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2017年10月25日 (水)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊<30>「純粋詩」の中桐雅夫「幹の姿勢」続

 

 

 

僕らはこれからどうすればよいだろうか。太平洋戦争が終ったとき、僕らは不覚にも、すぐ

愉快な時代が始まるものと考えた。それは馬鹿げた錯覚であった。

 

終戦以来2年、事情はなにも変っていない。僕らの考えが自由に発表できるようになったこ

とが、大きな変化であったけれども、ぼくらの周囲の日本人は前と同じだ。

 

 

中桐雅夫がこのように記したのは

1947年10月発行の「荒地」(第2次)誌上の

「lost generationの告白」の中でした。

 

この告白は

つぎのように結ばれています――。

 

 

僕らは詩を書くということによって僕ら独自の使命をこの日本社会にもっているのである。

政治の将棋の歩にあることでもなければ、自分の塔にとじこもって外をみないという態度で

もない――そういう姿勢で詩を書いてゆくむなしさを考えると、僕らは戦争中だけではな

い、これからもずっとロスト・ジェネレイションであらねばならぬのだと思われるのである。

 

(現代詩文庫38「中桐雅夫詩集」より。原文の漢数字を洋数字に変え、改行・行空きを加

えました。編者。)

 

 

ロスト・ジェネレイションについての記述は

この評論(告白)の中で

ほかにも幾つか現われます。

 

「告白」が宣言であるかのような役割を果たす

不思議な記述のように見えますが

読み返すうちにだんだん核心に近づくようです。

 

 

僕らの雑誌は太平洋戦争のはじまった翌年、1942年(昭和17年)夏、なんとなくやめてし

まった。こういう時勢に雑誌を続けてゆくことが無意味に思えたのである。

 

それからの憂鬱だった4年間!

 

僕らはときどき集っては、兵隊に行った不運な仲間を思いながら、愚劣な戦争詩の悪口を

言ってすごした。

 

僕らはロスト・ジェネレエションとして戦争の期間をすごしたのである。

 

(同。)

 

 

「lost generationの告白」は

中桐雅夫が「幹の姿勢」を「純粋詩」に発表したときから

およそ半年後に書かれました。

 

ですから「幹の姿勢」は

ロスト・ジェネレイションの姿勢に

ストレートに繋がっていると言えそうです。

 

この流れのなかで「幹の姿勢」をもう一度読むと

見えてくるものがあります。

 

 

幹の姿勢

 

風を追いかけ。風を追い越し。

ある地点に。ぴたり。ととまる。

とまる否や。

猛烈な速度で戻ってくる。

見よ。無数の獣。

火の獣が駆けめぐる。

 

焔。喘ぐ焔。

夜空に。高き。低き。焔みな一つに固まり。

激しく。空気をつん裂く。と思えば。

ふたたび八方に飛び散り。

あたらしい血に舌なめずる。神々の嵐。

その無際限な成長力。

無秩序ないのちの奔騰。

わたしは堪えかねて。

眼を瞑り。

眼をひらいた。

 

ひとつひとつに名の刻まれた。

わたしの書物。わたしの食器……。

すべてのものは「世界」の中へ投込まれ。

誰の手も届かぬところで。

一心に狂っている。

いまはもう。

わたしのものではないわたしのもの。

わたしのものではない「世界」のもの。

わたしは。いわば。

それらすべての怨霊を背景(ばっく)に。

佇んでいるのだ。この。

昧爽のひととき。

花も葉も焼け落ち。

くろく焦げ残っている幹の姿勢で。

 

(現代詩文庫38「中桐雅夫詩集」より。)

 

 

終連の末尾2行、

花も葉も焼け落ち。

くろく焦げ残っている幹の姿勢で。

――が戦後の焼け跡に立つ樹木をとらえたものであるにしても

では、前半部は何を歌っているのでしょうか。

 

 

焔(ほのお)が大地を蹂躙する様を

無数の獣、火の獣が駆けめぐると喩(たと)えた第1連が、

あたらしい血に舌なめずる。

神々の嵐。

その無際限な成長力。

無秩序ないのちの奔騰。

――とある第2連へと展開するのに

立ちどまらざるを得ません。

 

 

これらの詩行が訴える

戦争そのものの猛威、

そのメタファー。

 

地獄を見る詩人のまなざしが

一瞬、神々の嵐を映し出します。

 

そのイロニー。

 

その黙示録的な(といってよいのか)詩人の想像力。

 

詩人は

その光景に手も足も出せずに

眼をつむり

そして眼を開けるのです。

 

 

「lost generationの告白」の書き出しを

ここで読んでおきましょう。

 

 

満州事変の勃発したのは1931年(昭和6年)9月のことで僕は満12歳に1箇月足りな

かった。日華事変は1937年(昭和12年)7月に始まったが、このとき僕は満17歳と9箇

月であった。太平洋戦争が始まった1941年(昭和16年)12月には、僕はやっと満22歳

と2箇月になっていた。

 

言いかえれば、僕は、そして僕らの仲間もまた、少年期から青年期にかけての、大凡15

年という重要な期間を、まったく戦争のうちにすごしてきたのである。

 

(同。)

 

 

途中ですが

今回はここまで。

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