新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊⑫戦争
家も、たべものもなく、一望焼きつくされた国土があるだけ
――と、秋谷豊が記した8・15は
特別に秋谷だけのものではなかったはずでした。
敗戦国であれ戦勝国であれ
戦争に参加した多くの人々は
荒涼とした廃墟にたたずみ
このような感慨を抱いたはずでした。
詩人は、
生活者が普通に抱くこうした感慨とともに
廃墟の中で
堀辰雄があれほど美しく心をこめて歌った抒情の世界、
その文学との離別を覚悟していました。
自らの詩の方向の
変革を迫られたのです。
◇
昭和18年(1943年)10月、学徒出陣。
銃をかついだ自らを嘲りながら
夜の中にひとりずつ姿を消していったのだ
――という鮎川信夫の詩を引きながら
秋谷豊は親友、那辺繁のフィリッピン山中での戦死を記します。
(※鮎川信夫の詩集「橋上の人」収録の「アメリカ」からの秋谷の引用。現代詩文庫9「鮎川信夫詩集」で
は、「そして銃を担ったおたがいの姿を嘲りながら ひとりずつ夜の街から消えていった」とあります。)
那辺繁は
「地球」の前身「千草」からの創刊同人でした。
◇
「地球」の同人は全部で20名だったが、那辺、川俣栄一、加藤宗明、林羊太郎など大半は戦死してし
まった。
(「ユリイカ」1971年12月号「総特集=戦後詩の全体像」収録の秋谷豊「闇の時代のひとつの前奏 『地球』とその周辺」より。)
◇
やがて、秋谷自らも徴兵されます。
日本現代詩文庫3「秋谷豊詩集」の年譜から
一部をひろって見ましょう。
◇
1943年(昭和18年) 21歳
12月、矢崎波豆江と結婚。五反田のアパートでくらす。間もなく応召。南方要員として部隊はサイパン
に向かったが、私のみ召集解除。
1944年(昭和19年) 22歳
6月、フィリッピン派遣軍報道班に加わり出発することとなったが、前々日に中止命令。(略)
1945年(昭和20年) 23歳
3月、空襲のなかで長女恵子を失う。生後21日目。
◇
詩の同人や友人を戦地で失い
生れたばかりの子どもを空襲で失ったという経験は
詩の在り方への変革の意志を
いっそう強固にしてゆきました。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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