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2017年10月19日 (木)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊<28>「純粋詩」の田村隆一「生きものに関する幻想」



田村隆一が「純粋詩」に発表した詩は

「紙上不眠」というタイトルの連作詩と考えてよさそうなので

もう一つの「生きものに関する幻想」も読んでおきましょう。



「出発」にも

「不在証明」にも

もう少し近づくことができるかもしれません。







生きものに関する幻想



それは噴水

周囲から風は落ちて 水の音だけひびいてくる……

それは夜のひととき

誰もゐない……

わたしと星との対話

わたしと星とのあひだには それでも生きものがゐて

 わたしを別のわたしにしたり 星を遠い時間に置きかへたりする生きものがゐて……

それは噴水 生きものは孤独

生きものは わたしと星のあひだにゐて やっぱり孤独



それは音楽

地階の部屋から扉をひらいて 誰かによりそってのぼってくる……

それは睡りのひととき

わたしだけしかゐない……

わたしと指との会話

わたしと指とのあひだには それでも生きものがゐて

 わたしをわたしに還したり 樹を雪のふる世界に誘ったりする生きものがゐて……

 それは音楽 生きものは孤独

生きものは わたしと指とのあひだにゐてやっぱり孤独



             紙上不眠・1946年2月

          (「純粋詩」昭和22年1月号)




(現代詩文庫1「田村隆一詩集」より。)








2連構成で

その2連がきっかりしたパラレリズム(対句)で作られています。



1連に噴水のメタファー

2連に音楽のメタファー。



噴水のある夜の風景の中に

わたしと星が対話する1連。



音楽が地階から聞こえてくる睡りのひとときに

わたしと指が会話する2連。



わたしが対面しているどちらとの間にも

生きものが現れ

ひとりぼっちのわたしは

無限の愉悦であるような

無限の地獄であるような時を過ごしています。







この詩も「紙上不眠」を構成していて

共通しているものがあるとすれば

この詩が歌っているのも

「出発」や「不在証明」のように

わたしという存在そのものです。



ことさら

その孤独についてです。







この孤独は

「不在証明」に現われる「不眠の白紙」に通じているものでしょうか。



どうやら「紙上」は

「白紙」に通じ

白紙はブランクですから

詩を書くことの孤立無援に通じ

戦後の荒涼に立つ詩人の絶望や不安などの

イロニーでもあるようです。







詩人は折あるごとに

戦後の自作について記したり喋ったりしていますが

戦後初期の、

これら「純粋詩」発表より少し後の詩である

「腐刻画」の詩群について

次のように回想しています。







ぼくの戦後の詩は、「腐刻画」という散文詩からはじまった。ぼくが、「詩」を“書く”というは

げしい意識をもった最初の詩であった。



そして、その、はげしい意識が、散文詩のスタイルをとらざるをえなかったところに、ぼく

は、ぼく自身の「詩」にたいする一種の絶望を見る。「詩」にたいする“はにかみ”とも云って

いい。



ぼくにとって、詩は、感情の発露ではなくて、“なま”の感情を隠匿するところだ。


(「詩のノート」所収「秋」より。改行・行空きを加えてあります。原文のルビは“ ”で示しまし

た。編者。)







「腐刻画」という散文詩群についての回想ですから

「紙上不眠」の詩に当てはまるものではありませんが

まったく無縁の作品論ではないような部分があります。



文中の「詩」が

終わりの方になって「 」を外され

裸の詩と書き替えられたところに

その証を見ることができます。



詩人は

多かれ少なかれ

感情の発露を抑制するのが常ですが

田村隆一という詩人は

生(なま)の感情を隠匿(いんとく)すると述べています。



これは

「詩」についてではなく

詩についての発言です。







途中ですが

今回はここまで。

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