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2017年8月14日 (月)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊③

 

 

秋谷豊には「戦後詩の出発――『純粋詩』創刊の周辺」という著作(講演記録)があり

戦時下から敗戦を通じて東京近辺にいた青年詩人たちの動向を

地方在住の詩人たちとの交信を含めて

生き生きと記していますが、

中に「交書会」という聞きなれない言葉を案内して

詩人たちの交流の実際を

鮮やかに描き出しています。

 

交書会とは、

おたがいの古本を持ち寄ってそれぞれが入札して交換し合うもので、これは空襲が激しく

なっても続けられた。

――というもの。(同書。)

 

月に1回ほど、B29の爆撃をかいくぐって集まり

この交書会は行われたそうです。

 

こういう集まりは単に古本交換ばかりでなく

詩人たちの活動の状況を互いに知る情報交換の場であり

戦時下、抑圧されていた詩心を発露する場であり

詩集や詩誌発行などの詩活動が継続していたことを示す

「詩人たちの闇市」のような蠢(うごめ)きでした。

 

それは、幾分か、地下活動めいたうごめきだったでしょう。

 

 

詩人たちの集まりが

本の交換、情報交換の場になるのは必至で

秋谷豊はそれを交書会と紹介していますが

こうした動き(蠢き)の中ばかりではなく

通信によったり、別の形の集まりの中であったり、

詩誌発行の計画が生まれ

その計画は全国各地に起こったことが

現在では次第に明らかになっています。

 

敗戦直後の詩人たちの活動を

秋谷豊の著作はその一端を伝えていますし

日本現代詩人会のホームページには

「創立前史――戦火と廃墟のなかで――」がありますし

最近では「廃墟の詩学」(中村不二夫、2014年)などの労作もあります。

 

 

「純粋詩」発行の動きは

戦争末期の東京で起こり

敗戦の翌年1946年3月に創刊号を出しましたが

秋谷豊はその中心にいました。

 

「純粋詩」は

鮎川信夫、田村隆一、木原孝一、三好豊一郎、中桐雅夫といった

のちに「荒地」に結集する詩人が参加した

同年12月号で新段階に入りましたが

秋谷豊が「ゆうとぴあ」(のちの「詩学」に繋がる)の編集へ移り

「荒地」の創刊(1947年9月)とともに鮎川らが抜けてからは

社会派色の強い関根弘、井出則雄らがリードし

1948年8月号で「造形文学」と誌名を変えたころには

さらに新たな局面を迎え

「純粋詩」は終止符を打ちました。

 

関根弘は後に「列島」の創刊の主軸となりますから

「純粋詩」は

「荒地」「列島」「地球」の母体になったと言われる所以(ゆえん)が

この経過にあります。

 

秋谷豊は

この流れの中にあって

16歳の時から出していた「ちぐさ」を「地球」と改め

重心をこの「地球」に乗せるようになり

1947年7月には

「地球」復刊第1号を出します。

 

 

秋谷豊の、比較的初期の詩を

ここで読んでおきましょう。

 

 

 

樹々はしずかに身ぶるいする 爽涼な栄養

と 大きな夏の日暮をすこしずつ振り落す

葡萄の皿に 種子ばかり残して

 

あの日 ぼくを泣かせたのは誰 枯れた梢ほ

どの影が映る書斎の壁に 薄い脱け殻たちが

眠っている あたらしいいとなみは日に日に

はげしく ぼくは果実をだいて風見(かざみ)のみえる

野のほうへあるいて行こう

 

――人よ しばらくはきみと別れるために

 

(角川文庫「現代詩人全集」第10巻・戦後Ⅱより。)

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

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