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2017年10月

2017年10月30日 (月)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊<32>「純粋詩」の北村太郎「センチメンタル・ジャアニイ」

 

 

前回紹介した「センチメンタル・ジャーニー」(滅びの群れ……)を

 

「純粋詩」発表作品としたのは

 

どうやら間違いのようで

 

「純粋詩」に発表したのは

 

現代詩文庫収録の1番目の「センチメンタル・ジャーニー」(私はいろいろな街……)でした。

 

 

 

「北村太郎の全詩篇」(飛鳥新社)には

 

「センチメンタル・ジャーニー」(滅びの群れ……)は1949年の執筆・発表としつつ

 

発表されたメディアの記述がありませんが

 

「純粋詩」自体が1949年には「造形文学」に改題されていますから

 

そもそも「純粋詩」は存在しておらず

 

したがって発表はありえないことがわかりました。

 

 

 

「純粋詩」が「造形文学」へと改題されたのは1948年9月号からで

 

「荒地」の詩人たちは

 

「純粋詩」の最終号(同年8月号)まで発表したのですが

 

「造形文学」への発表は控えたはずです。

 

 

 

 

 

 

この二つの「センチメンタル・ジャーニー」は

 

1948年から1949年にかけて制作され

 

一つは「純粋詩」に発表されたことは確かですが

 

もう一つがどこに発表されたのかを調べましたら

 

「詩学」1949年6・7月号初出ということがわかりました。

 

(「北村太郎の全詩篇」巻末の書誌・初出一覧で確認。)

 

 

 

 

 

 

北村太郎が「純粋詩」にかかわりをもったのは

 

1946年12月、田村隆一の呼びかけで

 

鮎川信夫、中桐雅夫、木原孝一とともに神田に集合したあたりとされています。

 

 

 

「純粋詩」の創刊が

 

この年の3月。

 

 

 

そして同じ年の9月(第7号)に

 

田村隆一が詩「審判」を発表したのを皮切りに

 

12月(第10号)には、三好豊一郎、鮎川信夫、北村太郎、木原孝一、中桐雅夫らが

 

いっせいに「純粋詩」へ寄稿します。

 

 

 

北村太郎が「純粋詩」に初めて詩を発表したのは

この第10号の「亡霊」で

 

以後、1947年6月(第16号)に「Amoros ma non toroppo

 

1948年3月(第24号)「沈黙」

同7月(第26号)「センチメンタル・ジャアニイ」と発表していきます。

 

 

初めて詩を発表した第10号からまもなく

 

翌1947年3月(第12号)からは「詩壇時評」を担当し「頑固な精神」を発表

 

4月、評論「孤独への誘い」

 

5月、「投影の意味」

 

8月、「伝統の否定」

 

9月、「『変身』について」と次々に散文(評論)を発表

 

9月には、編集委員に名を連ねますから

 

この時期、北村太郎の執筆活動の重心は「純粋詩」にあったと見てもおかしくはないほどの集中でした。

 

 

 

一方でこの9月に

 

月刊「荒地」(第2次)の創刊にも加わり

 

まもなく年刊「荒地詩集」が

 

鮎川信夫、田村隆一、黒田三郎、三好豊一郎、北村太郎により計画されていきます。

 

 

 

 

 

 

ということで北村太郎が

 

「純粋詩」に発表した「センチメンタル・ジャーニー」を

 

ここで読んでおくことにしましょう。

 

 

 

 

 

 

センチメンタル・ジャーニー

 

 

 

私はいろいろな街を知っている。

 

黴くさい街や、

 

日のひかりが二階だけにしか射さない街を知っている。

 

それでも時には、

 

来たことのない灰色の街で電車から降りることがある。

 

私はいらいらして写真館をさがす。

 

そして見つけだすと、

 

(それは殆ど街はずれにあるのだが)

 

そのまえに止り、

 

片足でぱたぱたと初めての土地を踏んでみるのだ。

 

ゴム靴がうつろに鳴り、

 

一度も会ったことのない少女の幻影が、

 

ガラス越しに街の象徴を私にあたえてくれる。

 

私はただの通行人。

 

しかし私はもっと素晴らしい街にいたらと踏んでみながら思うのだ。

 

東京、

 

ヴェネチア、

 

ニューヨーク、

 

靴を鳴らしてみたいのだ。

 

パンで苦しむ私の顔が月光のショウウィンドウをのぞきこむ。

 

パイプが手から舗道に落ちる。

 

パリの貧民窟。

 

そこの写真館でなぜ私の空の心が愛に充ちわたらないわけがあろうか。

 

私はただの通行人。

 

いまから四年前には、

 

黄色い皮膚の下に犬の欲望をかくして、

 

旅順の街を歩いていた。

 

 

 

私は歩くのが好きだ。

 

私はいろいろな街を知っている。

 

朝になると、

 

賭博狂やアルコール中毒の友だちと同じ眼つきで、

 

私のねじれた希望のように

 

窓から雑閙の街へぶらさがっているゴム靴を見つめるのだ。

 

 

 

(現代詩文庫61「北村太郎詩集」より。)

 

 

 

 

 

 

先に読んだ「センチメンタル・ジャーニー」(滅びの群れ……)と

 

この「センチメンタル・ジャーニー」は

 

第1詩集である「北村太郎詩集」(1966年)では

 

5章に分けられた章の「1」の中に並べられてあり

 

こちらが先に置かれていますから

 

おそらくはこちらが先に制作されたものでしょうが

 

いずれにしても

 

「純粋詩」の時代から「1951年版荒地詩集」までの時代に作られ

 

さらにもう一つある「センチメンタル・ジャーニー」(すばらしい夕焼けだ!)が

 

「4」に配置されて分け隔てられていることには

 

多少の意味がありそうです。

 

(ここでそのことに触れている余裕はありませんが。)

 

 

 

 

 

 

私はいろいろな街を知っている。

 

――とはじまる詩の世界は

 

その世界が入り込みやすいものである世界であると感じながら

 

結末の

 

窓から雑閙の街へぶらさがっているゴム靴を見つめるのだ。

 

――へと至るにおよんでは

 

はて、何が書かれてあったのだろうと

 

ふたたび冒頭にもどり

 

中の詩行をたどり直し

 

何度も何度もそれを繰り返すという

 

例によって、あの……

 

それが現代詩を読むという困難と快楽(のようなもの)のなかにあります。

 

 

 

いらいらして写真館をさがす

 

――とは、なんだろう?

 

 

 

なにを暗喩しているのだろう?

 

 

 

はじめの問いが浮上してきます。

 

 

 

 

 

 

写真館は街の玄関口のようなもの? 

 

鏡のようなもの? と詩は導こうとしているのか。

 

 

 

一度も会ったことのない少女の幻影

 

――が私に与えてくれる街の象徴。

 

 

 

その私は

 

4年前には犬の欲望をかくして

 

旅順の街にいた、歩いていた。

 

 

 

 

 

 

旅順は

 

北村太郎が海軍に入って赴いた任地でした。

 

 

 

通行人は

 

旅順という街を歩いたことがありました。

 

 

 

私はただの通行人。

 

――というルフランは

 

私はいろいろな街を知っている。

 

――というもう一つのルフランと

 

このように呼応しています。

 

 

 

 

 

 

最終行の、

 

窓から雑閙の街へぶらさがっているゴム靴

 

――は、きっと、詩の現在であるにちがいありません。

 

 

 

街の朝。

 

 

 

雑踏のなかにぶら下がっているゴム靴を

 

幻のように真実(まこと)のように詩人は見て

 

旅を続けています。

 

 

 

センチメンタル・ジャアニイ。

 

 

 

 

 

 

この詩が「純粋詩」に発表されたときには

 

「センチメンタル・ジャアニイ」であったものを

 

1951年発行の「荒地詩集」に再発表したときか

 

第1詩集である「北村太郎詩集」(1966年)のときかに

 

「センチメンタル・ジャーニー」と表記し直したのでしょう。

 

 

 

ちなみに

 

角川文庫の「現代詩人全集・第9巻・戦後Ⅰ」(1960年、村野四郎・編)に収録されているのは

 

「センチメンタル・ジャアニイ」(すばらしい夕焼けだ!)です。

 

 

 

 

 

 

途中ですが

 

今回はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

2017年10月28日 (土)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊<31>「純粋詩」の北村太郎「センチメンタル・ジャーニー」

北村太郎は
「センチメンタル・ジャアニイ」を
「純粋詩」第26号(1948年7月)に載せていますが
この「センチメンタル・ジャアニイ」が
現代詩文庫61「北村太郎詩集」収録の
三つの「センチメンタル・ジャーニー」のどれなのか
断定できないでいましたが
「北村太郎の全詩篇」(飛鳥新社、2012年発行)を入手し
ようやく確かめることができました。


断定できないのは
「純粋詩」を読むことができていないからですが
「北村太郎の全詩篇」の巻末年譜の
「1948年(昭和23年) 26歳」の項に
<この年の執筆・発表作品>の付記があり
ここに「センチメンタル・ジャーニー(私はいろいろな街……)」とあり
1番目の詩であることが確認できました。


(※「純粋詩」発表の「荒地」作品一覧が、中村不二夫「廃墟の詩学」にあり、この一覧中の「センチメンタル・ジャアニイ」の表記をもとにこのブログを書き進めています。現代詩文庫の「北村太郎詩集」も「北村太郎の全詩篇」も、「センチメンタル・ジャーニー」の表記であるため、「センチメンタル・ジャアニイ」がどれなのか、特定できないでいました。編者。)



とはいうもののここでは
2番目の「センチメンタル・ジャー二―」を読むことにしました。



センチメンタル・ジャーニー


滅びの群れ、
しずかに流れる鼠のようなもの。
ショウウィンドウにうつる冬の河。
私は日が暮れるとひどくさみしくなり、
銀座通りをあるく、
空を見つめ、瀕死の光のなかに泥の眼をかんじ、
地下に没してゆく靴をひきずって、
永遠に見ていたいもの、見たくないもの、
いつも動いているもの、
止っているもの、
剃刀があり、裂かれる皮膚があり、
ひろがってゆく観念があり、縮まる観念があり、
何ものかに抵抗して、オウヴァに肩を窄める私がある。
冬の街。


なぜ人類のために、
なぜ人類の惨めさと卑しさのために、
私は貧しい部屋に閉じこもっていられないのか。
なぜ君は錘りのような涙をながさないのか。
大時計の針がきっかり六時を指し、
うつろな音が雑閙のうえの空に鳴りわたる。
私はどうすればいいのか、
重い靴をはこぶ「現在」と、
いつか、どこか解らない「終りの時」までに。
鼠よ、君は私にとって何であり、
君の髭は私にとって何であるのか。
すぎゆく一日の客の記憶、
大時計のうしろに時間があり、
時間のうしろに凍りついた私の人生がある。
さびしい私の父、
私の兄弟の跫音がある。
街をあるき
地上を遍歴し、いつも渇き、いつも飢え、
いつもどこかの街角でポケットにパンと葡萄酒をさぐりながら、
死者の棲む大いなる境に近づきつつある。


(現代詩文庫61「北村太郎詩集」より。)



読んでの通り
タイトルはセンチメンタル・ジャーニーと現代表記ですが
本文のカタカナ部分は旧カナが残っています。


これも断言できないことですが
「純粋詩」に発表した時の表記が
歴史的かな遣いであったかどうか。


本文中のショウウィンドウやオウヴァが旧表記のままで
ショーウィンドーやオーバーに直されていないのもやや気になります。


センチメンタルジャーニーは3作あるため
タイトルだけは統一したということでしょうか。


この詩の風景が
どこにでもある戦後の風景であるというより
東京の銀座の風景であることが
なんとも強く印象に残る詩です。


詩人は
銀座の隣り町(といってよいであろう)浅草の金竜小学校を卒業し
深川の府立三商で青春時代を送ったのですし
やがて銀座の隣り町である築地の朝日新聞社に勤務することになるのですから
ショウウインドウや銀座通りや大時計……が
きわめて馴染み深い風景であることを
東京を多少なりとも知っている人なら
想像するのは自然の成り行きというものでしょう。


そういう角度で読むと
ぐんと親近してくる詩ですが。



そもそもこの詩から
そのようなリアルな場所の描写を読み込むのはナンセンスかもしれませんが
詩に入り込む糸口をここに見つける自由が
読者に残されていると言ってしまえば
おこがましいことでしょうか。


現代詩文庫の解説で
詩人の鈴木志郎康が
北村太郎の詩集を読んでいて
「レインコートの襟を立てて」という詩行に出合って
「私が生活しているのと同じ現実に生きている男の言葉」を感じ取ったことを書いていますが
それと似たようなことを
大時計に見い出し
銀座通りやショウウインドウや……
冬の河や雑閙のうえの空……に感じ
それでいながら
それから奥の詩の内部に入って行くことの困難に直面し
何度も何度も詩行を追いかけていることに気づきます。



詩の入口のあたりで戸惑うことは多いのですが
北村太郎の詩は
比較的に難解な言葉使いがない(鈴木志郎康)ということらしく
それどころか想像しやすい詩語が散りばめられていると言えるのでしょうか
詩へ親近する仕掛けのようなものが
意識的に配置されているようです。



そうしていつのまにやら
詩のなかに入り込んでは……。


なぜ人類のために、
なぜ人類の惨めさと卑しさのために、
私は貧しい部屋に閉じこもっていられないのか。
なぜ君は錘りのような涙をながさないのか。
――とか
鼠よ、君は私にとって何であり、
君の髭は私にとって何であるのか。
――とかの問い(この問いは詩人が詩人に問う問いですが)のなかの
人類、私、君、鼠の関係に思いをめぐらせることになります。


ここらあたりまでくれば
あとは詩の流れに身をまかせるしかなく
詩の跳躍や反転や迂回や……
詩行の赴くままに
こちらも跳躍し反転し迂回し
どこまで詩のこころと自身を重ねることができるか
まったくできないままに終ることも含めて
詩への終わりなき旅を続けることになるようです。




途中ですが
今回はここまで。

2017年10月25日 (水)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊<30>「純粋詩」の中桐雅夫「幹の姿勢」続

 

 

 

僕らはこれからどうすればよいだろうか。太平洋戦争が終ったとき、僕らは不覚にも、すぐ

愉快な時代が始まるものと考えた。それは馬鹿げた錯覚であった。

 

終戦以来2年、事情はなにも変っていない。僕らの考えが自由に発表できるようになったこ

とが、大きな変化であったけれども、ぼくらの周囲の日本人は前と同じだ。

 

 

中桐雅夫がこのように記したのは

1947年10月発行の「荒地」(第2次)誌上の

「lost generationの告白」の中でした。

 

この告白は

つぎのように結ばれています――。

 

 

僕らは詩を書くということによって僕ら独自の使命をこの日本社会にもっているのである。

政治の将棋の歩にあることでもなければ、自分の塔にとじこもって外をみないという態度で

もない――そういう姿勢で詩を書いてゆくむなしさを考えると、僕らは戦争中だけではな

い、これからもずっとロスト・ジェネレイションであらねばならぬのだと思われるのである。

 

(現代詩文庫38「中桐雅夫詩集」より。原文の漢数字を洋数字に変え、改行・行空きを加

えました。編者。)

 

 

ロスト・ジェネレイションについての記述は

この評論(告白)の中で

ほかにも幾つか現われます。

 

「告白」が宣言であるかのような役割を果たす

不思議な記述のように見えますが

読み返すうちにだんだん核心に近づくようです。

 

 

僕らの雑誌は太平洋戦争のはじまった翌年、1942年(昭和17年)夏、なんとなくやめてし

まった。こういう時勢に雑誌を続けてゆくことが無意味に思えたのである。

 

それからの憂鬱だった4年間!

 

僕らはときどき集っては、兵隊に行った不運な仲間を思いながら、愚劣な戦争詩の悪口を

言ってすごした。

 

僕らはロスト・ジェネレエションとして戦争の期間をすごしたのである。

 

(同。)

 

 

「lost generationの告白」は

中桐雅夫が「幹の姿勢」を「純粋詩」に発表したときから

およそ半年後に書かれました。

 

ですから「幹の姿勢」は

ロスト・ジェネレイションの姿勢に

ストレートに繋がっていると言えそうです。

 

この流れのなかで「幹の姿勢」をもう一度読むと

見えてくるものがあります。

 

 

幹の姿勢

 

風を追いかけ。風を追い越し。

ある地点に。ぴたり。ととまる。

とまる否や。

猛烈な速度で戻ってくる。

見よ。無数の獣。

火の獣が駆けめぐる。

 

焔。喘ぐ焔。

夜空に。高き。低き。焔みな一つに固まり。

激しく。空気をつん裂く。と思えば。

ふたたび八方に飛び散り。

あたらしい血に舌なめずる。神々の嵐。

その無際限な成長力。

無秩序ないのちの奔騰。

わたしは堪えかねて。

眼を瞑り。

眼をひらいた。

 

ひとつひとつに名の刻まれた。

わたしの書物。わたしの食器……。

すべてのものは「世界」の中へ投込まれ。

誰の手も届かぬところで。

一心に狂っている。

いまはもう。

わたしのものではないわたしのもの。

わたしのものではない「世界」のもの。

わたしは。いわば。

それらすべての怨霊を背景(ばっく)に。

佇んでいるのだ。この。

昧爽のひととき。

花も葉も焼け落ち。

くろく焦げ残っている幹の姿勢で。

 

(現代詩文庫38「中桐雅夫詩集」より。)

 

 

終連の末尾2行、

花も葉も焼け落ち。

くろく焦げ残っている幹の姿勢で。

――が戦後の焼け跡に立つ樹木をとらえたものであるにしても

では、前半部は何を歌っているのでしょうか。

 

 

焔(ほのお)が大地を蹂躙する様を

無数の獣、火の獣が駆けめぐると喩(たと)えた第1連が、

あたらしい血に舌なめずる。

神々の嵐。

その無際限な成長力。

無秩序ないのちの奔騰。

――とある第2連へと展開するのに

立ちどまらざるを得ません。

 

 

これらの詩行が訴える

戦争そのものの猛威、

そのメタファー。

 

地獄を見る詩人のまなざしが

一瞬、神々の嵐を映し出します。

 

そのイロニー。

 

その黙示録的な(といってよいのか)詩人の想像力。

 

詩人は

その光景に手も足も出せずに

眼をつむり

そして眼を開けるのです。

 

 

「lost generationの告白」の書き出しを

ここで読んでおきましょう。

 

 

満州事変の勃発したのは1931年(昭和6年)9月のことで僕は満12歳に1箇月足りな

かった。日華事変は1937年(昭和12年)7月に始まったが、このとき僕は満17歳と9箇

月であった。太平洋戦争が始まった1941年(昭和16年)12月には、僕はやっと満22歳

と2箇月になっていた。

 

言いかえれば、僕は、そして僕らの仲間もまた、少年期から青年期にかけての、大凡15

年という重要な期間を、まったく戦争のうちにすごしてきたのである。

 

(同。)

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2017年10月21日 (土)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊<29>「純粋詩」の中桐雅夫「幹の姿勢」

 

中桐雅夫が発行していた詩誌「LUNA」に

鮎川信夫が入ったのは

1937年夏のことで

「新領土」に入ったのは1938年のはじめだった

――というようなことを鮎川信夫が記述しています。

 

(現代詩文庫38「中桐雅夫詩集」解説「中桐雅夫について」。)

 

中桐雅夫は神戸高商在学中で

鮎川信夫は早稲田第1高等学院に在学中で

「新領土」への参加が

LUNA」への参加より後のことでした。 

 

鮎川信夫はこの頃「荒地」の刊行を準備していましたから

これら詩誌への関わりは

複雑に引っ張り合い反発しあっていたのかもしれませんが

LUNA」への加入は「一生の一大事」であったと

後に鮎川が振り返る意味を看過できません。 

 

LUNAクラブ」が

「荒地」の母胎といわれる由来が

ここにあります。

 

 

戦時色が

 

刻々濃くなっていく時代でした。 

 

詩人たちは

 

そして

 

戦争に動員されてゆきます。 

 

 

 

戦後になって

 

福田律郎や秋谷豊が発行した「純粋詩」へ

「荒地」の詩人たちは続々と作品を発表します。 

 

中桐雅夫が「純粋詩」に発表した詩を

 

読んでみましょう。 

 

 

 

幹の姿勢 

 

風を追いかけ。風を追い越し。

 

ある地点に。ぴたり。ととまる。

 

とまる否や。

 

猛烈な速度で戻ってくる。

 

見よ。無数の獣。

 

火の獣が駆けめぐる。

 

焔。喘ぐ焔。

 

夜空に。高き。低き。焔みな一つに固まり。

 

激しく。空気をつん裂く。と思えば。

ふたたび八方に飛び散り。

あたらしい血に舌なめずる。神々の嵐。

 

その無際限な成長力。

 

無秩序ないのちの奔騰。

 

わたしは堪えかねて。

 

眼を瞑り。

 

眼をひらいた。

 

ひとつひとつに名の刻まれた。

 

わたしの書物。わたしの食器……。

 

すべてのものは「世界」の中へ投込まれ。

 

誰の手も届かぬところで。

 

一心に狂っている。

 

いまはもう。

 

わたしのものではないわたしのもの。

 

わたしのものではない「世界」のもの。

 

わたしは。いわば。

 

それらすべての怨霊を背景(ばっく)に。

 

佇んでいるのだ。この。

 

昧爽のひととき。

 

花も葉も焼け落ち。

 

くろく焦げ残っている幹の姿勢で。 

 

(現代詩文庫38「中桐雅夫詩集」より。) 

 

 

一読して

 

モダンというか

 

モダニスティックというか

 

実験の意欲が剥き出しになったようなこの作り(表記)に

 

どのような意味があるのか

 

ここで深く追求するつもりはありません。 

 

バイオリンのピッチカート奏法のような

 

(といっただけで、何かの意味を与えてしまいそうですが)

 

一語一語を区切って発語することが

 

確乎とした響きの効果をあげるのを

 

詩人は意図したのでしょうか。 

 

 

 

詩の終りに

 

昧爽(まいそう)とあるのは

 

「明け方のほの暗い時」という意味で

 

この詩が歌っている状況を理解するのに

 

知らないでいると

 

少し不利であるかもしれません。 

 

もちろん

 

全体が暗喩(あんゆ)でもありますから

 

描写のリアリズムにこだわることもないのですが

 

花も葉も焼け落ち

 

くろく焦げ残っている

 

幹の姿勢

 

――がいま立っているところの風景をつつんでいる

 

昧爽の時間であることを

 

読み過ごしてはまずいでしょうから。 

 

 

 

この昧爽の時間に

 

わたしの書物

 

わたしの食器

 

……

 

すべてのものは投込まれ

 

誰の手も届かぬところで

 

一心に狂っている

 

――「世界」がひろがっているのです。 

 

この風景が

 

戦後の焼け野原であることを

 

説明する必要はないでしょう。 

 

 

 

中桐雅夫がこの詩「幹の姿勢」を

 

「純粋詩」に発表したのは

 

1947年5月(第15号)でした。 

 

 

1919年生まれの中桐雅夫は

 

太平洋戦争がはじまった1941年12月8日の翌年1月末に

 

召集令状を受け取ります。 

 

2月に入営した後の検査で

 

結核菌が検出されたために

 

軍隊内で約40日の病院生活を送って除隊しました。 

 

除隊から敗戦へ。 

 

敗戦の荒涼のなかで

 

この詩は生れました。 

 

 

 

途中ですが

 

今回はここまで。

2017年10月19日 (木)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊<28>「純粋詩」の田村隆一「生きものに関する幻想」



田村隆一が「純粋詩」に発表した詩は

「紙上不眠」というタイトルの連作詩と考えてよさそうなので

もう一つの「生きものに関する幻想」も読んでおきましょう。



「出発」にも

「不在証明」にも

もう少し近づくことができるかもしれません。







生きものに関する幻想



それは噴水

周囲から風は落ちて 水の音だけひびいてくる……

それは夜のひととき

誰もゐない……

わたしと星との対話

わたしと星とのあひだには それでも生きものがゐて

 わたしを別のわたしにしたり 星を遠い時間に置きかへたりする生きものがゐて……

それは噴水 生きものは孤独

生きものは わたしと星のあひだにゐて やっぱり孤独



それは音楽

地階の部屋から扉をひらいて 誰かによりそってのぼってくる……

それは睡りのひととき

わたしだけしかゐない……

わたしと指との会話

わたしと指とのあひだには それでも生きものがゐて

 わたしをわたしに還したり 樹を雪のふる世界に誘ったりする生きものがゐて……

 それは音楽 生きものは孤独

生きものは わたしと指とのあひだにゐてやっぱり孤独



             紙上不眠・1946年2月

          (「純粋詩」昭和22年1月号)




(現代詩文庫1「田村隆一詩集」より。)








2連構成で

その2連がきっかりしたパラレリズム(対句)で作られています。



1連に噴水のメタファー

2連に音楽のメタファー。



噴水のある夜の風景の中に

わたしと星が対話する1連。



音楽が地階から聞こえてくる睡りのひとときに

わたしと指が会話する2連。



わたしが対面しているどちらとの間にも

生きものが現れ

ひとりぼっちのわたしは

無限の愉悦であるような

無限の地獄であるような時を過ごしています。







この詩も「紙上不眠」を構成していて

共通しているものがあるとすれば

この詩が歌っているのも

「出発」や「不在証明」のように

わたしという存在そのものです。



ことさら

その孤独についてです。







この孤独は

「不在証明」に現われる「不眠の白紙」に通じているものでしょうか。



どうやら「紙上」は

「白紙」に通じ

白紙はブランクですから

詩を書くことの孤立無援に通じ

戦後の荒涼に立つ詩人の絶望や不安などの

イロニーでもあるようです。







詩人は折あるごとに

戦後の自作について記したり喋ったりしていますが

戦後初期の、

これら「純粋詩」発表より少し後の詩である

「腐刻画」の詩群について

次のように回想しています。







ぼくの戦後の詩は、「腐刻画」という散文詩からはじまった。ぼくが、「詩」を“書く”というは

げしい意識をもった最初の詩であった。



そして、その、はげしい意識が、散文詩のスタイルをとらざるをえなかったところに、ぼく

は、ぼく自身の「詩」にたいする一種の絶望を見る。「詩」にたいする“はにかみ”とも云って

いい。



ぼくにとって、詩は、感情の発露ではなくて、“なま”の感情を隠匿するところだ。


(「詩のノート」所収「秋」より。改行・行空きを加えてあります。原文のルビは“ ”で示しまし

た。編者。)







「腐刻画」という散文詩群についての回想ですから

「紙上不眠」の詩に当てはまるものではありませんが

まったく無縁の作品論ではないような部分があります。



文中の「詩」が

終わりの方になって「 」を外され

裸の詩と書き替えられたところに

その証を見ることができます。



詩人は

多かれ少なかれ

感情の発露を抑制するのが常ですが

田村隆一という詩人は

生(なま)の感情を隠匿(いんとく)すると述べています。



これは

「詩」についてではなく

詩についての発言です。







途中ですが

今回はここまで。

2017年10月18日 (水)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊<27>「純粋詩」の田村隆一「不在証明」続

 

 



 

不在証明



 

風よ おまへは寒いか


閉ざされた時間の外で


生きものよ おまへは寒いか


わたしの存在のはづれで


 

谷間で鴉が死んだ


それだから それだから あんなに雪がふる


彼の死に重なる生のフィクション!

それだから それだから あんなに雪がふる


不眠の谷間に


不在の生の上に……

 


そのやうに風よ


そのやうに生きものよ


わたしの谷間では 誰がわたしに重なるか!


不眠の白紙に


不在の生の上に……

 

               紙上不眠・1946年11月

 

               「純粋詩」昭和22年1月号

 

(現代詩文庫1「田村隆一詩集」より。)


 


 

「不在証明」第1連の


閉ざされた時間の外や


わたしの存在のはづれ


――とは、いったい、どのような時間(場所)でしょうか?

 

それは


詩を読まなければわからないことです。

 



 

次の連に進むと


谷間で鴉が死んだことが歌われ


だから、あんなに雪が降っているのだ、ということが断言されます。

 

谷間で鴉が死んだから


あんなに雪が降っている――。

 

そういう景色(現象)が


閉ざされた時間の外や


わたしの存在のはづれに見えたのでしょう。

 

そのようなところが


閉ざされた時間の外や


わたしの存在のはづれなのでしょう。

 



 

谷間の鴉が死んだから


雪が激しく降っているという


まるで原因と結果の摂理が作動しているかのような事態に


詩人が見たもの。

 

それは、


彼の死に重なる生のフィクション!


――でした。

 

この彼とは?

 



 

彼は

わたしではなく

鴉を指していることでしょう。

 

不眠の谷間に

雪は降りしきり

激しく躍動している。

 

不在の生(=死)の上に

雪が降る。

 

これは

 

鴉の死に重なる架空の物語(=フィクション)だ!

 


 

詩はここに至って
 

風よ
 

生きものよ
 

――とふたたび冒頭のように呼びかけます。

 

わたしの谷間では
 

誰がわたしに重なるか! と。

 



 

いったいわたしは
 

どこにいるでしょうか


生のフィクションとは
 

どのようなことでしょうか。

 



 

不眠の白紙に
 

――という謎のような詩行が現れて
 

この詩は閉じようとしますが
 

閉じる前に
 

不在の生の上に……
 

――という詩行が前連のルフランとして置かれます。

 

存在しない(=不在の)生の上。

 


 

それが死(の上)を意味するのなら

生は存在するでしょうか。

 

わたしは
 

不在の生の上に存在しないでしょうか。

 

存在するでしょうか。

 

そこにいない(不在)ことが
 

ここにいる(存在)ことを証明するでしょうか。

 

不在証明は
 

わたしの存在を証明するでしょうか?

 



 

途中ですが

 
今回はここまで。

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊<26>「純粋詩」の田村隆一「不在証明」

 

「純粋詩」へ発表した田村隆一の詩を

もう少し読んでみましょう。

 

「純粋詩」には

「出発」のほかに

「紙上不眠」を構成する詩として

「生きものに関する幻想」と

「不在証明」の2篇とともに

「坂に関する詩と詩論」が発表された(「廃墟の詩学」)のですが

これら計4篇はすべて現代詩文庫1「田村隆一詩集」に載っています。

 

ここに詩人の愛着を見ないわけにはいきません。

 

「初期詩篇から」の章には

これら戦後の作品に加えて

戦前の「新領土」発表の詩が幾つか収録されていて

詩人が重要と見做した作品であることを物語っています。

 

 

不在証明

 

風よ おまへは寒いか

閉ざされた時間の外で

生きものよ おまへは寒いか

わたしの存在のはづれで

 

谷間で鴉が死んだ

それだから それだから あんなに雪がふる

彼の死に重なる生のフィクション!

 

それだから それだから あんなに雪がふる

不眠の谷間に

不在の生の上に……

 

そのやうに風よ

そのやうに生きものよ

わたしの谷間では 誰がわたしに重なるか!

不眠の白紙に

不在の生の上に……

 

紙上不眠・1946年11月

「純粋詩」昭和22年1月号

 

(現代詩文庫1「田村隆一詩集」より。)

 

 

詩は、

ことさら初めて読む詩は、

ひと通り読み終えてのち

字面(こづら)を追ったに過ぎなくて

味わうどころか

何が書かれてあったのかまったく見当もつかない

――というような経験であることを

何度も何度も気づかされることがあるでしょう。

 

ところが

単に目を通したに過ぎないような読み方であっても

読まなかったこととは

まるで違うのです。

 

その詩を読んでいなかった時と

一度でも読み通した時とは

有と無ほどの違いがあります。

 

何かが電撃的に通じてしまう

――といえば

ひとりよがりかもしれませんが

一度読んだものは

何かがわかりかけるというようなことが

やがて起こってくることは確実です

その詩を読み続ける意志があるならば。

 

 

こうして……。

 

風よ おまへは寒いか

――の1行を読みはじめながら

風に寒いかと問いかける

この、これまで経験したことのないような

不思議な詩行に面食らいながらも

次の詩行へ目を走らせて

詩の中へ詩の中へと入り込んでいきます。

 

分からないながらに

ひと通り目を通すことは

詩を読むはじまりであることは

まちがいありません。

 

この経験(時間)を通じて

人は詩を読みますし

この経験がなければ

人は詩を読むことはありません。

 

 

風よ おまへは寒いか

閉ざされた時間の外で

生きものよ おまへは寒いか

わたしの存在のはづれで

 

――という「不在証明」という詩の第1連が

ようやく親近してきたのは

一夜明け二夜明けたころで

ある時、ふと何かが降りてきて

認識のようなことが起こります。

 

 

生きものよ おまへは寒いか

――という詩行に畳みかけられて

おや!

風と生きものが同じところにあると把握できたとき

その場所その時間は

閉ざされた時間の外であり

わたし(という存在)のはづれ(外)であることが見えます。

 

聡明な読み手は

一瞬にして

この詩のこの構造をつかんでしまうかもしれませんが

このようにして

ようやくこの詩と親近する場合は多いことでしょう。

 

ここではそれにしても

3日もかかりました!

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

 

2017年10月15日 (日)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊<25>「純粋詩」の田村隆一「出発」

 

「荒地」は

 

戦前発行の「荒地」を第1次とし

 

戦後発行の「荒地」を第2次とし

 

この第2次「荒地」休刊後の1951年から1年ごとに出され

 

1958年までに8冊を出した「荒地詩集」があり

 

それぞれを区別するのが普通です。  

 

戦後の「荒地」グループは

 

自前の発表の場をただちに持てなかった期間に

 

各自がそれぞれメディアを探している状態でしたから

 

鮎川信夫が言うように

 

田村隆一が水先案内の役割をしていたというようなことがありました。

 

第2次「荒地」は

 

1947年9月に発行されるのですが

 

それまで、そしてそれ以後、1948年6月までに全6冊を出すまでの間も

 

この状態はつづき

 

こうした間に「純粋詩」へ

 

「荒地」の詩人たちのほとんどが詩や評論を発表しました。 

 

  

 

田村隆一が「純粋詩」に発表した作品を

 

年代順に見ると――。  

 

1946年

 

9月(第7号) 審判

 

12月(第10号) 紙上不眠・出発

 

           坂に関する詩と詩論  

 

1947年 

 

1月(第11号) 紙上不眠・生きものに関する幻想

 

          紙上不眠・不在証明 

 

3月(第13号) 目撃者

 

5月(第15号) 春

 

6月(第16号) 黒  

 

1948年

 

1月(第23号) 沈める寺

 

――となります。  

 

 

 

「純粋詩」1946年1月号に載せた

 

「紙上不眠・出発」という詩は

 

田村隆一が戦後に書いた詩の中でも

 

早い時期のものになるでしょう。  

 

現代詩文庫1「田村隆一詩集」(1968年)には

 

「初期詩篇から」の中に

 

この詩とともに

 

「生きもの関する幻想」

 

「不在証明」

 

「坂に関する詩と詩論」

 

――の4篇が

 

「純粋詩」発表作品として収録されています。

 

(※「坂に関する詩と詩論」に「純粋詩」掲載の付記がないのは、「荒地」または「荒地
 

詩集」などへの発表があったからかもしれません。)

 

  

 

出発  

 

おまへは信じない 私の生を

 

私は出発する 雨の中を 

 

暗い岸壁に私の船が着く

 

……そして私の生の幻影が  

 

黙って私は手を振る

 

それなのに おまへは信じない

 

私の生を 雨の中の私の出発を  

 

               紙上不眠

 

               「純粋詩」昭和21年2月号  

 

(現代詩文庫1「田村隆一詩集」より。)

 

 

 

 

出発といえば

 

これは、出征のことを指すのか。 

 

そうではなくて

 

戦後の新しい生活のことを指すのか。  

 

出征のことであるならば

 

回想ということになり、

 

昭和18年12月9日、横須賀第2海兵団(武山)に臨時徴集現役兵として入団。海軍二等

 

水兵を命ぜられる。

 

――と自ら記す兵役への出発を扱ったことになります。  

 

回想ではなく

 

召集当時に書いたものを

 

戦後に発表したということも考えられます。  

 

出発には

 

兵役への出発の意味も

 

戦後の出発の意味も

 

どちらも含まれているということも考えられます。

 

 

いずれの場合であっても

 

私の生を

 

私の出発を

 

おまへは信じないというときのおまへは

 

単なる蔑称としての二人称でないことは明らかでしょう。

 

 

この詩のおまへは

 

私が私に呼びかけているおまへであり

 

おまへに信じられない私という私の

 

アンビバレンツな事態を

 

反語的にとらえたものと見做したらよいでしょうか。 

 

 

 

戦後になっても

 

詩人は

 

生に幻影を見るほかになく

 

着岸した船にまさに乗ろうとし

 

そして乗った船から、黙って手を振るのですが

 

それをおまへ(つまりは私)は信じない。

 

そのような

 

出発でした。 

 

 

 

この詩「出発」は

 

「紙上不眠」というタイトルの連作詩(あるいは組詩)ですが

 

紙上不眠という言葉に

 

どのような意味が込められているのかよくわかりません。 

 

死の不安から

 

脱け出られず

 

眠れない状態がつづいていたことを指すのでしょうか。 

 

 

途中ですが

 

今回はここまで。

 

 

 

2017年10月13日 (金)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊<24>「純粋詩」の三好豊一郎「巻貝の夢」


三好豊一郎が「純粋詩」に発表した作品は、

<1946年>

12月・第10号 熱の朝

<1947年>

1月・第11号 巻貝の夢

3月・第13号 青い酒場

4月・第14号 Magic Flute

6月・第16号 四月馬鹿

7月・第17号 曇天の青春(評論)

8月・第18号 空

9月・第19号 時代と詩人(評論)

10月・第20号 実存主義と社会(評論)


<1948年>

1月・第23号 室房にて

――というラインアップになっています。

詩が7本、評論が3本です。




詩7作のうち4作は

第1詩集「囚人」(1949年)に収められました。



詩集「囚人」は

黒田三郎の案内するように

四つの部分(章)の一つ「青い酒場」に14篇が収められ

この14篇の詩には

三好豊一郎の詩の類型があり

戦後の詩の原型があると指摘しているところには

大いに耳を傾ける価値があることでしょう。


黒田三郎は

第1詩集「囚人」のうちの

「青い酒場」の詩群に格別なものを見たのです。





四つの部分(章)の中のもう一つの大きな部分が「巻貝の夢」で

こちらのタイトル詩「巻貝の夢」は

「純粋詩」1947年1月・第11号に発表されました。



「青い酒場」よりも前に

「巻貝の夢」は発表されています。





巻貝の夢



 水辺におびただしく散乱している貝の殻。晩春の湖はほとんど波もない、音さえしない。

ただひとつの反動の無限のくりかえしが、透明になめらかに砂浜をなめている。青みかけ

た葦、対岸は幻のようにけむっている。

 ――私はおびただしい貝殻を踏んで、この乱雑に美しい廃墟のなかから一ツ二ツ三ツ…

と水に洗われ天日に灼かれ風にさらされた巻貝をさがして歩いた。

 黒褐色のさらに濃い緑をおびて、生存闘争のつくり出した現実の生身のみにくい色、い

わゆる泥土にまがう保護色の部分が天然の刺激によって剥がれてゆき、遂に美しい純粋

にまで還元された物質の清浄な肌を愛した。たとえば暖い春の雲のほのぼのと流れる乳

白色の地に、柑橘の一片を薄めて織りだされた淡い模様。とことどころ幾分か紫か青が薄

くひとはけ透いて見えるほど。殻の一方が破れて、西洋の古い都会の尖塔を思わせる螺

旋階段の一階ごとが、巧妙にのぞかれる仕組である。あたたかい白の内壁には、赤や黄

や褐色の半透明の砂粒が、ところどころ附着してかすかに光る。どの階段からも何ものか

の亡霊が小さく型どられて、降りてきそうな気配である…

 私は不思議な夢を愛しているようだ。遠く忘れ去られた夢。孤独のかくも甘美な夢を。

――私はたんねんにこれら廃墟の城を拾って行った。

 やがて私は、最も大きな巻貝の美しく漂白され、しかも破損の少ない一室をさがしあてる

と、その城にもぐりこんで、永い春の半日を睡眠の旅にたった。かつてそこの主がそうした

ように、しなやかに身体をねじって横たわった。

 現身(うつしみ)の時間の外に、巻貝の夢のなかに。

 

(現代詩文庫37「三好豊一郎詩集」より。)




「青い酒場」が現身(うつしみ)を生きる時間なら

「巻貝の夢」は、その時間の外(そと)の世界ということでしょうか。



ならば「巻貝の夢」と「青い酒場」は

対(つい)の関係にある時間(世界)ということになります。





この二つの詩が

三好豊一郎の生涯に決定的な影響を与えた事件と

直接どのような関係があるのかはわかりません。


直接的に関係を明かすものがなくとも

その事件を知らないで

これらの詩を読むことはできないでしょう。

 



現代詩文庫37「三好豊一郎詩集」の裏表紙に置かれた小年譜には、

 

1940年、早稲田大学専門学校卒、徴兵延期は1年半で尽きるも丙種合格。無罪放免

の心持忘れ難し。但し肺結核症を受く。

――とあります。

 

「青い酒場」も「巻貝の夢」も

戦後、「純粋詩」に発表されたものですから

この事件の衝撃に

敗戦という事件(事態)の衝撃が加わる苛烈な体験が

これらの詩を書かせた契機になっていることは

確実なことでしょう。

 

「青い酒場」と「巻貝の夢」は

同じ状況の中から生まれました。

「青い酒場」が日常の1断面であるなら

「巻貝の夢」は非日常(夢)の1断面をとらえたものということになります。

 




夢ですから

散文詩のほうが

つかまえやすかったのでしょうか。

 

それにしてもこの夢は、

死の静謐を漂わせながら

それとはなんと遠い世界であるかと思わせる

美しく清浄な生の姿を見せるのでしょうか。

 

 

暖い春の雲のほのぼのと流れる乳白色の地に、柑橘の一片を薄めて織りだされた淡い

模様。とことどころ幾分か紫か青が薄くひとはけ透いて見えるほど。殻の一方が破れて、

西洋の古い都会の尖塔を思わせる螺旋階段の一階ごとが、巧妙にのぞかれる仕組

 

あたたかい白の内壁には、赤や黄や褐色の半透明の砂粒が、ところどころ附着してかす

かに光る。どの階段からも何ものかの亡霊が小さく型どられて、降りてきそうな気配

――と繰り返される貝の内部の描写。





美しい純粋にまで還元された物質の清浄

――は

水辺におびただしく散乱している貝の殻を

精密描写したもののように

あいまいなものがなく

いつかどこか遠い日に見た覚えのあるような

古代の、晩春の湖のほとりの記憶のような絵柄を

引っ張り出してくれるような心地にしますから

不思議です。



 

途中ですが

今回はここまで。

2017年10月12日 (木)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊<23>「純粋詩」の三好豊一郎

 

 

三好豊一郎(ミヨシ・トヨイチロウ)の

「青い酒場」という詩は

詩集「囚人」を構成する四つの部分の

その一つである「青い酒場」のタイトル詩で

「青い酒場」には「囚人」をトップに

14篇の詩が収められてある

――ということを黒田三郎が書いています。

(「詩の味わい方」明治書院、1973年)

 

なんだか複雑そうなつくりだなあと思って

詩集「囚人」の目次を調べてみると、

 

<青い酒場>

囚人

影Ⅰ

影Ⅱ

幻燈

夕映

青い酒場

室房にて

再び

未成年

四月馬鹿

MAGIC FLUTE

 

<懸崖より>

盲窓

懸崖より

天の氷

 

<天の氷>

深夜

熱に馮かれた黃昏の

サアカス

捧ぐ

夜更の祈

 

<卷貝の夢>

卷貝の夢

蜘蛛

途上

帰らない飛行機乗りの話

癲狂院

虛妄

部屋

晩春

春園

無題

弁明

――という構成になっていました。

(※旧漢字を新漢字に改め、黒田三郎のいう四つの部分を示すために< >を加えました。編者。)

 

黒田三郎が

丁寧すぎるほどに説明しているわけがわかります。

 

 

詩集題が「囚人」でも

「囚人」という詩は

「青い酒場」の章のトップに置かれ

その章には「青い酒場」という詩もあるという構造は

詩人の意図したものでしょうか。

 

「囚人」も「青い酒場」も

どちらも詩集のタイトルであっておかしくないようなこの構造は

現代詩文庫の「三好豊一郎詩集」(1970年)では

収録詩集の数が多いことも手伝って見えにくくなり、

 

囚人

巻貝の夢

希望

いけにえ

抗議

晩年

詩集<小さな証し>から

詩画集<黙示>全篇

未刊詩篇

刻下の想い

 

評論

自伝

――という構成のアンソロジーとなります。

 

「囚人」は

四つの章(部分)という枠を外され

「囚人」と「巻貝の夢」に分割されたために

「青い酒場」というタイトルが目次から消えてしまいます。

 

 

「青い酒場」は

「純粋詩」第13号(1947年3月)に初出しました。

 

 

青い酒場

 

私の左の肺の尖端には虫の喰った穴がある

静かに寝て眼をとじると その穴から

冬には木枯の遠くをわたる声にまじって

青い酒場のリキュール・グラスをすする音がする

ギタアを持ったやせて小さな男がひとり

夜更けの壁に背を向けて――

話をしようにも誰も居りゃしない

風とともに入ってくるのは凍えつきそうな悔恨ばかり

 

男は嗄(しわが)れたギタアの弦をはじいてみたり

不安げにちょっと頸をかしげ グラスの中の

病みほおけた自分の顔をのぞくのにも厭ると

いそいそと卓子(テーブル)の上を拭いていた

 

床に落ちた男の影の中には いつの間(ま)にか

一匹の犬が棲みついている

男のもてあました絶望を喰って太ってゆく 度し難い奴だ

私の胸の虫の喰った穴からは

そいつの苦しげな咳の音がする だが昼間

私はきちんとチョッキをつけ 上衣を着て 街を歩く

楽天主義者然と

夜な夜な私はそいつに逢う 青い酒場で

私相応そいつも老けた だがいまだに死なない

そして時々 ずるそうににやりと笑う

 

(現代詩文庫37「三好豊一郎詩集」より。)

 

 

この詩に現れる

やせて小さな男

一匹の犬(=そいつ)

――は、いずれも詩人の分身であると見なしてよいでしょう。

 

詩の中の存在が

現実の存在と一般的に同一であるとは限りませんが

この詩の場合は

比喩である犬を含めて

詩人そのものと読んでおかしくはありません。

 

 

戦後詩の出発を告げる

明快で鮮烈なイメージの詩が

「純粋詩」誌上に幾つも投じられていきます。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2017年10月10日 (火)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊<22>「純粋詩」の黒田三郎・続

 

 

「純粋詩」に発表された

黒田三郎の詩をもう一つ読んでみましょう。

 

「荒地」グループの詩人では

第26号(1948年7月)に

北村太郎の「センチメンタル・ジャアニイ」とともに

黒田三郎の「歴史はどこにあるのか」が掲載されました。

 

 

歴史はどこにあるのか

 

歴史はどこにあるのか

そこでひとをとりまく無数の壁

壁のなかで生れた人間である私や

君やあなたや諸君

数限りない私や君やあなたや諸君をめぐって

白い美しい壁がある

頑丈な石の壁がある

崩れかけた壁

歴史はどこにあるのか

戦火に滅ぼされた町

私の町

君やあなたや諸君の町

はびこる雑草をつつみかくして

ひっそりと壁が残っている

わずかばかりの土地に

わずかばかりの土地を区切るために

無数の壁が

いまは燃え落ち崩れ落ちて

そしてそこにむき出された丘や谷の高低を

何気なくひとは見る

はびこる雑草の間にも

崩れ落ちた赤い瓦やガラスの破片をふみかためて

ひとすじの道がつくられてゆく

わずかばかりの暇を盗むために

はびこる雑草をわけ

瓦やガラスをふんで

崩れた壁から壁へと

ひとは横切ってゆく

けちくさい月給取りよ 人絹のシャツを着た者よ

赤いリボンの少女よ

崩れた壁から崩れた壁へとひとは無言で横切ってゆく

 

(現代詩文庫6「黒田三郎詩集」より。)

 

 

この詩は前回読んだ「あなたの美しさにふさわしく」とともに

後に詩集「時代の囚人」(1965年)に収録されます。

 

戦後初期の作品が

この詩集に集められました。

 

 

戦地から帰還した詩人が初めて目にした

この町は

きっと鹿児島市下荒田の

出征前の住まいがあったところでしょうが

このような町は

全国至るところに見られた景色であったことでしょう。

 

そこに無数の壁は存在します。

 

残っています。

 

崩れ落ちて在ります。

 

あっちにもこっちにも。

 

その合間をぬって雑草ははびこり

ひとは崩れ落ちた瓦やガラスの破片を踏み固めて

横切ってゆく

 

月給取り(私)も

格安の人絹のシャツを着た(あの人)も

赤いリボンの少女も

 

みんな壁から壁へと

無言で横切ってゆく。

 

 

そこへやがて道はできるであろう

――という詩行は現われませんが

そのような歴史が作られてゆくであろう未来が

歌われていることを確信できる詩です。

 

廃墟の(壁)なかに

詩人は一条の光を見つけようとしています。

 

そこで人間である私は生れたのですから

そこにふたたび生きるしかないのですから。

 

 

白い美しい壁

――とあるところに

私という歴史の未来の希望が仮託されているのは

「あなたの美しさにふさわしく」に通じます。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2017年10月 9日 (月)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊<21>「純粋詩」の黒田三郎

 

 

ここは立ちどまって

「純粋詩」に寄せた「荒地」の鮎川信夫以外の

他の詩人の詩を読んでみましょう。

 

手元にある詩集からアトランダムに

目についたものから

まずは黒田三郎――。

 

 

あなたの美しさにふさわしく

 

失われたもののみが美しく

失われたもののみがあなたのものであったと

ひそかにあなたに告げるのは誰か

心に残されたものは

赤さびの鉄骨と燃え残った石壁だけであると

ひそかにあなたに告げるのは誰か

美しいひとよ

思い出があなたをどん欲にする

かつてあなたを容れるためにあり

いまもなおあなたを容れるためにある

空白のなかで

あなたの美しさにふさわしく

唇を洩れて出るひとことよ

たかがそれは

木と紙とガラスにすぎなかったのだと

 

失われるものの失われた無数の穴から

風は吹き入り

はるかに海が見える

かくされたものはかくれる影を失い

炎天の下

はい

うごめき

かくれる影を求めて

ののしり騒ぎ

海のほとり

新しい旗のはためく町よ廃墟よ

新しい旗の影にかくれる

政治的動物の群れを見よ

 

飢えていま風のなかに立つ美しいひとよ

かつてあなたが持っていた多くの物の代りに

いまあなたの持っている多くのものを

あなたはいまひそかにあなたに告げよ

失われた影のむこうに

あなたの眼が偽りなく捕えた多くのものを

あなたはいまひそかにあなたに告げよ

あなたの美しさにふさわしく

あなたの持っているものが

よし不信と憤怒と絶望であろうとも

あなたはいまひそかにあなたに告げよ

 

(現代詩文庫6「黒田三郎詩集」より。)

 

 

黒田三郎の詩で

「純粋詩」の第14号(1947年4月号)に発表された

最初の作品です。

 

黒田三郎は

第11号(1947年1月号)に

「ダダについて」という評論をすでに書いていましたから

これが2回目の登場になりました。

 

 

ここに現われる「あなた」は

誰のことでしょうか。

 

そう問えば

ただちに、詩人がやがて出合う

一人の美しい女性と結びつけたがりますが

詩人はいまだその女性を知りません。

 

ですから

美しいひとは、やがて妻となるその女性のことではありませんし

この詩では

女性である必要もないのかもしれません。

 

 

では、誰をさしているのか、

誰に呼びかけているのでしょうか?

 

 

告げよ、という命令形が

あなたへ向けられているのは

あなたが親しい間柄の人であることを示し

親しい間柄には

自分を含んでいるようなあなたであるような。

 

あなたには

同志の意味が込められているような。

 

自分への激励が

同志へのエールでもあるような。

 

自分と同志が

同義的に反覆するような。

 

あなたはあなたに告げるのです――。

 

 

失われたもののみが美しく

失われたもののみがあなたのものであった

 

とか

 

かつてあなたを容れるためにあり

いまもなおあなたを容れるためにある

 

とか

 

失われるものの失われた無数の穴

 

とか

 

かくされたものはかくれる影を失い

 

とか

 

かつてあなたが持っていた

いまあなたの持っている

 

とか

 

あなたはいまひそかにあなたに告げよ

 

とか……

 

このような

二分法というのか、

対句法というのか、

対立し相反するものとか

過去と現在とかを

同義反覆のようにリフレインして

次第に現われてくる

飢えていま風のなかに立つ美しいひと。

 

そのひとへ

あなたの持っているものが

よし不信と憤怒と絶望であろうとも

あなたはいまひそかにあなたに告げよ

――と歌います。

 

あなたへの

決意表明です。

 

 

――とここまで読んできて

ふと、詩が予感するということはあり得ることで

美しいひとはやはり女性であって

ジャワから帰還した直後に上京し

すぐにNHKに入社した詩人が巡り合った女性であることも

可能であることに気づきました。

 

だとすれば

恋するこころの不分明な状態を断ち切ろうとする決意が

ここに秘められていることになりますが。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2017年10月 7日 (土)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊⑳「純粋詩」の「荒地」

 

 

現代詩文庫9「鮎川信夫詩集」の「1 橋上の人」には

戦後初期の作品が集められていますが

中に「日の暮」はあり

末尾に(1946・12月「純粋詩」)と付記されているように

この詩は「純粋詩」に初出したことが明示されています。

 

 

日の暮

 

天井の蜘蛛が私の顔にのりうつったやうだ、

傾斜した部屋からは

いつも逆に傾斜した獲物のない地平線しか見えない。

色あせた壁の中には

重たい悲しみに塗りこめられた人間の影がある。

 

北風は涙を光らせる。

鋭い笛のやうなものが胸の底でめざめる、

落葉に吹きまくられてゆく地平線に

(すぐれた笛の音とすぐれた涙を…)

 

戦争で死んだMよ

高いところに立って影の眼を開いてみたまへ!

私たちの間には ひろい荒凉たる眺めが、

黒い足のやうに縮まってゐる 君の黒い足のやうに――

そして落陽はただひとつ。

 

(一九四六・十二月「純粋詩」)

 

 

「死んだ男」より前に作られたものかは

断定できませんが

「純粋詩」への発表順から見る限りは

この詩「日の暮」は「死んだ男」より先に制作されたことになります。

 

現代詩文庫9「鮎川信夫詩集」は

長田弘がやや強い編集の手を入れたアンソロジーですから

「日の暮」を「死んだ男」の後に配置していますが

実際はどうだったのでしょう。

 

「鮎川信夫全集」では

「日の暮」を「死んだ男」の前に配置しています。

 

「日の暮」のほうが幾分か

思想の強度が小さく

その分、抒情が濃い目なのを感じさせるところは

制作順序に拠るでしょうか。

 

短詩である「日の暮」には

長めの「死んだ男」にはない

詩行の爽やかさみたいなものがあります。

 

 

「純粋詩」については

「廃墟の詩学」(中村不二夫、土曜美術社出版販売、2014年)に豊富な記述があり

第1部「戦後詩研究Ⅱ―戦後詩の展開」には

末尾に、<資料>「荒地」グループ、「純粋詩」作品リストがあり

「荒地」の戦後初期の作品が一覧できて貴重です。

 

「荒地」の詩人たちは

戦後初期に盛んに「純粋詩」へ発表しました

 

 

<1946年>

9月・第7号

田村隆一 審判

 

12月・第10号

田村隆一 紙上不眠・出発

鮎川信夫 日の暮

北村太郎 亡霊

木原孝一 星の肖像

三好豊一郎 熱の朝

中桐雅夫 一九三五秋

田村隆一 坂に関する詩と詩論

 

<1947年>

1月・第11号

三好豊一郎 巻貝の夢

田村隆一 紙上不眠・生きものに関する幻想/不在証明

鮎川信夫 死んだ男

黒田三郎 ダダについて(評論)

 

2月・第12号

木原孝一 シュルレアリズムに関するノート(評論)

北村太郎 詩壇時評(評論)

 

3月・第13号

田村隆一 目撃者

三好豊一郎 青い酒場

鮎川信夫 囲繞地(評論)

北村太郎 詩壇時評(評論)

 

4月・第14号

三好豊一郎 Magic Flute

黒田三郎 あなたの美しさにふさわしく

鮎川信夫 囲繞地―現代詩について(評論)

中桐雅夫 詩についての手紙(評論)

北村太郎 詩壇時評(評論)

 

5月・第15号

鮎川信夫 姉さん ごめんよ

中桐雅夫 幹の姿勢

黒田三郎 時代の囚人

田村隆一 春

黒田三郎 言論の陰影(評論)

鮎川信夫 詩壇時評(評論)

 

6月・第16号

三好豊一郎 四月馬鹿

田村隆一 黒

北村太郎 Amoros ma non toroppo

鮎川信夫 批評の限界(評論)

黒田三郎 詩は何処へ行くか(評論)

 

7月・第17号

鮎川信夫 アメリカ

黒田三郎 詩人の運命(評論)

三好豊一郎 曇天の青春(評論)

 

8月・第18号

木原孝一 Chanson d‘amour

三好豊一郎 空

黒田三郎 失はれた墓碑銘

北村太郎 技術の人間性(評論)

木原孝一 ヂレッタンティズムの誘惑(評論)

鮎川信夫 形而下的解決(評論)

 

9月・第19号

鮎川信夫 カフカの世界(評論)

北村太郎 「変身」について(評論)

三好豊一郎 時代と詩人(評論)

 

10月・第20号

木原孝一 純粋な鶯の変声期に就いて(評論)

三好豊一郎 実存主義と社会(評論)

 

11月・第21号

中桐雅夫 死への誘ひ

鮎川信夫 「燼灰」の中から(評論)

中桐雅夫 詩についての手紙(評論)

 

12月・第22号

黒田三郎 一九四七年の詩壇と「アメリカ」(評論)

北村太郎 象徴主義と現代の自我(評論)

鮎川信夫 キリスト教とマルキシズム(評論)

中桐雅夫 萩原朔太郎論(評論)

 

<1948年>

1月・第23号

三好豊一郎 室房にて

田村隆一 沈める寺

鮎川信夫 1948年

木原孝一 告別

鮎川信夫 詩人の出発(評論)

中桐雅夫 アトミック・イーラ(評論)

 

3月・第24号

黒田三郎 一九四八年

北村太郎 沈黙

中桐雅夫 彼の名

木原孝一 新しきフランスへ(評論)

 

5月・第25号

なし

 

7月・第26号

北村太郎 センチメンタル・ジャアニイ

黒田三郎 歴史はどこにあるのか

 

8月・第27号

鮎川信夫 現代詩の悲劇(評論)

 

(※発表年月順に体裁を整えました。編者。

 

 

1946年9月の第7号から

1948年8月の第27号まで

きっかり2年間を毎号、

「荒地」の複数の詩人が詩や評論を発表しました。

 

初めて登場したのが田村隆一でした。

 

鮎川信夫は後に

このあたりの経緯を

次のように振り返っています。

 

 

年刊「荒地詩集」の場合もそうだったが、戦後私たちの運動の水先案内人の役割を果たしたのは田村

隆一であった。

 

敗戦後、復員その他の理由でまだ発表の場を持たなかった私たちの中で、彼はいち早く平林敏彦、柴

田元男等の「新詩派」に接近し、彼の紹介で私は詩を二篇発表させてもらったが、そこで席があたたま

らぬうちに、彼は「純粋詩」の福田律郎と懇意になり、「おい、こっちだ、こっちだ」というように昔の仲

間を呼び集めていったのである。

 

北村太郎、三好豊一郎、黒田三郎、木原孝一、中桐雅夫等がそろったところで、自然に自分たちの雑

誌を作りたいという機運になっていった。

 

(思潮社「鮎川信夫すこぶる愉快な絶望」「所収「『荒地』――創刊から廃刊まで」より。わか

りやすくするために改行を加えました。編者。)

 

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2017年10月 3日 (火)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊⑲鮎川信夫の戦前

 

 

新詩派

純粋詩

ルネッサンス

荒地

現代詩

詩学

近代文学

人間

――と、

鮎川信夫が戦後初期に詩や評論を発表したメディアは

多岐に渡りました。

 

年譜に記載されない発表歴もあるはずですから

この他のメディアも数えられるはずです。

 

戦前の活動を継続(復活)しただけといえばそれだけのことですが

これほどの活動は

詩人にとって自然の成り行きであったとはいえ

相対的にいって旺盛であったことは確かでしょう。

 

首都圏在住の強みもあったかもしれません。

 

 

それでは、鮎川信夫の戦前(そして戦中)の活動を見てみましょう。

 

<1937年 17歳>

早稲田第一高等学校へ入学。

この頃から、「若草」などへ投稿。入選作が掲載され、若い詩人たちに知られるようになる。

神戸在住の中桐雅夫に呼びかけられて、「LUNA」同人となる。同人の森川義信、牧野虚太郎、田村

隆一、北村太郎、三好豊一郎、衣更着信らとの交友はじまる。

 

<1938年 18歳>

3月、村野四郎、近藤東、上田保らが編集する「新領土」に参加。

6月、「LUNA(ルナ)」は「LE BAL(ル・バル)」と改名。

11月、早稲田大学文学部予科の仲間と進めてきた同人誌の名称を「荒地」と決定。

 

<1939年 19歳>

3月、「荒地」(※後に、第1次「荒地」と呼ぶ)創刊。2年間で7冊を発行。6冊目から「文芸思潮」と改

題。

5月、評論「不安の貌」発表(荒地・第2号)。

 

<1940年 20歳>

LE BAL」は、情報局指令により、「詩集」と改題。

4月、評論「文学の摂理」(荒地・第5号)

   評論「近代詩について」(LE BAL

   評論「囲繞地」(文芸思潮)。

 

<1941年 21歳>

3月、詩「囲繞地」(新領土)発表。

4月、詩「雑音の形態」が「新領土詩集」に収録。

5月、「新領土」終刊。48号だった。

10月、評論「スタンダアル」(詩集)。

10月、「鞭のうた」に就いて――牧野虚太郎の霊にささぐ」(詩集)。

 

<1942年 22歳>

3月、「詩集」は「山の樹」との合併号として発行。

「詩集」からの参加者は、鮎川信夫、井出則雄、梅村善作、衣更着信、関保義、田村隆一、中桐

雅夫、疋田寛吉、堀越秀夫、北村太郎、三好豊一郎、森川義信ほか。

5月、「詩集」5月号は早大系の「葦」と合併。

9月、「詩集」終刊。ルナ・クラブは終止符。

 

 

国家総動員法(1939年)による雑誌統廃合の波が

鮎川信夫近辺のメディアにも及んだことがわかります。

 

(もっとも、雑誌統合の結果、「詩研究」と「日本詩」の2誌だけが発行を許された情勢でしたから、当たり  

前のことでしたが。)

 

鮎川信夫は、早稲田を3年で中退。東部第7聯隊へ入隊――となります。

 

 

1941年4月「文芸汎論」

――と末尾に付記された詩「椅子」を

ここで読んでおきましょう。

 

 

椅子

 

ドアはなかば開いたまま

風はもう吹いてこなかった

庭は暗く

光のざわめきも遠ざかり

わたしが憩ふ場所といへば

ただ一脚の椅子があるだけ

気味悪くキーキーといふ音に

樹木の影は怯え

眠れる半身に垂れさがり

それは確かにわたしを支へてゐる

しなやかな鞭のやうに

わたしを愛撫するのはむかしの夢であらう

壁が崩れたら

百合の花が見えて

とほくの海がひろがってゐるかもしれない

だが椅子のキーキーいふ音に

わたしの半身はすでに掠められてゐる

 

(現代詩文庫9「鮎川信夫詩集」より。)

 

 

応召する1年前の作品です。

 

戦争へ駆り出される不安と恐怖みたいなものが

キーキーいう椅子の音にまじって聞こえてきます。

 

やや驚きですが

戦前ですから

歴史的かな遣いで詩が書かれていたのですね。

 

 

鮎川信夫が戦時体制下にこのような詩人活動を辿っていたとき

では、秋谷豊はどのような状況に生きていたのでしょう。

 

年譜の書き方、作られ方が異なるから

比較する無理を承知で

秋谷豊の戦前を見ておきましょう。

 

 

<1938年 16歳>

7月、級友と初めて秩父の雲取山に登る。

9月、「若草」の投稿仲間と詩誌「千草」創刊。

尾崎喜八選の「文庫」や、村野四郎、北園克衛編集の「新詩論」に作品を発表。

 

<1939年 17歳>

尾崎喜八の「山の絵本」に感動、山登りに目覚める。秩父、奥多摩、丹沢、道志、八ヶ岳、甲斐駒、穂

高などを歩く。

 

<1941年 19歳>

4月、日大予科に入学。

 

<1942年 20歳>

日大予科を中退。

海軍省に入る。新聞編集に従事。敗戦まで、航空技術廠、南西方面艦隊設営隊、電波本部に勤務。

軍隊勤務を転々としたが、戦地への召集は免れた。

雑誌「報道」や壁新聞に詩を発表。

「千草」を「地球」と改題。(※第1次「地球」。)

那辺繁が同人となる。那辺は、「四季」「文芸汎論」への投稿家だった。

 

<1943年 21歳>

12月、結婚。まもなく、応召。

南方要員として、部隊はサイパンに向かったが、秋谷だけ召集解除となる。

 

<1944年 22歳>

6月、フィリッピン派遣軍報道班の一員として出発することになっていたが、出発の直前に中止命令が

出る。

 

<1945年 23歳>

3月、空襲のなか、生後21日の長女恵子を病気で失う。

住まいのアパートは全焼。

8月、敗戦。

20名ほどの「地球」同人の大半が戦死、弟も戦傷死した。※「地球」同人の那辺繁も戦死した一人。

 

(以上は、日本現代詩文庫3「秋谷豊詩集」(1982年、土曜美術社)、および「秋谷豊詩集成」(2009

年、北溟社)の巻末年譜をもとに再構成したものです。)

 

 

秋谷豊が鮎川信夫より2歳年下であるところで

世代的経験の微妙な差異がありますが

詩活動で近似しているところは多く

ことさら、詩メディアでは同じ土俵の中にあったところは

注目されるところです。

 

戦後の「純粋詩」では

秋谷豊が編集の側にあり

鮎川信夫は寄稿した詩人でしたし

戦前では「若草」にさかのぼる投稿の常連で二人の詩人はありました。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2017年10月 1日 (日)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊⑱鮎川信夫の戦後

 

 

「死んだ男」の冒頭連、その4行、

 

たとえば霧や

あらゆる階段の跫音のなかから、

遺言執行人が、ぼんやりと姿を現す。

――これがすべての始まりである。

 

――が鮎川信夫という詩人の戦後のはじまりでした。

 

遺言執行人であることを

自らの詩(=生)の起点と宣言したのでした。

 

 

現代詩文庫9「鮎川信夫詩集」の

冒頭に配置された「1 橋上の人」は 

死んだ男

もしも 明日があるなら

アメリカ

日の暮

繋船ホテルの朝の歌

橋上の人

――の6作の連詩のように構成されているのは

この詩集(アンソロジー)の編者、長田弘の手になる再構成だからです。

 

「1 橋上の人」のタイトルで戦後初期の作品を集めていますが

鮎川信夫はこれらの詩のほかにも

散文(評論)の発表も旺盛に行っていましたから

年代順に初出したメディアともども見ておきましょう。

 

「荒地」グループが形成されていき

1951年に初めて「荒地詩集」が出されるまでの

鮎川信夫個人の作品歴ということになります。

 

( )内は、初出誌です。

 

 

<1946年>

7月、詩「耐えがたい二重」 (新詩派)

8月、詩「トルソについて」(新詩派)

12月、詩「日の暮」 (純粋詩)

 

<1947年>

2月、詩「死んだ男」(純粋詩)

評論「詩への希望」(ルネッサンス・第5号)

7月、詩「アメリカ」(ルネッサンス)

8月、評論「ヴァレリィに就いて」(ルネサンス・第7-9合併号)

9月、詩「暗い構図」(雑誌「荒地」創刊号)

9月、評論「カフカの世界」(純粋詩・9月号)

10月、評論「三好達治」(現代詩・10月号)

11月、評論「燼灰のなかから――TE・ヒュームの世界」(純粋詩・11月号)

 

<1948年>

1月、詩「秋のオード」(詩学・第5号)

5月、評論「『荒地の立場」(近代文学)

6月、詩「橋上の人」(ルネッサンス・第9号)

 

<1949年>

7月、評論「現代詩とは何か」(人間)

   評論「詩人の条件」(詩学・11、12月合併号)

   ※以後、「詩学」の翌年7月号まで、「荒地詩集」1951年版で「現代詩とは何か」のタイトルで収録

   される論考が連続して発表されます。

10月、詩「繋船ホテルの朝の歌」(詩学)

 

<1950年>

評論「詩と伝統」(詩学・6月号)

 

<1951年>

7月、詩「裏町にて」(詩学・7月号)

8月、評論「森川義信について」(詩学・8月号、※「死んだ仲間」特集。)

 

以上は、現代詩読本「さよなら鮎川信夫」(1986年)の

巻末年譜(原崎孝・作)をもとに作り直したものです。

 

 

こうした経過ののち

「荒地詩集1951年」が、8月に刊行されます。

 

 

今や、戦後詩の古典となった

傑作群が次々に生み出されていった歴史を見るようですが

注目したいのは

発表されたメディアが多彩であるところであり

中でも秋谷豊が編集の側にあった「純粋詩」です。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

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