新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊⑱鮎川信夫の戦後
「死んだ男」の冒頭連、その4行、
たとえば霧や
あらゆる階段の跫音のなかから、
遺言執行人が、ぼんやりと姿を現す。
――これがすべての始まりである。
――が鮎川信夫という詩人の戦後のはじまりでした。
遺言執行人であることを
自らの詩(=生)の起点と宣言したのでした。
◇
現代詩文庫9「鮎川信夫詩集」の
冒頭に配置された「1 橋上の人」は
死んだ男
もしも 明日があるなら
アメリカ
日の暮
繋船ホテルの朝の歌
橋上の人
――の6作の連詩のように構成されているのは
この詩集(アンソロジー)の編者、長田弘の手になる再構成だからです。
「1 橋上の人」のタイトルで戦後初期の作品を集めていますが
鮎川信夫はこれらの詩のほかにも
散文(評論)の発表も旺盛に行っていましたから
年代順に初出したメディアともども見ておきましょう。
「荒地」グループが形成されていき
1951年に初めて「荒地詩集」が出されるまでの
鮎川信夫個人の作品歴ということになります。
( )内は、初出誌です。
◇
<1946年>
7月、詩「耐えがたい二重」 (新詩派)
8月、詩「トルソについて」(新詩派)
12月、詩「日の暮」 (純粋詩)
<1947年>
2月、詩「死んだ男」(純粋詩)
評論「詩への希望」(ルネッサンス・第5号)
7月、詩「アメリカ」(ルネッサンス)
8月、評論「ヴァレリィに就いて」(ルネサンス・第7-9合併号)
9月、詩「暗い構図」(雑誌「荒地」創刊号)
9月、評論「カフカの世界」(純粋詩・9月号)
10月、評論「三好達治」(現代詩・10月号)
11月、評論「燼灰のなかから――T・E・ヒュームの世界」(純粋詩・11月号)
<1948年>
1月、詩「秋のオード」(詩学・第5号)
5月、評論「『荒地』の立場」(近代文学)
6月、詩「橋上の人」(ルネッサンス・第9号)
<1949年>
7月、評論「現代詩とは何か」(人間)
評論「詩人の条件」(詩学・11、12月合併号)
※以後、「詩学」の翌年7月号まで、「荒地詩集」1951年版で「現代詩とは何か」のタイトルで収録
される論考が連続して発表されます。
10月、詩「繋船ホテルの朝の歌」(詩学)
<1950年>
評論「詩と伝統」(詩学・6月号)
<1951年>
7月、詩「裏町にて」(詩学・7月号)
8月、評論「森川義信について」(詩学・8月号、※「死んだ仲間」特集。)
以上は、現代詩読本「さよなら鮎川信夫」(1986年)の
巻末年譜(原崎孝・作)をもとに作り直したものです。
◇
こうした経過ののち
「荒地詩集1951年」が、8月に刊行されます。
◇
今や、戦後詩の古典となった
傑作群が次々に生み出されていった歴史を見るようですが
注目したいのは
発表されたメディアが多彩であるところであり
中でも秋谷豊が編集の側にあった「純粋詩」です。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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