新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊<32>「純粋詩」の北村太郎「センチメンタル・ジャアニイ」
前回紹介した「センチメンタル・ジャーニー」(滅びの群れ……)を
「純粋詩」発表作品としたのは
どうやら間違いのようで
「純粋詩」に発表したのは
現代詩文庫収録の1番目の「センチメンタル・ジャーニー」(私はいろいろな街……)でした。
「北村太郎の全詩篇」(飛鳥新社)には
「センチメンタル・ジャーニー」(滅びの群れ……)は1949年の執筆・発表としつつ
発表されたメディアの記述がありませんが
「純粋詩」自体が1949年には「造形文学」に改題されていますから
そもそも「純粋詩」は存在しておらず
したがって発表はありえないことがわかりました。
「純粋詩」が「造形文学」へと改題されたのは1948年9月号からで
「荒地」の詩人たちは
「純粋詩」の最終号(同年8月号)まで発表したのですが
「造形文学」への発表は控えたはずです。
◇
この二つの「センチメンタル・ジャーニー」は
1948年から1949年にかけて制作され
一つは「純粋詩」に発表されたことは確かですが
もう一つがどこに発表されたのかを調べましたら
「詩学」1949年6・7月号初出ということがわかりました。
(「北村太郎の全詩篇」巻末の書誌・初出一覧で確認。)
◇
北村太郎が「純粋詩」にかかわりをもったのは
1946年12月、田村隆一の呼びかけで
鮎川信夫、中桐雅夫、木原孝一とともに神田に集合したあたりとされています。
「純粋詩」の創刊が
この年の3月。
そして同じ年の9月(第7号)に
田村隆一が詩「審判」を発表したのを皮切りに
12月(第10号)には、三好豊一郎、鮎川信夫、北村太郎、木原孝一、中桐雅夫らが
いっせいに「純粋詩」へ寄稿します。
北村太郎が「純粋詩」に初めて詩を発表したのは
この第10号の「亡霊」で
以後、1947年6月(第16号)に「Amoros ma non toroppo」
1948年3月(第24号)「沈黙」
同7月(第26号)「センチメンタル・ジャアニイ」と発表していきます。
初めて詩を発表した第10号からまもなく
翌1947年3月(第12号)からは「詩壇時評」を担当し「頑固な精神」を発表
4月、評論「孤独への誘い」
5月、「投影の意味」
8月、「伝統の否定」
9月、「『変身』について」と次々に散文(評論)を発表
9月には、編集委員に名を連ねますから
この時期、北村太郎の執筆活動の重心は「純粋詩」にあったと見てもおかしくはないほどの集中でした。
一方でこの9月に
月刊「荒地」(第2次)の創刊にも加わり
まもなく年刊「荒地詩集」が
鮎川信夫、田村隆一、黒田三郎、三好豊一郎、北村太郎により計画されていきます。
◇
ということで北村太郎が
「純粋詩」に発表した「センチメンタル・ジャーニー」を
ここで読んでおくことにしましょう。
◇
センチメンタル・ジャーニー
私はいろいろな街を知っている。
黴くさい街や、
日のひかりが二階だけにしか射さない街を知っている。
それでも時には、
来たことのない灰色の街で電車から降りることがある。
私はいらいらして写真館をさがす。
そして見つけだすと、
(それは殆ど街はずれにあるのだが)
そのまえに止り、
片足でぱたぱたと初めての土地を踏んでみるのだ。
ゴム靴がうつろに鳴り、
一度も会ったことのない少女の幻影が、
ガラス越しに街の象徴を私にあたえてくれる。
私はただの通行人。
しかし私はもっと素晴らしい街にいたらと踏んでみながら思うのだ。
東京、
ヴェネチア、
ニューヨーク、
靴を鳴らしてみたいのだ。
パンで苦しむ私の顔が月光のショウウィンドウをのぞきこむ。
パイプが手から舗道に落ちる。
パリの貧民窟。
そこの写真館でなぜ私の空の心が愛に充ちわたらないわけがあろうか。
私はただの通行人。
いまから四年前には、
黄色い皮膚の下に犬の欲望をかくして、
旅順の街を歩いていた。
私は歩くのが好きだ。
私はいろいろな街を知っている。
朝になると、
賭博狂やアルコール中毒の友だちと同じ眼つきで、
私のねじれた希望のように
窓から雑閙の街へぶらさがっているゴム靴を見つめるのだ。
(現代詩文庫61「北村太郎詩集」より。)
◇
先に読んだ「センチメンタル・ジャーニー」(滅びの群れ……)と
この「センチメンタル・ジャーニー」は
第1詩集である「北村太郎詩集」(1966年)では
5章に分けられた章の「1」の中に並べられてあり
こちらが先に置かれていますから
おそらくはこちらが先に制作されたものでしょうが
いずれにしても
「純粋詩」の時代から「1951年版荒地詩集」までの時代に作られ
さらにもう一つある「センチメンタル・ジャーニー」(すばらしい夕焼けだ!)が
「4」に配置されて分け隔てられていることには
多少の意味がありそうです。
(ここでそのことに触れている余裕はありませんが。)
◇
私はいろいろな街を知っている。
――とはじまる詩の世界は
その世界が入り込みやすいものである世界であると感じながら
結末の
窓から雑閙の街へぶらさがっているゴム靴を見つめるのだ。
――へと至るにおよんでは
はて、何が書かれてあったのだろうと
ふたたび冒頭にもどり
中の詩行をたどり直し
何度も何度もそれを繰り返すという
例によって、あの……
それが現代詩を読むという困難と快楽(のようなもの)のなかにあります。
いらいらして写真館をさがす
――とは、なんだろう?
なにを暗喩しているのだろう?
はじめの問いが浮上してきます。
◇
写真館は街の玄関口のようなもの?
鏡のようなもの? と詩は導こうとしているのか。
一度も会ったことのない少女の幻影
――が私に与えてくれる街の象徴。
その私は
4年前には犬の欲望をかくして
旅順の街にいた、歩いていた。
◇
旅順は
北村太郎が海軍に入って赴いた任地でした。
通行人は
旅順という街を歩いたことがありました。
私はただの通行人。
――というルフランは
私はいろいろな街を知っている。
――というもう一つのルフランと
このように呼応しています。
◇
最終行の、
窓から雑閙の街へぶらさがっているゴム靴
――は、きっと、詩の現在であるにちがいありません。
街の朝。
雑踏のなかにぶら下がっているゴム靴を
幻のように真実(まこと)のように詩人は見て
旅を続けています。
センチメンタル・ジャアニイ。
◇
この詩が「純粋詩」に発表されたときには
「センチメンタル・ジャアニイ」であったものを
1951年発行の「荒地詩集」に再発表したときか
第1詩集である「北村太郎詩集」(1966年)のときかに
「センチメンタル・ジャーニー」と表記し直したのでしょう。
ちなみに
角川文庫の「現代詩人全集・第9巻・戦後Ⅰ」(1960年、村野四郎・編)に収録されているのは
「センチメンタル・ジャアニイ」(すばらしい夕焼けだ!)です。
◇
途中ですが
今回はここまで。
« 新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊<31>「純粋詩」の北村太郎「センチメンタル・ジャーニー」 | トップページ | 新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊<33>「純粋詩」の北村太郎「詩壇時評」 »
「125新川和江・抒情の源流その後/現代詩そぞろ歩き」カテゴリの記事
- 新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/嵯峨信之の「利根川」その2(2017.12.30)
- 新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/嵯峨信之の「利根川」その1(2017.12.29)
- 新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/嵯峨信之「*(わたしは水を通わせようとおもう)」(2017.12.27)
- 新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/嵯峨信之「洪水」(2017.12.26)
- 新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/嵯峨信之「声」(2017.12.24)
« 新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊<31>「純粋詩」の北村太郎「センチメンタル・ジャーニー」 | トップページ | 新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊<33>「純粋詩」の北村太郎「詩壇時評」 »
コメント