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2017年12月 5日 (火)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/秋谷豊と木原孝一

 

 

 

血と火との惨憺たる祭典の中に

すべては葡萄の葉のやうにむしられてしまった

 

木原孝一の持つ近代的な感覚は常に回転する時代のダイナモである。かれは1946年の日本をそのダイナミックな眼でながめるのである。

 

(「純粋詩」第10号・1946年12月より。新漢字・洋数字に改めました。以下同。)

 

 

この記述は

秋谷豊の評論「日本文学に於ける現代詩の位置」のなかの章「詩人論」にあります。

 

この評論が

1946年12月発行の「純粋詩」第10号に

秋谷豊が残した最後の仕事でした。

 

この評論のなかに

木原孝一の名前がしばしば登場します。

 

 

「現代詩の課題」

「詩学の確立」

「現代詩の展開」

「方法論の効用」

「主知主義の錯誤」

「シュールレアリズムとサンボリズム」

「詩人論」

「一年の回顧」

「現代詩の将来」

――と9章仕立てのなかの

「詩学の確立」には――。

 

 

敗戦直後、あの惨憺たる廃墟の虚無の中を、いち早く希望に満ちた足どりで歩みはじめたのは、やはり北園克衛の郷土史運動につながる若き詩人の一群であった。即ち木原孝一、八束龍平、相田謙三、赤井喜一、小田雅彦、武田武彦、吉木幸子、國友千枝などが、その前途は暗澹たるものながら、一つの角度によりすがらんとして出発したのである。

 

 

「方法論の効用」の中には――。

 

現在の僕達の詩壇が持つ脆弱性の一つとして、僕はエッセイの貧困を指摘したいと思ふ。今日、年少詩人の多くが詩の実体の確実な把握もなく、徒らに過去に追従してゐると言ふことが、その何よりの証拠であらう。勿論それは、原則的なるが故にその理論体系のエッセイを要望したいのである。

 

かかる意味に於いて、「近代詩苑」創刊号の木原孝一の「純粋詩の新しき命題に関する考察」及び「純粋詩」9月号の福田律郎の「純粋詩の美学」は何れも本質論としてのイデオロギイを示したものであると思ふ。

 

――とあり、

 

最後は「詩人論」に

冒頭の詩行を引用しての評言があります。

 

 

木原孝一が

敗戦後の廃墟のなかで

いちはやく声をあげたことが彷彿としてきますし

詩作品ばかりでなく

散文(エッセイ)の領域でも

注目すべき仕事をはじめていたことを

秋谷豊の広範な目配りは見逃すことがありませんでした。

 

木原孝一はバイタリティーある詩人でしたし

秋谷豊は世界を広く見ている詩人でした。

 

 

木原孝一の「純粋詩」発表作品を整理しておきましょう。

 

1946年12月(第10号)

星の肖像

 

1947年2月(第12号)

シュルレアリズムに関するノート(評論)

 

同年8月(第18号)

Chanson ‘amour

ヂレッタンティズムの誘惑(評論)

 

同年10月(第20号)

純粋な鶯の変声期に就いて(評論)

 

1948年1月(第23号)

告別

 

同年3月(第24号)

新しきフランスへ(評論)

 

――といったラインアップになります。

 

 

「荒地詩集」へは、

1951年から1958年の間に

「幻影の時代」

「無名戦士」

「犠牲」(詩劇)

「海の梟」(詩劇)

「時と河のながれ」

「遠い国」

「密使」

――といった詩および詩劇を発表しています。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

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