新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊<26>「純粋詩」の田村隆一「不在証明」
「純粋詩」へ発表した田村隆一の詩を
もう少し読んでみましょう。
「純粋詩」には
「出発」のほかに
「紙上不眠」を構成する詩として
「生きものに関する幻想」と
「不在証明」の2篇とともに
「坂に関する詩と詩論」が発表された(「廃墟の詩学」)のですが
これら計4篇はすべて現代詩文庫1「田村隆一詩集」に載っています。
ここに詩人の愛着を見ないわけにはいきません。
「初期詩篇から」の章には
これら戦後の作品に加えて
戦前の「新領土」発表の詩が幾つか収録されていて
詩人が重要と見做した作品であることを物語っています。
◇
不在証明
風よ おまへは寒いか
閉ざされた時間の外で
生きものよ おまへは寒いか
わたしの存在のはづれで
谷間で鴉が死んだ
それだから それだから あんなに雪がふる
彼の死に重なる生のフィクション!
それだから それだから あんなに雪がふる
不眠の谷間に
不在の生の上に……
そのやうに風よ
そのやうに生きものよ
わたしの谷間では 誰がわたしに重なるか!
不眠の白紙に
不在の生の上に……
紙上不眠・1946年11月
「純粋詩」昭和22年1月号
(現代詩文庫1「田村隆一詩集」より。)
◇
詩は、
ことさら初めて読む詩は、
ひと通り読み終えてのち
字面(こづら)を追ったに過ぎなくて
味わうどころか
何が書かれてあったのかまったく見当もつかない
――というような経験であることを
何度も何度も気づかされることがあるでしょう。
ところが
単に目を通したに過ぎないような読み方であっても
読まなかったこととは
まるで違うのです。
その詩を読んでいなかった時と
一度でも読み通した時とは
有と無ほどの違いがあります。
何かが電撃的に通じてしまう
――といえば
ひとりよがりかもしれませんが
一度読んだものは
何かがわかりかけるというようなことが
やがて起こってくることは確実です
その詩を読み続ける意志があるならば。
◇
こうして……。
風よ おまへは寒いか
――の1行を読みはじめながら
風に寒いかと問いかける
この、これまで経験したことのないような
不思議な詩行に面食らいながらも
次の詩行へ目を走らせて
詩の中へ詩の中へと入り込んでいきます。
分からないながらに
ひと通り目を通すことは
詩を読むはじまりであることは
まちがいありません。
この経験(時間)を通じて
人は詩を読みますし
この経験がなければ
人は詩を読むことはありません。
◇
風よ おまへは寒いか
閉ざされた時間の外で
生きものよ おまへは寒いか
わたしの存在のはづれで
――という「不在証明」という詩の第1連が
ようやく親近してきたのは
一夜明け二夜明けたころで
ある時、ふと何かが降りてきて
認識のようなことが起こります。
◇
生きものよ おまへは寒いか
――という詩行に畳みかけられて
おや!
風と生きものが同じところにあると把握できたとき
その場所その時間は
閉ざされた時間の外であり
わたし(という存在)のはづれ(外)であることが見えます。
聡明な読み手は
一瞬にして
この詩のこの構造をつかんでしまうかもしれませんが
このようにして
ようやくこの詩と親近する場合は多いことでしょう。
ここではそれにしても
3日もかかりました!
◇
途中ですが
今回はここまで。
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