新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊⑰鮎川信夫「死んだ男」
鮎川信夫は、1920年生まれ、
1986年に死亡、66歳でした。
鮎川信夫の死のすぐ後に追悼特集「さよなら鮎川信夫」は出されたのですが
この時、1922年生まれの秋谷豊は存命中でしたから、
追悼文を書けたはずでした。
なぜ秋谷豊の追悼が載らなかったのか
不思議ですから、
これは宿題としておきましょう。
それこそ
秋谷豊一流のロマンチシズムが
そうさせたのでしょうか。
◇
秋谷豊が鮎川信夫より
2歳年下であることを知りやや戸惑いますが
ここで、「荒地」同人の生年を見ておくと――。
■1919年(大正8年)生まれの黒田三郎
■1919年(大正8年)生まれの中桐雅夫
■1920年(大正9年)生まれの鮎川信夫
■1920年(大正9年)生まれの三好豊一郎
■1922年(大正11年)生まれの北村太郎
■1922年(大正11年)生まれの木原孝一
■1923年(大正12年)生まれの田村隆一
■1923年(大正12年)生まれの加島祥造
■1924年(大正13年)生まれの吉本隆明
――などとなっています。
戦争体験はそもそも
軍隊経験のあるなしや
軍隊に動員されたとしても
出征先や配属部隊、部署などによって
さまざまに異なりますが
戦中派という同時代であったことに変わりはありません。
◇
鮎川信夫の入隊体験はどんなものだったのでしょうか。
「現代詩読本」の追悼特集「さよなら鮎川信夫」巻末の年譜(原崎孝制作)で
兵役期間の記録をひろっておきましょう。
◇
1942年 22歳
9月、早稲田大学英文科を3年で中退。
10月、東部第7部隊(近衛歩兵第4聯隊)に入隊。
1943年 23歳
4月24日、宇品港を出てスマトラへ転属となる。
5月半ば、スマトラに到着。「遺書のつもりで残して来た詩(註=《橋上の人》)が活字になってはるばると
南方の陣地に送られてきたときの驚きと感激を、今も忘れえないでいる」と後年鮎川は書いている。
1944年 24歳
5月、傷病兵としてスマトラより内地送還となる。6月18日大阪港到着。
帰還後、大阪陸軍病院、金沢陸軍病院を経て福井県三方の傷痍軍人療養所に入る。
1945年 25歳
療養所内にて「戦中日記」を書く。
4月、外泊先の岐阜県郡上郡八幡町より退所願いを出し、「二度と戻らない」と決心をする。
8月、福井県大野郡石徹白村で敗戦を迎える。
◇
秋谷豊は同時代をどのように見ていたか。
「現代詩五五年の証言
―日本の詩人が見えてくる―」(日本現代詩人会のウェブサイト)で
次のように語っています。
◇
僕なんかの詩の出発点というのかな、僕らの時代というのは、詩の投稿というのがわりあい盛んだった
のです。その頃の雑誌に「若草」とか「文芸汎論」というような雑誌がありまして、あと「日本詩壇」とか、
そういう雑誌もあったように思います。
したがって僕の同時代というのは、お名前が上がった鮎川信夫さんとか、いわゆる「荒地」を構成する詩
人たちですね、だいたい大正一〇年前後の詩人たちで、もう一つの特色は、彼らは軍隊経験を持って
いるということでしょうね。僕も軍隊に入ってますけれども、僕は兵隊ですから。しかし「荒地」の連中とい
うのはみんな将校なんですよね、田村隆一さんも海軍少尉でしたし、北村太郎さんは海軍中尉ですか。
そして、そうしたなかで、しかし彼らもやっぱり投稿家の詩人であったわけです。それはかつて昭和一三
年、一四年、一五年、あるいは戦中にかけての時代ですけれども、そのなかでたった一人、俺は投稿し
ないという人がいて、それは「荒地」に属していた木原孝一さんです。彼は、俺は投稿詩人じゃねえぞ
と、盛んに威張ってましたけれど。彼は、年少にして「VOU」という雑誌に入るわけですけれども。僕自
身の詩の出発点というのは、そういうところから始まったわけです。
(※読みやすくするために、改行を加えました。編者。)
◇
戦前から詩を書いていて
全国誌であった「若草」とか「近代詩苑」とかの
詩の雑誌にたいがいは投稿していたというところで共通していたことや
みんなが軍隊にとられるところでも共通していました。
(吉本隆明だって、勤労動員されていますし。)
「若草」は
鮎川信夫が鮎川信夫の名前ではじめて詩を発表した雑誌でした。
◇
鮎川信夫が戦後になって書いた
いまや記念碑的な作品を
ここで読んでおきましょう。
◇
死んだ男
たとえば霧や
あらゆる階段の跫音のなかから、
遺言執行人が、ぼんやりと姿を現す。
――これがすべての始まりである。
遠い昨日……
ぼくらは暗い酒場の椅子のうえで、
ゆがんだ顔をもてあましたり
手紙の封筒を裏返すようなことがあった。
「実際は、影も、形もない?」
――死にそこなってみれば、たしかにそのとおりであった
Mよ、昨日のひややかな青空が
剃刀の刃にいつまでも残っているね。
だがぼくは、何時何処で
きみを見失ったのか忘れてしまったよ。
短かかった黄金時代――
活字の置き換えや神様ごっこ――
「それが、ぼくたちの古い処方箋だった」と呟いて……
いつも季節は秋だった、昨日も今日も、
「淋しさの中に落葉がふる」
その声は人影へ、そして街へ、
黒い鉛の道を歩みつづけてきたのだった。
埋葬の日は、言葉もなく
立会う者もなかった、
憤激も、悲哀も、不平の柔弱な椅子もなかった。
空にむかって眼をあげ
きみはただ重たい靴のなかに足をつっこんで静かに横わったのだ。
「さよなら。太陽も海も信ずるに足りない」
Mよ、地下に眠るMよ、
きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか。
(現代詩文庫9「鮎川信夫詩集」より。)
◇
Mとは
早稲田の学友であり
第一次「荒地」の詩友であった森川義信のことです。
森川義信は
ビルマ戦線で戦病死しました。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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