新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/「ミンダの店」へ
神さまが吃るように書け、とシュペリヴィエルも言っているよ
――と新川和江に漏らした嵯峨信之の意図が
どのようなことであったかを正確に理解することはできないことかもしれませんし
新川和江がその言葉をどのように受け止めたかも
はっきりとはわかりません。
「ミンダの店」という新川和江の詩が
嵯峨信之の意図と直接的に関係していることではないかもかもしれません。
嵯峨信之のアドバイスと新川和江の「ミンダの店」に現われるシュペルヴィエルは
単にシュペルヴィエルという詩人の名前だけでつながっているのですが
新川和江がこの詩のエピグラフにシュペルヴィエルの言葉を引用したからには
なんらかの意図があり
それも明確な意図があるわけですから
無関係であるとも断言できません。
何か手がかりがあるのではないかということで
本道を外れるようですが
急がば回れで
「ミンダの店」をここで読んでみましょう。
◇
ミンダの店
――その馬はうしろをふりむいて
誰もまだ見たことのないものを見た
J・シュペルヴィエル
いろいろ果実はならべたが
店いっぱいにならべたが
ミンダはふっと思ってしまう
<なにかが足りない>
そうだ たしかになにかが足りない
で
たちどころに
レモンが腐る パイナップルが腐る バナナが腐る
金銭登録機(レジ)が腐る 風が腐る 広場の大時計が腐る
来るだろうか
仕入れ口に立って
ミンダは道のほうを見る
来るだろうか それを載せた配達車は?
西洋の貴婦人たちも 東洋の王も
たえて久しく味わったことのない珍果
いやいや そういうものではないな
橋の下の乞食のこどもが
汚れた指で
ある日むいたちっぽけな蜜柑
いやいや そういうものでもないな
言葉にすると嘘ばかりがふくらんで
奇妙な果実のお化けになる
ともあれミンダは
ふっと思ってしまったのだ
で
それ以来
片身をそがれた魚のように
はんしん骨をさらした姿勢で
ミンダは道のほうばかり見ている
それが来なければ
りんごも いちじくも 死んだまま
歴史も 絵はがきも
水道の蛇口も 死んだまま
(花神社「新川和江全詩集」所収 「ひとつの夏 たくさんの夏」より。)
◇
「ミンダの店」は
1963年発行の第3詩集「ひとつの夏 たくさんの夏」(地球社)に収録されています。
◇
日常のなかによく見かける場面であるような
些細であるような一瞬をとらえた映像が浮かんできます。
何かが足りないと思うこの得体の知れない欠落感は
ふっとした時にミンダが胸の中に思ってしまったところではじまり
それは次第に膨らんでいき
来る日も来る日もその不安はやむことがなく
やがてミンダは片身をそがれた魚のように
半身の骨をさらした姿勢で道のほうをずっと見ていることになり
そうして……
どうなってしまうのでしょうか。
どうにもならないで
また翌日店をあけると
このようにふっと思ってしまい
ふっと思ってしまったが最後
半身をよじって骨身をさらして(!)
また道の向うのほうを見つめている……
かならずそのようなポーズをとるという
習慣の繰り返しのおかしさを捉えたものでもありますが
そうばかりではなくて
ミンダの肉体をザクリと割るような
なにかもっと残酷で不気味な事態が起きているようでもあります。
不条理といえるような。
言葉にすると
こんなふうに嘘っぽくなり
奇妙な果実のお化けになってしまうのは
詩行にもある通り
言語表現の困難さを訴えているからかもしれません。
このように読むそばからしかし
ミンダが探しているものは
ますます遠ざかっていくものであることを訴えているのかもしれません。
あるいはミンダはこの世に存在しないものの到来を
待っているのかもしれません。
存在しないものを
永遠に待っているのかもしれません。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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