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2017年10月18日 (水)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊<27>「純粋詩」の田村隆一「不在証明」続

 

 



 

不在証明



 

風よ おまへは寒いか


閉ざされた時間の外で


生きものよ おまへは寒いか


わたしの存在のはづれで


 

谷間で鴉が死んだ


それだから それだから あんなに雪がふる


彼の死に重なる生のフィクション!

それだから それだから あんなに雪がふる


不眠の谷間に


不在の生の上に……

 


そのやうに風よ


そのやうに生きものよ


わたしの谷間では 誰がわたしに重なるか!


不眠の白紙に


不在の生の上に……

 

               紙上不眠・1946年11月

 

               「純粋詩」昭和22年1月号

 

(現代詩文庫1「田村隆一詩集」より。)


 


 

「不在証明」第1連の


閉ざされた時間の外や


わたしの存在のはづれ


――とは、いったい、どのような時間(場所)でしょうか?

 

それは


詩を読まなければわからないことです。

 



 

次の連に進むと


谷間で鴉が死んだことが歌われ


だから、あんなに雪が降っているのだ、ということが断言されます。

 

谷間で鴉が死んだから


あんなに雪が降っている――。

 

そういう景色(現象)が


閉ざされた時間の外や


わたしの存在のはづれに見えたのでしょう。

 

そのようなところが


閉ざされた時間の外や


わたしの存在のはづれなのでしょう。

 



 

谷間の鴉が死んだから


雪が激しく降っているという


まるで原因と結果の摂理が作動しているかのような事態に


詩人が見たもの。

 

それは、


彼の死に重なる生のフィクション!


――でした。

 

この彼とは?

 



 

彼は

わたしではなく

鴉を指していることでしょう。

 

不眠の谷間に

雪は降りしきり

激しく躍動している。

 

不在の生(=死)の上に

雪が降る。

 

これは

 

鴉の死に重なる架空の物語(=フィクション)だ!

 


 

詩はここに至って
 

風よ
 

生きものよ
 

――とふたたび冒頭のように呼びかけます。

 

わたしの谷間では
 

誰がわたしに重なるか! と。

 



 

いったいわたしは
 

どこにいるでしょうか


生のフィクションとは
 

どのようなことでしょうか。

 



 

不眠の白紙に
 

――という謎のような詩行が現れて
 

この詩は閉じようとしますが
 

閉じる前に
 

不在の生の上に……
 

――という詩行が前連のルフランとして置かれます。

 

存在しない(=不在の)生の上。

 


 

それが死(の上)を意味するのなら

生は存在するでしょうか。

 

わたしは
 

不在の生の上に存在しないでしょうか。

 

存在するでしょうか。

 

そこにいない(不在)ことが
 

ここにいる(存在)ことを証明するでしょうか。

 

不在証明は
 

わたしの存在を証明するでしょうか?

 



 

途中ですが

 
今回はここまで。

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