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2017年11月

2017年11月29日 (水)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/木原孝一の自由詩「星の肖像」

 

 

 

星の肖像

 

海盤車が清教徒を濡らしてゐる

砂丘の向ふで

生命のキャンドルが炎えあがる

 

閉された繭のなかの愛の沙漠

そこから

オボエを吹き乍ら潜水夫が戻つて來る

 

翼のない阿呆鳥よ

華麗な夜の盗賊よ

昨日のアルルカンが消えて行く

 

なかば崩れた石の階段で

裸像の

かるいアントルシアがひかる

 

不意におびただしい隕石が落ちて來る

ねじれた蝙蝠傘が砕ける

さうして未來の希臘が受胎される

 

(「コレクション・戦後詩誌1」(ゆまに書房)所収「純粋詩」(第10号)1946年12月号より。)

 

 

この詩は

「純粋詩」1946年12月号に

木原孝一が「星の肖像」というタイトルで発表した詩です。

 

読んでの通り散文詩ではなく

口語自由詩といえるものです、

歴史的表記ですが。

 

この詩が散文詩集「星の肖像」とどのような関係にあるのか

厳密にはわかりませんが

「星の肖像」というネーミングを

詩人が大事にしていたことがわかります。

 

「星の肖像」の星には

あきらかに詩人が仮託されていて

詩人の来歴なり経験なり足跡なりが

星の歴史として記されようと意図されています。

 

詩人は

自らのプロファイル(肖像)を刻んでおこうとしたのでしょう。

 

 

「星の肖像」というタイトルが公になったのは

この詩が最初だったのではないでしょうか。

 

ところがこの詩は

同じ「荒地」グループの詩人、北村太郎によって批判されました。

 

 

北村太郎は最終連の3行、

 

不意におびただしい隕石が落ちて來る

ねじれた蝙蝠傘が砕ける

さうして未來の希臘が受胎される

――を引用して

この詩行が8年前の「VOU」をめくれば

同じような詩が発見されるだろう、全く変化がないのだ、とこっぴどく批判します。

 

この指摘はくっきりしているものの

西脇順三郎がニーチェの言葉をもじった「あまりに人間的でない」を

この批判にあてはめようとして

木原孝一とこの「星の肖像」という詩の接触点が見えないと指摘したあたりまではわかるのですが

それを近代芸術の魔力と言ったところで

論旨は拡大して不明になり

いずれ詳しく論じたいと評論を終えてしまいました。

 

近代芸術の魔力と北村太郎が言ったものが

この「星の肖像」にあるでしょうか?

 

それを言う以前の

モダニズム詩の残滓を指摘するならわかりますが

なんとも尻切れトンボの批評でした。

 

 

木原孝一が

北村太郎の批判をどのように受け止めたかはわかりませんが

散文詩集「星の肖像」が

この行分け詩「星の肖像」とはまるで異なる作品群でできていることに

その反応を見ないわけにはいきません。
 
それにもまして

この自由詩に

閉された繭のなかの愛の沙漠

――として現れる愛が

散文詩集「星の肖像」のメーンテーマである愛にクロスオーバーしているところは

見過ごすわけにはいきません。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2017年11月27日 (月)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/木原孝一の散文詩集「星の肖像」

 

 

現代詩文庫47「木原孝一詩集」の「Ⅳ」は

23番目に「勲章」を置き

最終24番目に「断崖」を置いて閉じます。

 

散文詩集「星の肖像」も

同様の配置なのでしょうか。

 

「断崖」という詩は一つの恋の終りの彼方に

幾層もの断崖を見はるかして終ります。

 

 

と書いたところで

散文詩集「星の肖像」の内容がわかりましたので

ここに記しておきましょう。

 

1954年に昭森社から発行された散文詩集「星の肖像」は

初版、限定500部、特装版20部の印刷で

北園克衛が装丁しました。

 

北園克衛とは「VOU」以来の交流が続いていたわけです。

 

1902年生まれの北園克衛は52歳、

1922年生まれの木原孝一は22歳になる年でした。

 

 

38作品が収録されています。

 

目次は――。

 

符号

沈丁花●

時計塔

会話

灯●

假面●

貝殼●

薔薇

蟻●

煉瓦●

壁画

沙漠●

風景●

水晶

劇場

鳩●

廃船●

巻煙草●

伝説●

懸崖●

古典

鎖●

棕櫚●

砂丘●

橋●

銀杏

眼鏡

歯●

皿●

勲章●

断崖●

覚書

 

――という内訳になっています。

 

●印が現代詩文庫47「木原孝一詩集」の「Ⅳ」に収録された作品です。

 

 

38作品のうち24作品が

現代詩文庫47「木原孝一詩集」の「Ⅳ」に収録されています。

 

戦時下の恋をあつかった「沙漠」以下の詩は

幾つか選択されませんでしたが

「Ⅳ」にある詩でほぼ全容が明らかにされていることが言えるでしょう。

 

木原孝一が1954年に発表した恋愛詩を

1972年の現代詩文庫にも

ほとんど配置したということの意味は

けっこう重要なことでありそうです。

 

 

詩人は「星の肖像」を

こよなく愛着していたと言えるのですし

新川和江に

現代の恋愛詩について語ったのもこの頃のことであることが思い出されます。

 

新川和江によれば

「新川さん、恋愛詩ひとつ書くにしても、なにか、こう、宇宙に通じるようなものを書かなくちゃ、ダメなんだよなァ」と

木原孝一は語りました。

 

(現代詩文庫64「新川和江詩集」収録「始発駅まで」より。)

 

 

そういえば「星の肖像」の詩が

宇宙に通じている恋愛詩に見えてくるではありませんか!

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

2017年11月26日 (日)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/木原孝一「星の肖像」へ「勲章」

 

 

現代詩文庫47「木原孝一詩集」(1972)の「Ⅳ」が

散文詩集「星の肖像」(1954)と同一のものかわかりませんが

「Ⅳ」は半ばにさしかかり

ある女性との恋愛模様を扱います。

 

沙漠

風景

廃船

巻煙草

伝説

懸崖

棕櫚

砂丘

勲章

――の14篇に

貴方、あなた、僕らなどと明示されたり

比喩としても登場したりする

女と男のドラマが展開します。

 

全24篇中の過半を占めるわけですから

「星の肖像」という詩集の意図の一端をこれは示しています。
 

ドラマとは言っても

詩人の内面的心理的思索的なつぶやきのような詩であるうえに

ときには男女の会話も現われるといった散文詩なので

起承転結の形はぼんやりとしか見えません。

 

順を追って

じっくりと読まないと見えてきませんが

戦時下の恋愛詩といってもオーバーではない詩群が集められています。

 

 

この恋愛が半自伝「世界非生界」の昭和16年の項に、

 

家族5人の静かな生活が続く。この4箇月間、ある酒場の女性と恋愛。上野、人形町、京橋とその女性の勤めさきの酒場にかよう。大陸で過した無頼の生活が、そうしたパセティックな愛しか成就させなかった。

――とある女性との交流(交情)であることは

疑う余地がありません。

 

兵士の休息の合間に見え隠れする

雲間の陽射しのような恋ですが

「Ⅳ」の最終詩「断崖」には

女性の影はありません。

 

その前の詩「勲章」で

この恋愛は終焉に至ったことがわかります。
 

 

勲章

 

 さよなら。

 僕は唇が不器用にゆがむのを感じながらそう言った。それは僕の青春の最後にふさわしい勲章だった。幼年のころ胸に飾った鉛の勲章のようにそれは鈍い音をたてた。だが貴方はその言葉を言わなかった。苦いビイルを飲みほすと額のうえで激しい動悸がした。ふと僕は幾月かまえに熱砂の果てに灼きついていた僕の影を思い浮べた。そこへゆこう。あの激しい沙漠のなかへなにもかも埋めてしまうために。貴方の濁った眼をみつめながら僕はたちあがった。その濁った眼のなかには劇薬の匂いのする僕らの不幸があった。まるで拡がらない翼を持った剥製の雉子のように。それでも貴方はまだ最後の言葉を言わなかった。

このままで。

僕らはそう言うよりほかに仕方がなかった。窓の外には無数の星が光っている。冷笑する仮面のように。

 

(現代詩文庫47「木原孝一詩集」より。)

 

 

これは

別離の詩でありましょう。

 

そこへゆこう。あの激しい沙漠のなかへなにもかも埋めてしまうために。

――という詩行が語る真実はしかし

それ以上を想像することしかできません。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2017年11月24日 (金)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/木原孝一「星の肖像」へ「沙漠」

「蟻」のなかの詩行に、

小さな石のかげに一匹の蟻

――とあるのは

小さな石のかげに蟻の群れ

――とするべき間違いのようで

それに気づかないまま

作品として発表したものではないでしょうか。

 

すこしも苦しまずに幸福をつくっているやつもいる。

――という1行が

そうでないと文法的に生きません。

 

 

あるいは、大きな省略(飛躍)が凝らされていると考えることもできます。

 

蟻の群れがあり

その中の1匹を凝視した瞬間が扱われたと

誰しもが受け取ることができます。

 

 

蟻のなかには

苦にしている風も見せないのがいて

多くの蟻が必死に働いているのに

あの1匹だけはどのようにしてあのように幸福そうにしていられるのか。

 

小さな羨望がおこるのですが

それが一瞬にして

憎悪へと変わるのを止められません。

 

失われた日々が

不意によみがえったのでしょうか。

 

その答えを見い出したかのように詩(人)は

おもむろにその1匹の蟻を踏み潰してしまいます。

 

 

この行為はやはり幸福にあずかっていない者の屈折というしかなく

それは戦争に否応もなく動員されていることから生じる

二重に疎外された感覚ということができそうです。

 

兵士の休息の合間にこうして

詩人は抑圧されて眠っていた自然な(まっとうな)感覚をとりもどします。

 

 

「蟻」につづく「煉瓦」もまた

休息のひとときに取り戻した思索を刻みます。

 

そこでは

戦争の時間は停止したかのように静寂が漂いますが

「砂漠」にはその静寂の深部から

突然、紫色の着物の女性が登場し

この詩のなかにドラマの進行が期待されますが

記述にはどこかたどたどしいものがあります。

 

 

沙漠

 

 その紫色の着物はまるで貴方を少女のように見せた。夜更けのもうなかば飾窓の閉まっている舗道では篠懸の葉だけ

が微風にゆれていた。この微風は橋のむこうの沙漠から吹いて来る。僕らがたどり着くことのできるのはその沙漠だけか

もしれない。それは仄白い街燈の光る橋のむこうにかすかに見えている。僕はあわてて振り返った。けれど貴方は無言

のうちに沙漠のほうへ足をむけていた。

 僕らの行き着くところは沙漠よりほかにないのだろうか。

 ふと僕は熱気を帯びた微風がもう肋骨にまでも吹きつけているのを知った。

 そこへゆこう。不運の果てへゆこう。いつ来るとも知れない絶望の槌を待つよりは。鋸の

刃のように喰い入ってくる愛の

不安にたえるよりは。だが貴方は黙ったまま舗道のうえの橋のほうへ歩いていた。紫色の着物と銀のロケットとがまるで

その夜の貴方を少女のように見せていた。

(現代詩文庫47「木原孝一詩集」より。※篠懸は「すずかけ」のことです。編者。)

 

 

貴方とは誰なのだろう

――と問うことはそれほど意味のあることではないでしょう。

 

そのことについて

詩(人)は何も示しません。

 

貴方という親密な相手を思わせるだけです。

 

 

僕らの行き着くところは沙漠よりほかにないのだろうか。

――という詩行が

この詩の謎を解くカギとなるでしょう。

 

そこへゆこう。

不運の果てへゆこう。

いつ来るとも知れない絶望の槌を待つよりは。

鋸の刃のように喰い入ってくる愛の不安にたえるよりは。

――という詩行が

詩人の決断を語りますが

この決断の行方はどのようになるでしょうか。

 

貴方は

「沙漠」以後もずっと「Ⅳ」(「星の肖像」と同一ではないかもしれない)に

現われ続けます。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2017年11月23日 (木)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/木原孝一「星の肖像」へ「蟻」

 

 

「星の肖像」は昭和29年(1954年)の発行ですから

現代詩文庫47「木原孝一詩集」「Ⅳ」の最終詩「断崖」が

戦後に書かれた可能性を否定できませんし

その可能性が高いといったほうが近いでしょう。

 

だとすると

「断崖」に現われる「火成岩」や「硫黄の匂い」や「黄白色の煙」などが

木原孝一の最後の任地、硫黄島の風景であることを

想像するのはたやすいことです。

 

その風景の一断面が切り取られた回想ということになります。

 

 

では、「Ⅳ」の冒頭詩「鐘」の制作は

いつごろに遡ることができるでしょうか。

 

そういう目で読み返してみると

こちらも、

少年の未来が

戦争の予感、不安・怯えに捉えられた一瞬を

切り取った詩であるように思えてきてなりません。

 

 

しかし、戦争の影を読まないことも可能で

一人の少年が

ある日、家路をいそぐ田舎道で抱いた

わけもわからない不安・怯えが

古寺の鐘の音に遭遇して一気に噴き出てきた経験をあらわした詩であるとすることもできるでしょう。

 

あえて戦争に結びつけなくても

少年を襲った未来への不安を歌った詩として。

 

 

戦争期を経過して作られた詩ならば

少年期を回想するなかに

戦争の体験が混ざり込むのも自然の流れというものです。

 

さて、どちらに読んだらよいでしょうか。

 

ヒントを「星の肖像」の

ほかの詩を読むことによって探ることにしましょう。

 

 

現代詩文庫47「木原孝一詩集」の「Ⅳ」に収められた24篇を

順に読んでいくと。

 

「鐘」は、

白い麦藁帽子の僕、田舎の家への帰りみち

――などと冒頭にあるように、

 

次の「符号」は、学生服の僕、

「沈丁花」は、桧の真新しい机を前に坐っていた。頭髪を短く刈った少年の僕、

「時計塔」は、僕はまだ着なれない背広を気にしながら、

「灯」は、光る波のうえ、二等甲板の白い手摺りにもたれて、

「仮面」、アンペラの扉、クリイクの岸、支那犬の遠吠え、

「貝殻」は、海浜の療養所、

――などと

かならず詩が扱う場所や時が冒頭部に現れるのに気づきます。

 

少年が小学校低学年から高学年へと進級し

中学の終りの頃には実地研修で船に乗り

やがては徴用されて支那の地を踏むといった足跡が記されているのを

読み取ることができるのです。

 

「蟻」は

8番目にある詩ですが

灼けた砂礫が遠くつづいている南瓜畑の道とある場所が

どこのいつのものであるかははっきりしません。

 

流れからいえば

任地のどこかですが

その時の内面の一瞬がクローズアップされて捉えられました。

 

 

 

 灼けた砂礫が遠くつづいている南瓜畑の道を僕は髪を乱したままどこへともなく歩いてい

た。ふと僕は小さな石のかげに一匹の蟻が象形文字のように動いているのを見た。

 すこしも苦しまずに幸福をつくっているやつもいる。

 そう考えると僕はふいにそのちいさな羨望が憎悪に変ってゆくのを知った。そして砂のう

えに動いている一匹の蟻を踏み潰した。まるで不運がさせる僕の空白の日日にむくいるか

のように。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2017年11月21日 (火)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/木原孝一「星の肖像」へ「鐘」

 

 

木原孝一は昭和13年(1938年)12月、東京府立実科工業学校建築科を卒業し

すぐに近衛師団司令部付になり

翌年3月まで野戦建築の講習をうけます。

 

この年の夏、大学への進学をあきらめ

卒業すればただちに陸軍の技師になって戦場へ赴くことを決意していました。

 

昭和14年(1939年)4月、中支派遣軍司令部への転属を被命、

東京駅前の「八重洲楼」で「VOU」のメンバーが壮行会をやってくれた

――などと自伝「世界非生界」にあります。

 

広島の宇品から上海へ

揚子江をさかのぼり南京へ

中支那派遣山田部隊(軍司令部)に着任したのは4月のうち――。

 

兵士の日々の中に

たちまち投げ出されます。

 

 

昭和16年の項に「星の肖像」は書き続けられていたことが記されますから

そうすると「星の肖像」はいつまで書き続けられたのでしょうか。

 

「断崖」が最後だったのでしょうか。

 

現代詩文庫47「木原孝一詩集」の「Ⅳ」には

24篇の散文詩が収められていますが

では、その冒頭にある「鐘」は

いつごろ作られたものでしょうか?

 

第1詩集「星の肖像」が

なぜ「Ⅳ」に配置されたのでしょうか。

 

このように問うことが

木原孝一の詩への糸口に繋がっていきます。

 

 

 

その桑畠の道には初夏の微風とともに巴旦杏の甘ずっぱい匂いが流れていた。白いパン

ツと麦藁帽子の僕は一匹の蜻蛉を手にたったひとり田舎の家への帰りみちだった。日暮

れの太陽は遠い山脈のむこうの空を蜜柑水のように光らせていた。僕の細い足はもうよほ

ど前から痛みはじめていた。砂埃にまみれた白いズックの靴は幼年の僕に異様に重く感じ

られた。そうした桑畠をぬけて竹藪の多い坂道にさしかかろうとすると不意に僕のゆくてで

オルガンの高音部のような鐘が鳴りはじめた。ひとつ。ふたつ。それは次第に澄んで音色

を黄昏の村のなかへ響かせていった。その憂愁を含んだ鐘の音は僕にたえ切れぬ不安を

投げつけていた。僕は蜻蛉のことも忘れて思わず声をあげて泣きはじめた。道はその暗い

坂の下にも果てしなく続いていた。僕は道に迷った少年のようになぜか何時までも泣きや

まなかった。道端には名も知れぬ白い花がにじむように咲いていた。

 

(現代詩文庫47「木原孝一詩集」より。)

 

 

この詩は「Ⅳ」の冒頭詩です。

 

「星の肖像」という散文詩群のうちでも

初期に制作されたであろうことが推測できます。

 

少年(幼年)の僕が

暮れはじめた田舎の桑畑の道を帰る――。

 

とつぜん、どこからともなく聞こえてくる

オルガンの高音部のような鐘の音に

少年はおびえ泣き出してしまう。

 

泣き出して泣きやまない。

 

その記憶を歌う美しいリリック(抒情詩)です。

 

 

少年が感じた存在(生)の不安みたいなものをさそった鐘は

どんな鐘だったのでしょう。

 

古寺の鐘だったのでしょうか。

 

木原少年も中也少年のように

世の滅ぶきざしのようなもの(「少年時」)を

鐘の音に聴き取ったのでしょうか。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2017年11月17日 (金)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/木原孝一「星の肖像」へ「断崖」

 

 

現代詩文庫47「木原孝一詩集」「Ⅳ」の「沈丁花」という散文詩が

散文詩集「星の肖像」の中にあることを

巻末の作品論・詩人論「生きている者のための祈り」で

平井照敏が記していることを知りました。

 

現代詩文庫の「木原孝一詩集」(1972年)は

それまでに発表した

「星の肖像」

「木原孝一詩集」

「ある時ある場所」

――という三つの詩集の収録作品を再構成したものと

著者自身が付記しているのですが

「Ⅰ」「Ⅱ」「Ⅲ」「Ⅳ」の4部に仕立てた意図についての案内がないので

少し戸惑います。

 

戦地体験を扱ったもの

敗戦後に書いたもの

(戦後復興後の)現在

戦争以前に書いたもの

――などに分けられていることは

読めばわかるといえばわかるのですが

大元の詩集を手元に持たない読者には

わかるまでに時間を要してしまいます。

 

「Ⅳ」が詩集「星の肖像」と同一ではないにせよ

部分であるなら(部分以上であるかもしれませんが)

戦前の作品とみてよいでしょうか。

 

詩を読みましょう。

 

 

断崖

 

 その道は火成岩の破片や白い砂礫を曝しながら頂上までつづいていた。硫黄の匂いや岩の裂けめからたちのぼる黄白色の煙は僕をいっそう傷ましく見せていた。僕は額からにじみでる汗をぬぐおうともせずに岩の突起に躓きながら歩いていった。間断なく下の谷間にむかって礫の落ちる音が異様な予感を覚えさせたりした。その頂上にはわずかな茂みのなかに菫の花が咲いていた。ふと僕は僕の登って来た谷間を眺めた。黄白色の煙は不気味な沈黙のなかにたちのぼっていた。それは火をつけた一本の巻煙草に似ていた。突然僕は谷のなかに葉の落ちつくした一本の楡の木を見出した。それはなぜか僕に淡い恐怖をさえ感じさせた。断崖。僕はそうした荒凉たる火成岩の谷間のなかにいくつもの僕の断崖を見出していた。

 

(現代詩文庫47「木原孝一詩集」より。)

 

 

これは「Ⅳ」の末尾に配置されている詩です。

 

詩集「星の肖像」でも

末尾にあるのかどうか不明ですが

戦争の影が映っているようには見えない内容であるところに

かえって惹かれるものがあります。

 

戦地を体験する前の

青年詩人の思索、その片鱗――。

 

思索というよりは

日記にちかいつぶやきのようなもの――。

 

 

しかし、

半自伝「世界非生界」の昭和16年(1941年)の項で

太平洋戦争がはじまったこの頃にも

詩人は散文詩集「星の肖像」を書き続けていたことを記しています。

 

断崖はやはり、戦争のメタファーなのでしょうか。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2017年11月15日 (水)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/木原孝一「星の肖像」へ

 

 

木原孝一の半自伝「世界非生界」(現代詩文庫47「木原孝一詩集」所収)によれば。

 

「荒地」グループと接触したのは

VOU」に入った翌年の昭和12年(1937年)の夏休みに

黒田三郎が上京して

洗足池(現・東京大田区)で会ったころのことです。

 

府立実工(東京府立実科工業学校)は

旧制中学(5年制)のことで

その建築本科に入学したのが昭和9年(1934年)。

 

3年生のとき、昭和11年に

自転車で行ける距離に住んでいた北園克衛を訪ね

VOU」へ入会しました。

 

VOU」に作品を発表すると

神戸の中桐雅夫が「LUNA」を送ってきたり

田村隆一や北村太郎が手紙をくれたりした

――などとあり

上京した黒田三郎と会ったのは

これら通信による交流の流れのなかでのことだったようです。

 

 

1937年といえば

中原中也が没した年で

大正11年(1922年)生まれの木原孝一は15歳でした。

 

「荒地」の草創世代が

中也が他界した年に

中学高学年であったことは

ちょっとした驚きであるとともに

銘記しておきたいことです。

 

もし中也が生存していれば

40代半ばで

北村太郎の言う先輩詩人の世代にあたりますから

同時代ともいえるわけです。

 

中也と「荒地」は

さほど遠い世代ではありませんでした。

 

 

現代詩文庫47「木原孝一詩集」(1972年)は

詩集「星の肖像」「木原孝一詩集」「ある時ある場所」をもとに

作者がやや強めの編集を加えて作られたものですから

たとえば「星の肖像」という詩(あるいは詩群)が

どこに配置されているのか

散文詩集「星の肖像」とのちに呼ばれる作品との関係もわかりません。

 

4部立ての「Ⅳ」に

散文詩が集中して配置されていますが

これらが初出時の「星の肖像」を含んでいるのかも

わからない作りになっています。

 

 

「純粋詩」に木原孝一が発表した作品は――。

 

1946年12月・第10号

星の肖像

 

1947年2月・第12号

シュルレアリズムに関するノート(評論)

 

同年8月・第18号

Chanson ‘amour

ヂレッタンティズムの誘惑(評論)

 

同年10月・第20号

純粋な鶯の変声期に就いて(評論)

 

1948年1月・第23号

告別

 

同年3月・第24号

新しきフランスへ(評論)

 

――となっていて

この中の「星の肖像」を読みたいところですが

これを現代詩文庫47「木原孝一詩集」に見つけることはできません。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

2017年11月13日 (月)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊<35>「純粋詩」の北村太郎「孤独への誘い」続

 

 

 

「孤独への誘い」の「2」は鮎川信夫の詩への

オマージュです。

 

と、言ってよいと思います。

 

「純粋詩」1月号に載った鮎川信夫の「死んだ男」を読んだ詩人が

素直にその感動を書き残すことを

時評の役割と認識したスタンスが伝わってきます。

 

1947年1月の詩誌を見渡せば

そこに「死んだ男」という詩が「純粋詩」の中にあって

それを案内することだけでも

批評になるという確信が詩人にはあったのでしょう。

 

ざっと見渡したこの月の詩誌のなかで

最も歯ごたえのある詩が

この「死んだ男」だったに違いなかったはずでした。

 

 

この詩はすでに

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊鮎川信夫「死んだ男」」で読みましたが

ふたたびここでめぐり合うとは

予期しないことでした。

 

「荒地」の詩人が

仲間うちの詩をどのように読んだのかという意味でも

とても惹かれるものがありますので

ここでもう一度目を通してみましょう。

 

 

死んだ男

 

たとえば霧や

あらゆる階段の跫音のなかから、

遺言執行人が、ぼんやりと姿を現す。

――これがすべての始まりである。

 

遠い昨日……

ぼくらは暗い酒場の椅子のうえで、

ゆがんだ顔をもてあましたり

手紙の封筒を裏返すようなことがあった。

「実際は、影も、形もない?」

――死にそこなってみれば、たしかにそのとおりであった

 

Mよ、昨日のひややかな青空が

剃刀の刃にいつまでも残っているね。

だがぼくは、何時何処で

きみを見失ったのか忘れてしまったよ。

短かかった黄金時代――

活字の置き換えや神様ごっこ――

「それが、ぼくたちの古い処方箋だった」と呟いて……

 

いつも季節は秋だった、昨日も今日も、

「淋しさの中に落葉がふる」

その声は人影へ、そして街へ、

黒い鉛の道を歩みつづけてきたのだった。

 

埋葬の日は、言葉もなく

立会う者もなかった、

憤激も、悲哀も、不平の柔弱な椅子もなかった。

空にむかって眼をあげ

きみはただ重たい靴のなかに足をつっこんで静かに横わったのだ。

「さよなら。太陽も海も信ずるに足りない」

Mよ、地下に眠るMよ、

きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか。

 

(現代詩文庫9「鮎川信夫詩集」より。)

 

 

北村太郎は書き出しの4行、

 

たとえば霧や

あらゆる階段の跫音のなかから、

遺言執行人が、ぼんやりと姿を現す。

――これがすべての始まりである。

 

――に鷲づかみにされ(捉えられ)、

最終行の、

 

君の傷口は今でもまだ痛むか。

 

――という1行にいたって強く感動したということをまず述べます。

 

詩の冒頭行から終行へといたる

詩を読むという営為の

詩が心を動かすことの仕組みを語ろうとしますが

それを説明することの困難さを十分に知っています、はじめから。

 

それはどこからやってくるでしょう?

 

それを批評する言葉なんてないよ

――とはじめから投げ出すようですが

投げ出すのではなく

やはりそれを言葉にすることを試みるのです。

 

 

それは、他人の容喙(ようかい)を永遠に拒否するもの。

 

嘴(くちばし)をはさむことを受けつけない個の存在。

 

だから、技術的批評は無益なのです。

 

だから、

きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか

――という最終行の誘(いざな)いに乗るだけだ。

 

その、孤独への誘(いざな)いに、

渦まく流れのなかの木の葉のように

他愛なく引きずりこまれるだけだ

――と記します。

 

というように、

これは批評ではなく

つぶやきであることを述べますが

このつぶやきには

詩とは何かということのヒントが含まれています。

 

 

そこで指摘するのが2点、

そのうちの一つが、この詩の平易さ。

 

逆に言えば、難解な詩への考察です。

 

もう一つが、この詩を読んだ時に起こる困惑について。

 

 

第2のつぶやきは、

この詩に相対したときの困惑について考えながら

いつのまにか

詩とは何か

詩は何処にあるか

――という大テーマについての濃密な思惟の展開になっています。

 

大テーマを語っているのにもかかわらず

それはさりげないようなので

通りすぎそうなのですが

後々、尾を引くように

考えさせられるつぶやきです、それは。

 

 

すでに前置きで

 

きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか

――という最終行の

孤独への誘(いざな)いに

他愛もなく引きずりこまれた「詩の経験」が語られているのですが

ここでもまたその経験が考察されます。

 

ここでTS・エリオットが引用され

詩(という観念)は、われわれが読んだすべての詩からも抽象されない

――という

どこにもないものだ。
 
けれど、
ある時、ある場所で、ある人が

この詩「死んだ男」を読んで困惑を感じたというようなことがあれば

その人に詩は存在したということができるだろう。

 

詩はそういうものに近いという

詩(人)論になっています。

 

つぶやきの形での。

 

 

この時評のタイトル「孤独への誘(いざな)い」の意図が

最後の最後でようやくわかることになりました。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

2017年11月10日 (金)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊<34>「純粋詩」の北村太郎「孤独への誘い」

 

 

作品批評というものは

対象とした作品の作者を明らかにしないでは成り立ちませんから

反論も予想されますし

返り血を浴びる覚悟を要することでしょうし

時評ともなれば

対象は広範に渡りますから

勇気も必要であることでしょうし

「純粋詩」は全国誌でしたから

反響もすごかったことが想像されます。

 

「純粋詩」への北村太郎の「詩壇時評」の2回目は

1947年3月号(第13号)に発表した「孤独への誘い」でした。

 

ここではテーマは2点。

 

一つは「空白はあったか」と題する「1」、

もう一つは「『死んだ男』について」と題する「2」。

 

「空白はあったか」は

「現代詩」1月号が組んだ座談会「現代詩の系譜と其の展望」への

これも激越な批判でした。

 

 

北川 新しく出てくる詩人のためにどうしても啓蒙が必要と思うんだ。それは僕らの義務だと思う。広い意味の戦争時代、ここ10数年というものはまったくブランクだからね。

近藤 悪時代が書かせるんだね。

北川 それにしても、今は、一等啓蒙を必要とする時代なんだ。自己啓蒙の意味もあるんだよ。

 

杉浦 ……今までに約10年間のブランクが出来てしまった。つまり戦争中は日本の詩が芸術的高貴(香気)よりは愛国主義的精神に傾いて詩が本質を失いかけていました。

 

安彦 私ども20代の青年は全く無知です。詩について何もしらない。詩とはどんなものかと人にきかれたなら答に窮するものが多いと思います。

笹沢 そうだろうなあ。恰度10年以上も詩が空白になってしまったんだから。これは我々の大なる責任だ。           (以上いずれもゴシック北村) 

 

※「ブランク」や「空白」の語をゴシック体(太字)に印字の指示を出したのは北村太郎自身であることの注記です。

 

(現代詩文庫61「北村太郎詩集」所収「孤独への誘い」より。原文の漢数字は洋数字に変えました。編者。)

 


 
まずピックアップされたのが

座談会の中のこのような別々の場面での発言でした。

 

ここでは座談会の出席者の名前を問題にするものではありませんし

北村太郎も当時それを問題にするよりは

発言の内容を重視したはず、といえばきれいごとにすぎるでしょう。

 

この文には、

だれそれと発言者の固有名をあげて個人を追及するというよりも

発言内容そのものが詩人にとっては火急の問題でしたから

批判した対象は固有名ではないように見えますが。

 

まるで存在を否定されたのですから

存在を否定した個人(先輩詩人)への怒りは

滲み出ることになります。

 

これを読んだ若き詩人、北村太郎がどのような感情を抱いたか

それを察するに余りありますが

その感情は努めて押し隠されようとされます。

 

戦争の時代を座談会のこれら発言のように

空白、ブランク、何もなかった――と一括(くく)りにされた詩人は

反発の根拠、理由を

冷静に明示しようとしています。

 

どのようなことを

北村太郎は言っているでしょうか。

 

 

僕は20代の詩人諸君にお訊ねしたい。君たちは昭和6年ごろは小学生だった。12年ごろは中学生だった。そして16年ごろは大学生だった。その時に大戦争が起った。君たちは戦場に行った。そして20年の夏に還って来た。その数10年のあいだに、君の詩は、君の存在は、君の精神はブランクだったか。空白はあったか。

(同。)

 

 

ここに出てくる君たちとは

北村太郎自ら(の世代の詩人)を指していることは明らかです。

 

詩人は続けます。

 

空白なんてものはどこにもありはしない。僕たちが、僕が、君が、そして個人個人が息も絶えずに存在している限り絶対にない。

――と。

 

長い戦時体制(戦争)の下で

僕たちは息をしていたのですよ。

存在していたのですよ。

ブランクなんてもんじゃなかったのですよ。 

 

僕たちは

孤独のうちに

生きていたのですよ。

 

詩を生きていたのですよ。

(という言葉を書いてはいませんが。)

 

 

そして

愛国詩集とか辻詩集とかに

名前を連ねた多くの先輩詩人が存在したことを

僕らは忘れまいと念じます。

 

このことは言っておかないといけないことと

自らにも釘をさすかのように。
 
彼らが空白だ、ブランクだ、という時代にぼくらはまさにこの肉体を持って生きてきた、

――と断固として言い放ちます。

 

 

この「孤独への誘い」が載った「純粋詩」の同じ号に

鮎川信夫の評論「囲繞地」が載り

田村隆一の詩「目撃者」

三好豊一郎の詩「青い酒場」が載りました。

 

「荒地」は

水を得た魚のように旺盛でした。 

 

この勢いの中で

「2」の「『死んだ男』について」が書かれます。

 

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

 

2017年11月 3日 (金)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊<33>「純粋詩」の北村太郎「詩壇時評」

 

 

 

ひと言でいえば考えるという作用の消滅。だが考えるとは何だ? 学生が西田幾多郎や田辺元や河合栄治郎の著作を小脇に抱えこみ、ダス・カピタルを机上に積んでいる図を見て、いまの若き世代は思想に飢えているなぞと脂さがるほどばかげたことはあるまい。(略)。

 

少なくとも食に飢える程度に人間が思想に飢えるなどというばかな話はないのである。僕はかれらの一人一人の顔を見る。これが思想に飢えた面か? 僕は吹き出す。冗談じゃない。

 

(現代詩文庫61「北村太郎詩集」より。改行を加えました。)

 

 

北村太郎の「詩壇時評」は4部立てで

「1」「2」をやや長めの前置きにあて

「2」に以上のやや過激な慨嘆(がいたん)をはさみます。

 

この吐露!に遭遇して

もう一度、この時評の冒頭部がどんなだったか

眼を覚ますかのようにして読み返してみると、

 

僕らはこの数年間を激烈にして苛酷、冷厳にして無常な時間のうちに過してきた。もちろんそれは僕らだけではない。無数の人間群が同じことを経験してきた。しかし重大なのは僕らが(或いは僕だけかもしれないが)それを経験してきたということだ。

――と書かれてあるのに巡りあいます、はじめて読むかのように。

 

人によってはこうなりはしないのでしょうが

「2」の激越な慨嘆にぶつかり

「1」 のはじまり、つまり、この評論の書き出しに戻るというような読み方だったことを

告白しなければなりません。

 

激烈にして苛酷、

冷厳にして無常な経験。

 

こう記されてあっても

はじめ、なんのことだか理解できず

「1」 を読み過ぎるだけであったことが偽らざる経過でした。

 

経験とは、

敗戦がもたらした

さまざまな困難を指すでしょう。

 

 

「純粋詩」の1947年3月号は

北村太郎が当時の詩作品への批評を買ってでたという

今日から見てそれだけでも瞠目に値する事件のようなことが起きていました。

 

初期の北村太郎には

論争も辞さない姿勢があったにちがいなく

そうでなければ批評などできないということに思い至り

驚きの眼を向けないわけにはいきません。

 

どのような経緯で

詩壇時評を北村太郎が担当することになったのでしょうか。

 

「純粋詩」主宰者の福田律郎らとの間に

どのような議論が行われた結果であったのでしょうか。

 

詳しいことは不明ですが

第10号(1946年12月)にいっせいに「荒地」グループが参加してきたのと入れ替わるように

それまで福田とともに編集の側にいた秋谷豊が「純粋詩」を去った事態と

北村太郎のこの「詩壇時評」担当の関係のダイナミズムは想像するしかありません。

 

 

現代詩文庫61「北村太郎詩集」(1975年、思潮社)には

評論・エッセイの部に

「純粋詩」に発表した散文3作、

「詩壇時評」(1947年3月号)

「孤独への誘い」(1947年4月号)

「投影の意味」1947年5月号)

――が収録されてあり

この選択が北村太郎自身のものであるはずですから

「純粋詩」発表の位置づけを

詩人が重要視していたことを物語ります。

 

これらの評論が

「荒地」の再出発へのバネの一つになったことは間違いないことでしょう。

 

「荒地」は

詩論の時代を戦後詩史の上に刻んだのですから。

 

 

先の冒頭部「1」「2」の続きを読んでみましょう。

 

「3」に入り、北村太郎はおもむろに

「下手な詩と上手な詩」について切り込みます。

 

FOU」第8号に発表された

園部亮という若い詩人の詩を

名指しでその詩行を取り上げて批判します。

 

いきなり悲鳴をあげて砕ける鏡!

――という詩行を

この行はいかにもまずい、と言って。

 

「悲鳴をあげて」が

イマアジュに乏しく

“実態のなさ”(原文は傍点)が読者を混乱させる、と指摘して。

 

そして、

ロオトレアモンやヴァレリイや

シュルレアリスムの誤読に触れながら

言葉の技術について突っ込みます。

 

技術は、詩人の天性と経験が一体になったときに発揮されるもので

どちらが欠けても存在しないという持論を展開するなかで

天性だけに頼る詩人が多く

そのために技術を駆使するように見えて

自己の可能性の範囲を苦しげにのたうち回っている。

 

経験という無限の荒地に

なぜ眼を向けないのかと疑問を呈します。

 

うまい詩が読者をごまかしていることに

警鐘を鳴らしているのですが

やはりここで言おうとするのは

小手先の技術というよりは

無限の荒地である経験の重みの方です。

 

 

次の「4」では

「ゆうとぴあ」第2号の村野四郎の「亜流論」に同感しながら

いくつかの詩誌に

北園克衛が使いはじめた「あ」という感嘆詞が目についたこと

人まねに無頓着なこのような詩人には

「ルネサンス」第4号所載のTS・エリオットを

10回か20回か読んでみることを薦めています。

 

詩人は自分の言葉でしか語らないのだから

他人の言葉を自作詩に使うときこそ必要となるのが技術、という主張を込めて。

 

 

そして最後に取りあげるのが

VOU」の再刊についてです。

 

昔と変わらぬ表紙に感動し

内容の異動にうなずきつつ

八十島稔という詩人のエッセイ「VOUの思ひ出」の時代遅れに

一部を抄出しつつあきれている。

 

1930年代のなれ合い、仲間褒めが

いまだに残存していることへの批判です。

 

ここで、「VOU」と「四季」との酷似について語りはじめるのですが

その矛先が

「純粋詩」12月号の木原孝一「星の肖像」へ向けられるにおよんで

ざわざわざわざわと

批評というものの厳しさを

北村太郎のこの時評が持っていることを考えさせることになります。

 

この詩もまた

北村太郎の眼には

8年前の「VOU」と同じ詩でした。

 

全く変化がない

――とこの詩を断じるのです。

 

 

木原孝一はかつて北園克衛の「VOU」に属し

やがて「荒地」へ参加する詩人でした。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

 

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