新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊<27>「純粋詩」の田村隆一「不在証明」続
◇
不在証明
風よ おまへは寒いか
閉ざされた時間の外で
生きものよ おまへは寒いか
わたしの存在のはづれで
谷間で鴉が死んだ
それだから それだから あんなに雪がふる
彼の死に重なる生のフィクション!
それだから それだから あんなに雪がふる
不眠の谷間に
不在の生の上に……
そのやうに風よ
そのやうに生きものよ
わたしの谷間では 誰がわたしに重なるか!
不眠の白紙に
不在の生の上に……
紙上不眠・1946年11月
「純粋詩」昭和22年1月号
(現代詩文庫1「田村隆一詩集」より。)
◇
「不在証明」第1連の
閉ざされた時間の外や
わたしの存在のはづれ
――とは、いったい、どのような時間(場所)でしょうか?
それは
詩を読まなければわからないことです。
◇
次の連に進むと
谷間で鴉が死んだことが歌われ
だから、あんなに雪が降っているのだ、ということが断言されます。
谷間で鴉が死んだから
あんなに雪が降っている――。
そういう景色(現象)が
閉ざされた時間の外や
わたしの存在のはづれに見えたのでしょう。
そのようなところが
閉ざされた時間の外や
わたしの存在のはづれなのでしょう。
◇
谷間の鴉が死んだから
雪が激しく降っているという
まるで原因と結果の摂理が作動しているかのような事態に
詩人が見たもの。
それは、
彼の死に重なる生のフィクション!
――でした。
この彼とは?
◇
彼は
わたしではなく
鴉を指していることでしょう。
不眠の谷間に
雪は降りしきり
激しく躍動している。
不在の生(=死)の上に
雪が降る。
これは
鴉の死に重なる架空の物語(=フィクション)だ!
◇
詩はここに至って
風よ
生きものよ
――とふたたび冒頭のように呼びかけます。
わたしの谷間では
誰がわたしに重なるか! と。
◇
いったいわたしは
どこにいるでしょうか。
生のフィクションとは
どのようなことでしょうか。
◇
不眠の白紙に
――という謎のような詩行が現れて
この詩は閉じようとしますが
閉じる前に
不在の生の上に……
――という詩行が前連のルフランとして置かれます。
存在しない(=不在の)生の上。
◇
それが死(の上)を意味するのなら
生は存在するでしょうか。
わたしは
不在の生の上に存在しないでしょうか。
存在するでしょうか。
そこにいない(不在)ことが
ここにいる(存在)ことを証明するでしょうか。
不在証明は
わたしの存在を証明するでしょうか?
◇
途中ですが
今回はここまで。
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