新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/「ミンダの店」へ・続
「シュペルヴィエルの馬」が
誰もまだ見たことのないものを見たというのは
何だったのでしょうか?
何を見たというのでしょうか?
それは新川和江が引用した原典にあたってみないとわからないことですが
そう言ってしまっては身も蓋もないことになりますし
それがはっきりとはわからなくても
引用の目的は達成されていると受け取ることは可能のはずです。
そうでないと
原典にあたらなければ済まなくなります。
というわけで
詩をじっくりと読むことになります。
◇
すると
「ミンダの店」のなかにそっと差しはさまれている、
言葉にすると嘘ばかりがふくらんで
奇妙な果実のお化けになる
――という2行に行き当たります。
さりげないようなこの2行ですが
この2行が
「ミンダの店」という詩の中でも
かなりの技巧を凝らさないと作れない詩行であることに気づかされます。
ここに奇妙な果実のお化けとあるので
果物のお店の話なのですから
自然な流れのように見えますが、
言葉にすると嘘ばかりがふくらんで
――という詩行は
ミンダが身を乗りだして待っている果物とは
まったく無縁のものです。
いつのまにか
ミンダが探しているものが
奇妙な果実のお化けと同列の存在(=言葉)に
この2行で成り変わっているような錯覚に陥りそうになりますが
ミンダが探しているのは
やはりなんらかの果実でなければならないはずです。
詩(人)はそのことを意識していながら
この2行を紡いだわけですから
ミンダが探しているものは
嘘で膨らんでいない言葉でもあるのです。
この矛盾したような流れを
いかにも自然な流れにしてしまう技術――。
この2行にあのエピグラフ、
その馬はうしろをふりむいて
誰もまだ見たことのないものを見た
――とが響き合っているのを見ることができるのではないでしょうか。
◇
「ミンダの店」のミンダが探しているものは
きっと詩人が探している言葉ですが
その言葉は生半可に見つかるものではないようです。
毎日毎日それがやってくるであろう彼方(かなた)に
身を乗りだし
身体をよじっているために
身の半分の骨身が剥き出しになるような作業であることまでをも
含んでいるような。
ゾッとするような。
ゾクゾクするような。
わくわくするような。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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