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2017年12月26日 (火)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/嵯峨信之「洪水」

 

 

現代詩文庫98「嵯峨信之詩集」の「愛と死の数え唄」では

「声」の次の次に置かれてあるのが「洪水」です。

 

12番目の詩になります。

 

このあたりまでは

詩に一つひとつ題名がつけられてあり

詩を数えることができます。

 

 

洪水

 

時時刻刻に不幸の水嵩が増した

渦巻く濁流はもうとつくに魂の堤防を越えている

はるかな町の方へつづいているコンクリートの堤防は

昨日までふたりの愛に沿うて延びていた

ある時はそこへ遠廻りしてその日が豊かになつた

いま凄まじい水勢で堤防は寸断されている

そしてふたりは自分の上に離ればなれに立つている

その小さな足場もいつ水に押しながされるかわからない

ぼくたちは同じ恐怖に戦いて

大声で喚(わめ)き叫んでいる

そのあげくのはてにふたりの姿は

大きな波のひと呑みになつて見えなくなつた

 

(現代詩文庫98「嵯峨信之詩集」所収「愛と死の数え唄」より。)

 

 

どれほどの時間が流れたのでしょうか。

 

不幸が刻々と増大しているという時のなかに

ふたりはあります。

 

ふたりの間に

何が起きたのかなどということは

一つもことあげされません。

 

ここに出てくるふたりが

「声」に現われたふたりと同一ではないと考えるのは

気休めにすぎないことでしょう。

 

 

濁流は魂(たましい)の堤防をとおに越え

町につづいているコンクリートの堤防は

昨日までふたりの愛を結んでいたけれど

いまは寸断されている

 

ふたりは離れ離れに立っていて

その足場にいつ水が押し寄せるかわからない

 

ぼくたちは

同じ恐怖におののいて

大声でわめき

さけび

大きな波に飲み込まれて

見えなくなった――。

 

ふたりからぼくたちという

主格の変化がドラマの進行を暗示しています。

 

ぼくたちの内部に起因する愛の崩壊なのではない

何か大きな現象(波)が

ふたりの姿を消し去ってしまう

――と

ふたりの愛そのものの崩壊というより

あくまで外的な、巨大な力を歌うかのようですが……。

 

そうではなく

やはりここに、

ぼくたちは同じ恐怖に戦いて

大声で喚(わめ)き叫んでいる

――の2行が歌われてあるところを見逃してはならないことでしょう。



ぼくたちという主体が

危機に瀕していたことは確かなことでした。

 

 

いつ起きたことを

いつ書いたのかを知ることができませんが

この詩が書かれた時には

歴史的現在を書いているはずなのですから

ドラマはこの時(書いた時)

詩人のなかに生きて存在していたことを想像できます。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

 

 

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