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2017年10月 3日 (火)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊⑲鮎川信夫の戦前

 

 

新詩派

純粋詩

ルネッサンス

荒地

現代詩

詩学

近代文学

人間

――と、

鮎川信夫が戦後初期に詩や評論を発表したメディアは

多岐に渡りました。

 

年譜に記載されない発表歴もあるはずですから

この他のメディアも数えられるはずです。

 

戦前の活動を継続(復活)しただけといえばそれだけのことですが

これほどの活動は

詩人にとって自然の成り行きであったとはいえ

相対的にいって旺盛であったことは確かでしょう。

 

首都圏在住の強みもあったかもしれません。

 

 

それでは、鮎川信夫の戦前(そして戦中)の活動を見てみましょう。

 

<1937年 17歳>

早稲田第一高等学校へ入学。

この頃から、「若草」などへ投稿。入選作が掲載され、若い詩人たちに知られるようになる。

神戸在住の中桐雅夫に呼びかけられて、「LUNA」同人となる。同人の森川義信、牧野虚太郎、田村

隆一、北村太郎、三好豊一郎、衣更着信らとの交友はじまる。

 

<1938年 18歳>

3月、村野四郎、近藤東、上田保らが編集する「新領土」に参加。

6月、「LUNA(ルナ)」は「LE BAL(ル・バル)」と改名。

11月、早稲田大学文学部予科の仲間と進めてきた同人誌の名称を「荒地」と決定。

 

<1939年 19歳>

3月、「荒地」(※後に、第1次「荒地」と呼ぶ)創刊。2年間で7冊を発行。6冊目から「文芸思潮」と改

題。

5月、評論「不安の貌」発表(荒地・第2号)。

 

<1940年 20歳>

LE BAL」は、情報局指令により、「詩集」と改題。

4月、評論「文学の摂理」(荒地・第5号)

   評論「近代詩について」(LE BAL

   評論「囲繞地」(文芸思潮)。

 

<1941年 21歳>

3月、詩「囲繞地」(新領土)発表。

4月、詩「雑音の形態」が「新領土詩集」に収録。

5月、「新領土」終刊。48号だった。

10月、評論「スタンダアル」(詩集)。

10月、「鞭のうた」に就いて――牧野虚太郎の霊にささぐ」(詩集)。

 

<1942年 22歳>

3月、「詩集」は「山の樹」との合併号として発行。

「詩集」からの参加者は、鮎川信夫、井出則雄、梅村善作、衣更着信、関保義、田村隆一、中桐

雅夫、疋田寛吉、堀越秀夫、北村太郎、三好豊一郎、森川義信ほか。

5月、「詩集」5月号は早大系の「葦」と合併。

9月、「詩集」終刊。ルナ・クラブは終止符。

 

 

国家総動員法(1939年)による雑誌統廃合の波が

鮎川信夫近辺のメディアにも及んだことがわかります。

 

(もっとも、雑誌統合の結果、「詩研究」と「日本詩」の2誌だけが発行を許された情勢でしたから、当たり  

前のことでしたが。)

 

鮎川信夫は、早稲田を3年で中退。東部第7聯隊へ入隊――となります。

 

 

1941年4月「文芸汎論」

――と末尾に付記された詩「椅子」を

ここで読んでおきましょう。

 

 

椅子

 

ドアはなかば開いたまま

風はもう吹いてこなかった

庭は暗く

光のざわめきも遠ざかり

わたしが憩ふ場所といへば

ただ一脚の椅子があるだけ

気味悪くキーキーといふ音に

樹木の影は怯え

眠れる半身に垂れさがり

それは確かにわたしを支へてゐる

しなやかな鞭のやうに

わたしを愛撫するのはむかしの夢であらう

壁が崩れたら

百合の花が見えて

とほくの海がひろがってゐるかもしれない

だが椅子のキーキーいふ音に

わたしの半身はすでに掠められてゐる

 

(現代詩文庫9「鮎川信夫詩集」より。)

 

 

応召する1年前の作品です。

 

戦争へ駆り出される不安と恐怖みたいなものが

キーキーいう椅子の音にまじって聞こえてきます。

 

やや驚きですが

戦前ですから

歴史的かな遣いで詩が書かれていたのですね。

 

 

鮎川信夫が戦時体制下にこのような詩人活動を辿っていたとき

では、秋谷豊はどのような状況に生きていたのでしょう。

 

年譜の書き方、作られ方が異なるから

比較する無理を承知で

秋谷豊の戦前を見ておきましょう。

 

 

<1938年 16歳>

7月、級友と初めて秩父の雲取山に登る。

9月、「若草」の投稿仲間と詩誌「千草」創刊。

尾崎喜八選の「文庫」や、村野四郎、北園克衛編集の「新詩論」に作品を発表。

 

<1939年 17歳>

尾崎喜八の「山の絵本」に感動、山登りに目覚める。秩父、奥多摩、丹沢、道志、八ヶ岳、甲斐駒、穂

高などを歩く。

 

<1941年 19歳>

4月、日大予科に入学。

 

<1942年 20歳>

日大予科を中退。

海軍省に入る。新聞編集に従事。敗戦まで、航空技術廠、南西方面艦隊設営隊、電波本部に勤務。

軍隊勤務を転々としたが、戦地への召集は免れた。

雑誌「報道」や壁新聞に詩を発表。

「千草」を「地球」と改題。(※第1次「地球」。)

那辺繁が同人となる。那辺は、「四季」「文芸汎論」への投稿家だった。

 

<1943年 21歳>

12月、結婚。まもなく、応召。

南方要員として、部隊はサイパンに向かったが、秋谷だけ召集解除となる。

 

<1944年 22歳>

6月、フィリッピン派遣軍報道班の一員として出発することになっていたが、出発の直前に中止命令が

出る。

 

<1945年 23歳>

3月、空襲のなか、生後21日の長女恵子を病気で失う。

住まいのアパートは全焼。

8月、敗戦。

20名ほどの「地球」同人の大半が戦死、弟も戦傷死した。※「地球」同人の那辺繁も戦死した一人。

 

(以上は、日本現代詩文庫3「秋谷豊詩集」(1982年、土曜美術社)、および「秋谷豊詩集成」(2009

年、北溟社)の巻末年譜をもとに再構成したものです。)

 

 

秋谷豊が鮎川信夫より2歳年下であるところで

世代的経験の微妙な差異がありますが

詩活動で近似しているところは多く

ことさら、詩メディアでは同じ土俵の中にあったところは

注目されるところです。

 

戦後の「純粋詩」では

秋谷豊が編集の側にあり

鮎川信夫は寄稿した詩人でしたし

戦前では「若草」にさかのぼる投稿の常連で二人の詩人はありました。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

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