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2017年9月 3日 (日)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊⑪もう一つの堀辰雄へのわかれ

 

堀辰雄へのわかれは

秋谷豊にとって生涯の一大事であるほどの

重要な事件でしたから

もう少し立ち止まって考えてみましょう。

 

それは

戦争を生きのびた詩人の必然でしたし

後の抒情の変革のためにも必然でした。

 

戦後詩人として生きていくために

避けて通れない断崖のようなものでした。

 

 

「ユリイカ」1971年12月号「総特集=戦後詩の全体像」に掲載された

秋谷豊「闇の時代のひとつの前奏 『地球』とその周辺」には

そのあたりの事情が明らかにされていますが

とりわけ堀辰雄にふれられた下りに

堀辰雄へのわかれの理由は述べられています。

 

 

昭和21年8月15日。戦争はおわったが、私たちの前には家も、たべものもなく、一望焼

きつくされた国土があるだけだった。堀辰雄があれほど美しく心をこめて歌った抒情の世

界は、廃墟の暗いよどみの中に沈んで、私たちもまた堀さんの文学から離れてゆくであ

ろうことを悟らずにはいられなかった。

 

 

このような文章に偶然出くわすのは

秋谷豊が、おそらくは、何度も何度も

堀辰雄や、立原道造や

ほかの「四季」派詩人たちとの「わかれ」について記録しているはずでしょうから

秋谷豊の著作を読んでいくうちに

やがて巡り合うのは必然なのでしょうが

今回、偶然に読むことになったというのは

「秋谷豊詩集」収録の「葦の閲歴」を読む過程で

「晩春の死 堀辰雄に」を読んだ流れの必然でした。

 

同詩集の中の

もう一つの「堀辰雄へのわかれ」をも

ここで読んでおくのが自然の流れです。

 

「晩春の死」を書いて

詩人は飽き足らず

もう一度、これを書く気になったのでしょう。

 

 

星ふる夜の高原にて

         再び堀辰雄に

 

   1

 

 山つつじの花期を終えた 軽井沢の町

風のなかに遠ざかっていった馬車の蹄の

音 ふるえる合歓の葉を透して 教会へ

行く山寄りの並木道が見え 枝をひろげ

た落葉松の中の黒い屋根 黒い僧服の牧

師 黒い靴 崩れた煉瓦片の上に眠って

いる白い蝶

 神の額にあかあかと燃える蝋燭を点し

ひとり壁にもたれている人よ あなたは

一体誰なのですか わが追憶の内側に 

血を枯らした日々は揺らぐばかり 夏の

日の空は遠く 蜩のこえは悲痛なるなげ

きのように 壁を破る

 牧場の木柵にパイプの煙をくゆらせる

麦藁帽子のあなた この乾草の匂うゆう

ぐれを眺めているのですか それとも行

方を失くしたあの雲のように 永遠に手

もとどかぬ人間の未来を考えているので

すか 世界は空しい時間の中にそよぎ立

つ 孤独なるあなたの祭典

 

   2

 

 白く花咲いた山寄りの並木道 怒れる

浅間が火山灰を吹きちらすゆうべ リル

ケの愛とやさしい祈りを 大きな石に腰

を掛けて考えている 楡の濃い翳のなか

に睡りつかれていた詩人 教会の窓から

夏の終りの稲妻を見た あなたをめがけ

て走ってくる あの烈しい光のような夢

 陽を洗いおとすために幹が鳴る 風は

つめたく思惟の外にうらぶれる 沈黙の

火の山は重い鉛のよう 暮れてしまった

灰色の野の果に 一本の樹木のように立

っているひとよ かりそめの旅人をよそ

おって 遠い自然のむこうをあるいて行

くその人よ あなたはどこへ行ったろう

なにを求めて去ったろう

 ああ 星ふる夜の高原地方 いちめん

の月見草の花ざかり 柵の中で永遠に眠

る あなたの寂寥は もう額に花を点さ

ない 雲もなく 太陽もない このはる

かなものの中から 次に生れてくるもの

はなんであろう

 

(土曜美術社「日本現代詩文庫3秋谷豊詩集」所収「葦の閲歴」より。)

 

 

この詩は

「晩春の死」から日をおかずに書かれた

鎮魂の詩(うた)であることに

変わりはありません。

 

死者へ送る挽歌であり

挽歌は歌う者自身への魂鎮(たましずめ)でもあるようですが

少しだけ死者との距離がおかれたかのような

静穏さが漂うようではあります。

 

そもそもその死者こそ

詩人が詩を書くきっかけになったその人でした。

 

何度も「四季」に投稿した詩人の詩は

「四季」に載ることはなかったのでしたが

詩人は堀辰雄の影響を真芯に受けました。

 

あなたは一体誰なのですか

――と、その堀辰雄が死んでも

呼びかけるに値する存在でした。

 

 

生き延びるために迫られた

詩人の抒情の変革は

第一番の課題、いわば絶対命題でしたが

乗り越えなければ先へ進めない断崖はまた

粉砕するべき敵でもなかったことは明白でした。

 

次に生れてくるものはなんであろう

――と、弱々しげに問おうとしているものの実体が見えていなくても

その存在は疑われなかったことを

この末尾の1行は示していることでしょう。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

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