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2017年11月21日 (火)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/木原孝一「星の肖像」へ「鐘」

 

 

木原孝一は昭和13年(1938年)12月、東京府立実科工業学校建築科を卒業し

すぐに近衛師団司令部付になり

翌年3月まで野戦建築の講習をうけます。

 

この年の夏、大学への進学をあきらめ

卒業すればただちに陸軍の技師になって戦場へ赴くことを決意していました。

 

昭和14年(1939年)4月、中支派遣軍司令部への転属を被命、

東京駅前の「八重洲楼」で「VOU」のメンバーが壮行会をやってくれた

――などと自伝「世界非生界」にあります。

 

広島の宇品から上海へ

揚子江をさかのぼり南京へ

中支那派遣山田部隊(軍司令部)に着任したのは4月のうち――。

 

兵士の日々の中に

たちまち投げ出されます。

 

 

昭和16年の項に「星の肖像」は書き続けられていたことが記されますから

そうすると「星の肖像」はいつまで書き続けられたのでしょうか。

 

「断崖」が最後だったのでしょうか。

 

現代詩文庫47「木原孝一詩集」の「Ⅳ」には

24篇の散文詩が収められていますが

では、その冒頭にある「鐘」は

いつごろ作られたものでしょうか?

 

第1詩集「星の肖像」が

なぜ「Ⅳ」に配置されたのでしょうか。

 

このように問うことが

木原孝一の詩への糸口に繋がっていきます。

 

 

 

その桑畠の道には初夏の微風とともに巴旦杏の甘ずっぱい匂いが流れていた。白いパン

ツと麦藁帽子の僕は一匹の蜻蛉を手にたったひとり田舎の家への帰りみちだった。日暮

れの太陽は遠い山脈のむこうの空を蜜柑水のように光らせていた。僕の細い足はもうよほ

ど前から痛みはじめていた。砂埃にまみれた白いズックの靴は幼年の僕に異様に重く感じ

られた。そうした桑畠をぬけて竹藪の多い坂道にさしかかろうとすると不意に僕のゆくてで

オルガンの高音部のような鐘が鳴りはじめた。ひとつ。ふたつ。それは次第に澄んで音色

を黄昏の村のなかへ響かせていった。その憂愁を含んだ鐘の音は僕にたえ切れぬ不安を

投げつけていた。僕は蜻蛉のことも忘れて思わず声をあげて泣きはじめた。道はその暗い

坂の下にも果てしなく続いていた。僕は道に迷った少年のようになぜか何時までも泣きや

まなかった。道端には名も知れぬ白い花がにじむように咲いていた。

 

(現代詩文庫47「木原孝一詩集」より。)

 

 

この詩は「Ⅳ」の冒頭詩です。

 

「星の肖像」という散文詩群のうちでも

初期に制作されたであろうことが推測できます。

 

少年(幼年)の僕が

暮れはじめた田舎の桑畑の道を帰る――。

 

とつぜん、どこからともなく聞こえてくる

オルガンの高音部のような鐘の音に

少年はおびえ泣き出してしまう。

 

泣き出して泣きやまない。

 

その記憶を歌う美しいリリック(抒情詩)です。

 

 

少年が感じた存在(生)の不安みたいなものをさそった鐘は

どんな鐘だったのでしょう。

 

古寺の鐘だったのでしょうか。

 

木原少年も中也少年のように

世の滅ぶきざしのようなもの(「少年時」)を

鐘の音に聴き取ったのでしょうか。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

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