってきました。

 

 

秋谷豊は

これらの詩をバリアント(異文)として

それぞれ独立した詩と考えていたようです。

 

第2次「地球」第2号掲載(1947年)の「小さな町で」から

詩集「葦の閲歴」(1953年)収録の「蝉」へ

そして詩集「降誕祭前夜」(1962年)の「蝉」へ。

 

この改作(バージョン)の意図を辿ると

秋谷豊の詩作の遍歴が

くっきりと浮かび上がってくるはずです。

 

ネオ・ロマンティシズムという旗幟(きし)を鮮明にかかげて

同人詩誌「地球」発行に力を入れた詩人の

実作の場面での展開をここに見ることができます。



 

抒情の変革を訴えた詩人は

自作の詩へのたゆまざる変革を試みていました。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2017年8月21日 (月)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊⑤

 

 

秋谷豊は1946年12月発行の第10号で

「純粋詩」を離れます。

 

「ゆうとぴあ」(後の「詩学」)が岩谷書店から創刊されることになり

その編集に携わるためでした。

 

「ゆうとぴあ」で3年余、編集の仕事をする中の

1950年4月に、第3次「地球」を創刊します。

 

 

第1次「地球」は、

1943年3月、秋谷16歳のときに立ち上げた詩誌「ちぐさ」を

第20号をもって、「地球」と改称したもの。

 

「ちぐさ」から数えれば通巻第21号にあたるのが

第1次「地球」の創刊号になります。

 

戦時下に発行を継続し

1946年6月の第50号を最終号とし

いったん休刊します。

 

第2次「地球」は

1947年7月、復刊第1号を出しますが

秋谷の体調不調で、第2号でふたたび休刊しました。

 

この第2号に

「小さな町で」が載ります。

 

(中村不二夫「廃墟の詩学」より。)

 

 

戦地に友人が逝き、消息不明の者もあるという状況が、

 

ぼくを泣かせたのは誰

――の詩行を生んだのでしょうか。

 

 

秋谷豊は第3次「地球」創刊の年の1947年に

詩集「遍歴の手紙」を発表、

1953年に詩集「葦の閲歴」

1962年に詩集「登攀」

同1962年に詩集「降誕祭前夜」

――と創作詩集を発行していきます。

 

「葦の閲歴」発行の1953年が

新川和江が第1詩集「睡り椅子」を出した年です。

 

ここで「睡り椅子」の世界を思い出すために

中から一つを読んでおきましょう。

 

 

PRAYER  (1)

 

わたしたちの知らないどこかで

ふたたび軍備がはじまつてゐるのだらうか?

カーキ色にぬりたてた車輪を乗せて

蛇のような貨車が今日も通る

 

国電エビス駅

ミリタリズムの貨車は

こんなちつぽけな駅にとまりはしない

見向きもしないで通り過ぎる 通り過ぎる

 

通り過ぎよ 通り過ぎよ

ここにとまつてよいものは

にんげんを乗せるあたたかな電車

わたしを

逢ひたいひとのもとへはこび

日ぐれは なつかしいわが家の

実(み)のやうなあかり“ちらちら”

走りつつ見える窓のある電車

 

通りすぎよ 通りすぎよ

戦火の日にも

軍歌よ 原爆よ 重税よ

ちひさな駅にはとまらぬがよい

 

国電エビス駅

ここに

わたしの待つているのは 電車

きそく正しく止るのは 電車

 

ホームより見下せば

マーケツトのざわめき よし

レコードの流行歌 よし

道路工夫のよいとまけの声 よし

とある庭先

カンナの花にたはむれる二匹の蝶 よし

音立てず通りすぎよ 貨車

この夢 やぶるな

 

(花神社「新川和江全詩集」所収「睡り椅子」より。原詩のルビは” “で示しました。編者。)

 

 

1929年生まれの新川和江は

敗戦時、16歳。

 

1946年に結婚、

1948年に東京・渋谷区へ転居後

西條八十が出していた「蝋人形」の後継誌「プレイアド」に参加します。

 

「PRAYER (1)」は

東京に移住した直後の作品です。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2017年8月19日 (土)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊④

 

 

 

 

樹々はしずかに身ぶるいする 爽涼な栄養

と大きな夏の日暮をすこしずつ振り落す

葡萄の皿に種子ばかり残して

 

あの日 ぼくを泣かせたのは誰 枯れた梢ほ

どの影が映る書斎の壁に 薄い脱け殻たちが

眠っている あたらしいいとなみは日に日に

はげしく ぼくは果実をだいて風見(かざみ)のみえる野

のほうへあるいて行こう

 

――人よ しばらくはきみと別れるために

 

(角川文庫「現代詩人全集」第10巻・戦後Ⅱ/鮎川信夫解説」より。)

 

 

「蝉」と題したこの詩が

「小さな町で」というタイトルで

内容にも幾つかの異同があるのを

「廃墟の詩学(中村不二夫、2014年)」の中の

「戦後詩復興と抒情精神――『純粋詩』から『地球』創刊まで」という論考で知りました。

 

この論考の中に

「小さな町で」が引用されてあります。

 

 

「蝉」と「小さな町で」は

どちらが先に制作されたものでしょうか?

 

 

「戦後詩復興と抒情精神」の中では

「小さな町で」の引用の前に、

 

第二号掲載の秋谷の詩作品は、戦地で友が逝き、いまだ消息不明のままの詩友もいる、

敗戦後のそうした傷心を率直に映し出している。

――という記述があり

「地球」復刊第2号に発表されたことを明示していますから

1947年11月の発表ということになります。

 

角川文庫の「現代詩人全集・第10巻・戦後Ⅱ」は

1963年に初版発行されていますから

おそらく「小さな町で」のほうが先に制作されたようですが

これは単に発表順を制作順と想像しただけの推定です。

 

「小さな町で」は

歴史的かな遣いが見られますし

「蝉」は現代かなで表記されていますから

二つの詩の制作順序は明らかなようではありますが

断定できません。

 

編集上の必要から

新しい作品に歴史的かな遣いが使われる場合もあります。

 

 

ということですが

まず、その「小さな町で」を読んでみましょう。

 

 

小さな町で

 

樹々はしづかに身ぶるひする 爽凉な栄養と 大きな夏の日暮

をすこしづつ振り落す 葡萄の皿に 白い種子ばかり残して

 

あの日 僕を泣かせたのは誰 枯れた梢ほどの人影をうつす書

斎の壁に 蝉の脱け殻たちが眠ってゐる 沈鬱なあれらの来歴の

やうに あたらしいいとなみは日に日にはげしく 僕は肉体

の果実をいだいて風見鶏の見える町のほうへ歩いてゆかう

 

リルケの果樹園の匂ひのする抒情よ

しばらくは君と別れを告げるために

 

(土曜美術社出版販売「廃墟の詩学」所収「戦後詩復興と抒情精神」から引用。)

 

 

制作順を特定できないままですが

「蝉」と「小さな町で」の異同を見ると、

 

1、 タイトルが「蝉」という昆虫(自然)と

  「小さな町で」という場所の違い。

2、「蝉」にはない詩句「沈鬱なあれらの来歴のやうに」が

  「小さな町で」にはある。

3、「蝉」の詩行「ぼくは果実をだいて風見のみえる野のほうへあるいて行こう」は

  「小さな町で」では「僕は肉体の果実をいだいて風見鶏のみえる町のはうへ歩いてゆ

  かう」とある。果実に「肉体の」という修飾があり、風見は「風見鶏」、野は「町」になって

  いる。

4、最終連の――以後の詩行は

  「蝉」では、

  「人よ しばらくはきみと別れるために」という1行に、

  「小さな町で」は、

  「リルケの果樹園の匂ひのする抒情よ

  しばらくは君と別れを告げるために」と2行になっている。

 

――といったところです。

 

削除か、追加の

どちらかが行われたことになります。

 

 

仮に「蝉」が先に書かれたとすれば、

追加が「小さな町で」で行われたことになります。

 

そのことによって

いっそう詩の骨格が明瞭になり

詩の意図が鮮明になります。

 

(詩人のメタファーである)蝉という自然を押し出すより

僕が小さな町(野ではなく)で起こそうとする行動の未来へ

詩の重心を置く意志がはっきりしますし。

 

「沈鬱なあれらの来歴」は

蝉の過去を明らかにするとともに

日に日に激しい営み(変化)を繰り返すという現在を示して

僕のこれから(未来)の行動を促す原因がくっきりします。

 

時の流れを明確にし

起承転結を明らかにした効果があります。

 

果実に「肉体の」を加えたのは

収穫の豊穣を強調したからでしょうか、

まだ残っている身体のパワーを意味しているのでしょうか。

 

 

最終連の2行は、

「蝉」では

「人よ」と呼びかけた対象が

だれか友人たちであったかのように漠然としていましたが

「小さな町で」では

「抒情」そのもの、それもリルケの抒情であることを明かし

「人よ」の人は「君」に変えられて

しかもそれは友人たちのことではなく

「リルケ的抒情」そのことであるとの変更になります。

 

戦前に親しんだリルケの抒情(四季派的抒情)との訣別

もしくは軌道修正を宣言したことになり

詩の根底からの変成(変更)を意図したことになります。

 

これらの変成の底に

戦争の影はあり

戦後を生きる姿勢がおぼろげに見え出す仕掛けになるでしょうか。

 

 

最終連の2行、

リルケの果樹園の匂ひのする抒情よ

しばらくは君と別れを告げるために

――は、しかし

リルケ的な(四季派的な)抒情の全否定ではないようです。

 

しばらくのわかれのようです。

 

 

……。

 

さて、もし、制作順がこの逆であるなら

ぼくを泣かせたあの日のかなしい出来事を

蝉(脱け殻たち)という自然を通じて

乗り越えて行こうとする

そのわかれ(訣別)の詩(うた)ということになるのかもしれません。

 

そうなると

戦争の影は薄くなりますが。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2017年8月14日 (月)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊③

 

 

秋谷豊には「戦後詩の出発――『純粋詩』創刊の周辺」という著作(講演記録)があり

戦時下から敗戦を通じて東京近辺にいた青年詩人たちの動向を

地方在住の詩人たちとの交信を含めて

生き生きと記していますが、

中に「交書会」という聞きなれない言葉を案内して

詩人たちの交流の実際を

鮮やかに描き出しています。

 

交書会とは、

おたがいの古本を持ち寄ってそれぞれが入札して交換し合うもので、これは空襲が激しく

なっても続けられた。

――というもの。(同書。)

 

月に1回ほど、B29の爆撃をかいくぐって集まり

この交書会は行われたそうです。

 

こういう集まりは単に古本交換ばかりでなく

詩人たちの活動の状況を互いに知る情報交換の場であり

戦時下、抑圧されていた詩心を発露する場であり

詩集や詩誌発行などの詩活動が継続していたことを示す

「詩人たちの闇市」のような蠢(うごめ)きでした。

 

それは、幾分か、地下活動めいたうごめきだったでしょう。

 

 

詩人たちの集まりが

本の交換、情報交換の場になるのは必至で

秋谷豊はそれを交書会と紹介していますが

こうした動き(蠢き)の中ばかりではなく

通信によったり、別の形の集まりの中であったり、

詩誌発行の計画が生まれ

その計画は全国各地に起こったことが

現在では次第に明らかになっています。

 

敗戦直後の詩人たちの活動を

秋谷豊の著作はその一端を伝えていますし

日本現代詩人会のホームページには

「創立前史――戦火と廃墟のなかで――」がありますし

最近では「廃墟の詩学」(中村不二夫、2014年)などの労作もあります。

 

 

「純粋詩」発行の動きは

戦争末期の東京で起こり

敗戦の翌年1946年3月に創刊号を出しましたが

秋谷豊はその中心にいました。

 

「純粋詩」は

鮎川信夫、田村隆一、木原孝一、三好豊一郎、中桐雅夫といった

のちに「荒地」に結集する詩人が参加した

同年12月号で新段階に入りましたが

秋谷豊が「ゆうとぴあ」(のちの「詩学」に繋がる)の編集へ移り

「荒地」の創刊(1947年9月)とともに鮎川らが抜けてからは

社会派色の強い関根弘、井出則雄らがリードし

1948年8月号で「造形文学」と誌名を変えたころには

さらに新たな局面を迎え

「純粋詩」は終止符を打ちました。

 

関根弘は後に「列島」の創刊の主軸となりますから

「純粋詩」は

「荒地」「列島」「地球」の母体になったと言われる所以(ゆえん)が

この経過にあります。

 

秋谷豊は

この流れの中にあって

16歳の時から出していた「ちぐさ」を「地球」と改め

重心をこの「地球」に乗せるようになり

1947年7月には

「地球」復刊第1号を出します。

 

 

秋谷豊の、比較的初期の詩を

ここで読んでおきましょう。

 

 

 

樹々はしずかに身ぶるいする 爽涼な栄養

と 大きな夏の日暮をすこしずつ振り落す

葡萄の皿に 種子ばかり残して

 

あの日 ぼくを泣かせたのは誰 枯れた梢ほ

どの影が映る書斎の壁に 薄い脱け殻たちが

眠っている あたらしいいとなみは日に日に

はげしく ぼくは果実をだいて風見(かざみ)のみえる

野のほうへあるいて行こう

 

――人よ しばらくはきみと別れるために

 

(角川文庫「現代詩人全集」第10巻・戦後Ⅱより。)

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2017年8月12日 (土)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊②

 

 

戦争の終りは

戦後のはじまりだった

――というのを同義反覆であると考えるのは

早計というもので

戦争と戦後は異なります。

 

1945年8月15日を境に

戦争は過去のものになりましたが

戦後という現在がはじまりました。

 

秋谷豊の詩を

もう一つ読んでおきましょう。

 

 

漂流

 

まっくらな暴風雨の夜に出撃した艦隊は

壮大な花火だった

 

どてっ腹に魚雷命中

あたりはまっくら

一〇〇メートルの火柱をふきあげ

鋼鉄の斜面が垂直になって沈むところだ

 

おれは黒い油の海をふかぶかと流れていった

重油に汚れた顔をつきだし

おれはフカのように流れる

軍艦の亡霊と 抱き合ったまま

かなしい眼をして 死ぬのはごめんだ

だが 朝がくるまでに おれはフカの餌食になる

 

――二十年の間

おれは黒い油の海をふかぶかと流れていった

汚れた腕を波の上につきだし

何かを叫びながら

深い霧の中で

おれは現在も泳ぎつづけているのだ

 

(新潮社「日本詩人全集34・昭和詩集」より。)

 

 

この詩は

1962年発行の詩集「降誕祭前夜」にありますから

戦後17年を経過しての発表です。

 

詩の中に

20年の間とあるのは

強調と読んでよいでしょう。

 

20年もの長い間

戦闘の悪夢に苛(さいな)まれる男の現在が

表白されています。

 

戦争は終わったけれども

続いています。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

2017年8月 9日 (水)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊

 

 

 

秋谷豊(あきや・ゆたか)は

1922年(大正11年)、埼玉県鴻巣市に生れました。

 

エベレスト峰への登頂など

のちにアルピニストとしての勇名を馳せ

山岳詩や旅の詩を多数書きました。

 

木原孝一、北村太郎らと同年の生れですから

戦中派ということになり

戦争体験を歌う詩の一群を持ちます。

 

戦前に出発し

「四季」の詩人、立原道造、堀辰雄らの詩に共鳴、

戦後すぐに福田律郎らと「純粋詩」を立ち上げ

1949年にはネオ・ロマンチシズムの旗印を掲げた

「地球」という同人詩誌を創刊しました。

 

 

第1詩集「睡り椅子」を発表した直後の新川和江を

「地球」に誘い出しました。

 

どんな詩を書いた詩人か

詩を読みましょう。

 

 

夏の人

 

今日 燃えつきようとする

夏の日は

あつい画廊の壁にながれ

照り返す

ひまわりの炎のなかで

その風景だけが烈しく光る

 

 それは芥子(けし)色の原野の殺戮(さつりく)

 死の眠りにおちる沈黙の風景

 重くなった銃をかゝかえて

 人は暮れなずむ日射のなかで

 死にかけていた

 輝きと微笑に満ちたその額を

 黒い弾丸がくだき

 告げるべき意志も

 悲哀の声も

 ただ傷口のように 暗く

 地球のむこうへながれていく

 

画廊の固いドアをおして

見しらぬ人が出ていった

かたむく夏の血の中から

木立のくろい夜の中へ

その人は 街角を曲って消える

銃創の腕にこわれた楽器をさげて

 

(中央公論社「日本の詩歌27 現代詩集」より。)

 

 

戦争を経験した者が

戦後になっても

戦争の記憶を消し去ることは出来ず

平穏な日常の暮らしのふとした瞬間に

殺戮の風景がよみがえるのを止めることはできない。

 

銀座かどこかの画廊で見た

ひまわりの絵が

秋谷豊にこの詩を書かせるきっかけになったのでしょうか。

 

戦争を生きのびた詩人は

戦場での経験を

こうして戦後の暮らしの合間に思い出すのです。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2017年8月 8日 (火)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/「地球」へ

 

 

新川和江が第1詩集「睡り椅子」を発表して以降の

20余年間に残した仕事は目覚ましいものでした。

 

ここでその20余年の作品活動をざっともう一度見ておくと――。

 

1960年に、第2詩集「絵本『永遠』」

1963年に、第3詩集「ひとつの夏 たくさんの夏」

1965年に、第4詩集「ローマの秋・その他」

1968年に、第5詩集「比喩ではなく」

1971年に、第6詩集「つるのアケビの日記」

1974年に、第7詩集「土へのオード」

――などの新作詩集を次々に発表しました。

 

その足どりは

日本現代詩の一角に

歴史を刻んだと言ってもおおげさでありません、いまや。

 

 

この20余年間を

ひとくくりにして何かを言おうとすれば

「目覚ましい」という

新聞の批評のような言葉しか見当たらないほどの詩活動でした。

 

目覚ましいというのは、

詩集の発表のほかにも

第1詩集以前から手掛けていた幼年詩、少年詩の制作・発表をはじめ

各種アンソロジー(編詩集)の出版、

文学全集への詩作品の収載、

詩人以外の創作家とのコラボ、交流、

座談会・会合への参加、

ラジオ・テレビへの出演など

多彩広範な領域に渡ったということを意味します。

 

現代合唱曲への詩の提供などの共同制作や

1972年には初のエッセイ集「草いちご」(サンリオ出版)も刊行しました。

 

1975年に「新川和江詩集」が、

思潮社の「現代詩文庫64」として出版されたとき

小自伝「始発駅にて」は書かれましたが

そこには第1詩集「睡り椅子」(1953年)までの足どりが記されただけだったのには

詩人の意地のようなものすら感じることができます。

 

「まず詩を読んで!」と

詩人は主張しているように見えます。

 

 

詳細な自筆年譜が書かれたのは

「新川和江全詩集」(花神社)が発行された2000年でした。

 

この「全詩集」の年譜に現われる詩人の名を拾い

新川和江の詩と合わせて

各々の詩人の詩を読んでいけば

日本現代詩の歴史の一端をひもとくようなことになります。

 

まだ、いま、1953年。

 

日本現代詩は

戦後復興期を8年を経過した活況の中にあり

新川和江も第1詩集をその中に投じたところです。

 

前後しますが

新川和江が詩人活動の第2歩を印したのは

秋谷豊が率いる「地球」という同人詩誌でした。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2017年8月 7日 (月)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/木原孝一②

 

 

 

 

 

新川和江が木原孝一と初めて会ったとき

 

この詩「遠い国」を読んでいたかどうか

 

はっきりした事実関係はわかりません。

 

 

 

偶然に読んでいたということがあるかもしれませんが

 

その確率は低いでしょう。

 

 

 

そもそも1953年にこの詩が作られていたかどうかも

 

わかりませんし。

 

 

 

 

 

 

そうであっても

 

この詩はやがて書かれることになりますし

 

(書かれていたのかもしれませんし)

 

新川和江が読むのは必然だったということに

 

注目しておきたいところです。

 

 

 

新川さん、恋愛詩ひとつ書くにしても、なにか、こう、宇宙に通じるようなものを書かなくちゃ、ダメなんだよなァ

 

――と新川和江が記す木原孝一の言葉へ

 

「遠い国」はまっすぐに通じている

 

現代詩のモデルでした、少なくとも木原孝一のイメージでは。

 

 

 

もしも「遠い国」が手元にあったならば

 

たとえば、ほら、こんな詩と言って

 

新川和江に示して

 

現代詩のありかたについて滔々と語った

 

 

 

――と言うのは出来過ぎの想像になりますから

 

この想像は値引きして考えてほしいのですけれど

 

なんらか具体的な詩をいくつか挙げて

 

現代詩とはどのような未来に向かうべきか

 

時には酒気の勢いも借りてか

 

熱っぽく語ったことを思い描くことができます。

 

 

 

話の中に

 

T・Sエリオットやジェームス・ジョイスの名も登場したことでしょうし

 

新川和江はきっと

 

鋭い問いを投げ返し

 

木原孝一もたじたじになった場面もあったにちがいありません。

 

 

 

このようなやりとりにピッタリするのが

 

「遠い国」という詩でした。

 

 

 

 

 

 

遠い国

 

 

 

きみは聞いただろうか

 

はじめて空を飛ぶ小鳥のように

 

おそれと あこがれとで 世界を引きさくあの叫びを

 

 

 

  あれはぼくの声だ その声に

 

  戦争で死んだわかもの 貧しい裸足の混血児

 

  ギプスにあえぐ少女たちが こだましている

 

  愛をもとめて叫んでいるのだ

 

 

 

きみは見ただろうか

 

ぼくがすすったにがい蜜(みつ)を 人間の涙を

 

この世に噴きあげるひとつのいのちを

 

 

 

  あれはきみの涙だ そのなかに

 

  夢を喰う魔術師 飢えをあやつる商人

 

  愛をほろぼす麻薬売りが うつっている

 

  その影と ぼくらはたたかうのだ

 

 

 

おお なぜ

 

ぼくらは愛し合ってはいけないのか

 

ほんとうにあの叫びを聞いたなら

 

ほんとうにあの涙を見たのなら

 

きみもいっしょに来てくれたまえ

 

 

 

  遠い国で

 

  ぼくたちがその国の 最初の二人になろう

 

 

 

(角川文庫「現代詩人全集」第9巻「戦後Ⅰ」より。)

 

 

 

 

 

 

愛し合ってはいけない、などと

 

だれが言っているのでしょうか?

 

 

 

なぜこの詩が現代詩であるかは

 

この1行の登場によって決まっている、と言えるほど

 

この詩の生命線です。

 

 

 

ぼくらは愛し合ってはいけないのか

 

――と次の行、

 

ほんとうにあの叫びを聞いたなら

 

ほんとうにあの涙を見たのなら

 

――との間にある省略(飛躍)を

 

どのように解釈するかは

 

読み手に負わされています。

 

 

 

 

 

 

すぐさまナチスの殲滅(せんめつ)キャンプや

 

アメリカの原子爆弾や……

 

人智の想像を超えた破壊をもたらした世界大戦を経験して

 

人類は愛し合うことができなくなったのだというような背景を思いながら

 

この詩と向き合うことができるのでしょうが

 

詩人はそこまでのことを

 

この詩で具体的に歌っているものではありません。

 

 

 

詩人のイメージにそれはあっても

 

それを歌ってはいません。

 

 

 

そうであっても

 

戦争が歌われました。

 

 

 

この詩人に

 

戦争を避けて通ることは

 

出来ないテーマだったからです。

 

 

 

 

 

 

途中ですが

 

今回はここまで。

 

 

2017年8月 5日 (土)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/木原孝一

 

木原孝一は

1922年(大正11年)、東京生まれの詩人。

 

戦前から「VOU(バウ)」「文芸汎論」などに詩作品を発表、

戦後は「純粋詩」「荒地」のメンバーとなり

新川和江が「睡り椅子」を発表した当時は

詩誌「詩学」の編集に携わっていました。

 

1953年には31歳になり

新川和江は24歳になる年でした。

 

どんな詩を書く詩人だったか

まず、作品を読んでみます。

 

 

遠い国

 

きみは聞いただろうか

はじめて空を飛ぶ小鳥のように

おそれと あこがれとで 世界を引きさくあの叫びを

 

  あれはぼくの声だ その声に

  戦争で死んだわかもの 貧しい裸足の混血児

  ギプスにあえぐ少女たちが こだましている

  愛をもとめて叫んでいるのだ

 

きみは見ただろうか

ぼくがすすったにがい蜜(みつ)を 人間の涙を

この世に噴きあげるひとつのいのちを

 

  あれはきみの涙だ そのなかに

  夢を喰う魔術師 飢えをあやつる商人

  愛をほろぼす麻薬売りが うつっている

  その影と ぼくらはたたかうのだ

 

おお なぜ

ぼくらは愛し合ってはいけないのか

ほんとうにあの叫びを聞いたなら

ほんとうにあの涙を見たのなら

きみもいっしょに来てくれたまえ

 

  遠い国で

  ぼくたちがその国の 最初の二人になろう

 

(角川文庫「現代詩人全集」第9巻「戦後Ⅰ」より。)

 

 

ある一つの詩を初めて読むとき

なんら手がかりを持たず

まっさらのままで詩行を追うというようなことは

詩を読むほとんどの場合に当てはまることでしょうか。

 

徒手空拳で、

前知識のない状態で相対(あいたい)しますが

この詩には鑑賞の手がかりとなる

大きなカギが差し出されてあります。

 

それは

第2連に現われる

戦争です。

 

戦争で死んだわかもの

――の1行です。

 

 

戦争の経験を歌った詩であることを

すぐに理解できる詩ですが

ひと通り読み下し

何度も読み返しているうちに、

 

ぼくらは愛し合ってはいけないのか

――とか

 

ぼくたちがその国の 最初の二人になろう

――とかが

こころに響いて刻まれてくるのに気づくことでしょう。

 

 

戦争の傷を歌った詩ではあるけれど

詩人の眼差しが向かう未来へ

読み手のこころをも運んでいくような……。

 

愛の眼差しが

この詩にはありますね。

 

 

こういう詩を

木原孝一は書きます。

 

こういう詩を書く詩人に

新川和江は

第1詩集出版の直後に巡り合い

いろいろなアドバイスを受けました。

 

少し歳の離れた兄が妹に

教えを伝授しようとした感じでしょうか。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2017年8月 2日 (水)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち

 

 

新川和江が第1詩集「睡り椅子」を発表した1953年(昭和28年)を

詩人の自筆年譜で見ると、

 

4月、同じ町内に土地を見つけ、新築移転。7月、第1詩集「睡り椅子」をプレイアド発行所

から出版。序文・西條八十。秋谷豊の誘いを受け、新しい抒情詩をめざす「地球」グループ

に参加。多くの詩人たちとの交流さかんになる。

――とあります。

 

ハルキ文庫の「新川和江詩集」の年譜は

花神社「新川和江全詩集」(2000年)の年譜に比べて

記述もいっそう簡素ですが

2004年の発行であり

より相対化・客観化が進められたともいえるようですから

「始発駅まで」に触れられたゲンダイシへの確信のくだりは省略されています。

 

多くの詩人たちとの交流が活発になったとある中には

「始発駅まで」に記された

「地球」グループの詩人たちはもとより

「詩学」の編集者であった詩人・木原孝一や嵯峨信之らの名が隠れています。

 

 

「詩学」といえばすぐに思い出されるのが

茨木のり子と川崎洋が

その投稿欄「詩学研究会」で知り合い

同人詩誌「櫂」を創刊したのが

まさしく1953年でした。

 

新川和江の第1詩集「睡り椅子」は

茨木のり子らの同人誌「櫂」の創刊と同じ年に発行されたのです。

 

 

現代詩人たちが蠢(うごめ)く様子がほんの少し見えてくる

ワクワクするような時代のはじまりでした。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

« 2017年7月 | トップページ | 2017年9月 »