新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/嵯峨信之「洪水」
現代詩文庫98「嵯峨信之詩集」の「愛と死の数え唄」では
「声」の次の次に置かれてあるのが「洪水」です。
12番目の詩になります。
このあたりまでは
詩に一つひとつ題名がつけられてあり
詩を数えることができます。
◇
洪水
時時刻刻に不幸の水嵩が増した
渦巻く濁流はもうとつくに魂の堤防を越えている
はるかな町の方へつづいているコンクリートの堤防は
昨日までふたりの愛に沿うて延びていた
ある時はそこへ遠廻りしてその日が豊かになつた
いま凄まじい水勢で堤防は寸断されている
そしてふたりは自分の上に離ればなれに立つている
その小さな足場もいつ水に押しながされるかわからない
ぼくたちは同じ恐怖に戦いて
大声で喚(わめ)き叫んでいる
そのあげくのはてにふたりの姿は
大きな波のひと呑みになつて見えなくなつた
(現代詩文庫98「嵯峨信之詩集」所収「愛と死の数え唄」より。)
◇
どれほどの時間が流れたのでしょうか。
不幸が刻々と増大しているという時のなかに
ふたりはあります。
ふたりの間に
何が起きたのかなどということは
一つもことあげされません。
ここに出てくるふたりが
「声」に現われたふたりと同一ではないと考えるのは
気休めにすぎないことでしょう。
◇
濁流は魂(たましい)の堤防をとおに越え
町につづいているコンクリートの堤防は
昨日までふたりの愛を結んでいたけれど
いまは寸断されている
ふたりは離れ離れに立っていて
その足場にいつ水が押し寄せるかわからない
ぼくたちは
同じ恐怖におののいて
大声でわめき
さけび
大きな波に飲み込まれて
見えなくなった――。
ふたりからぼくたちという
主格の変化がドラマの進行を暗示しています。
◇
ぼくたちの内部に起因する愛の崩壊なのではない
何か大きな現象(波)が
ふたりの姿を消し去ってしまう
――と
ふたりの愛そのものの崩壊というより
あくまで外的な、巨大な力を歌うかのようですが……。
そうではなく
やはりここに、
ぼくたちは同じ恐怖に戦いて
大声で喚(わめ)き叫んでいる
――の2行が歌われてあるところを見逃してはならないことでしょう。
ぼくたちという主体が
危機に瀕していたことは確かなことでした。
◇
いつ起きたことを
いつ書いたのかを知ることができませんが
この詩が書かれた時には
歴史的現在を書いているはずなのですから
ドラマはこの時(書いた時)
詩人のなかに生きて存在していたことを想像できます。
◇
途中ですが
今回はここまで。
« 新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/嵯峨信之「声」 | トップページ | 新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/嵯峨信之「*(わたしは水を通わせようとおもう)」 »
「125新川和江・抒情の源流その後/現代詩そぞろ歩き」カテゴリの記事
- 新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/嵯峨信之の「利根川」その2(2017.12.30)
- 新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/嵯峨信之の「利根川」その1(2017.12.29)
- 新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/嵯峨信之「*(わたしは水を通わせようとおもう)」(2017.12.27)
- 新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/嵯峨信之「洪水」(2017.12.26)
- 新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/嵯峨信之「声」(2017.12.24)
« 新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/嵯峨信之「声」 | トップページ | 新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/嵯峨信之「*(わたしは水を通わせようとおもう)」 »
コメント