新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/嵯峨信之の「利根川」その2
「愛と死の数え唄」を冒頭から順に読んでくると
はじめて固有の名(地名)が現われるのが
「利根川」です。
これまでに、ノアとか、イヴとかが出てきますが
これは固有名でありながらも
一般化され比喩的に使われていますから
すでに固有名であることの意味をほぼ失っています。
「利根川」で初めて固有名が使われたのには
詩人の意図があるはずです。
どのような意図でしょうか。
なぜ利根川なのでしょうか。
◇
巻末の「自己『半年譜』次第(抄)」を
ざっと読んで二つの記述が見つかります。
一つは、
昭和11年(1936)34歳の項。
3月半ばすぎに、疲労が出て社を休んだりしていたが、ある朝血痰が少し混っていた。菊
池社長に話したところしばらく休養するといい、というので、早速内房の佐貫の海岸へ出か
けた。
――などとあるところで
もう一つは、
昭和13年(1938)36歳の項に、
約1年近く房州のあちこちで過した。何篇かの詩を書く。
――とあるところ。
これよりずっと前の
大正12年(1923)21歳の項には
前橋の高橋元吉の住まいに食客となり
萩原朔太郎に師事した過去があり
前橋を流れる利根川上流に遊んだことが想像されるところですが
「利根川」には
直接、この前橋時代の利根川をイメージさせるものはありません。
いま目前にしているのは
広い川幅の利根川下流域ですが
だからといって
上流域の利根川が無縁のものであるといえば
即物的に過ぎることでしょう。
詩人が初めて上京したのは
そもそも砂村(現・葛飾区砂町)であり
この地は東京の東端に位置し
利根川が河口に入る房総圏に親近する地域です。
◇
利根川は佐原のあたりで川幅がひろがつている
十月も終りにちかくなると水の色が薄くひかつて
一日中芦の影がふるえている
ふるえながらなおも流れる水に縋ろうとする
第4連のこの風景は
上流から流れ来たった川のイメージを
ぷんぷんと匂わせています。
第1連の、
そのはての茫茫とかすんでいる中流を一艘の舟が下つている
――や
その舟で遠く運ばれているのだろう
――にも
同じことが言えるでしょう。
はるばるとした
遠大な時間を孕(はら)んで
茫茫の
光と影の世界。
◇
こうして、
人間は影が夢みる夢である
――と
ピンダロスを呼び出した詩(人)の意図を
それほど唐突には受け止めなくてよい姿勢になります。
人間は影
影が夢みる
夢みる夢。
この同義反覆と
茫茫と霞む利根川の流れを下っている一つの舟。
ピンダロスの引用は
この詩の作り(構造)を明かしています。
「人間は影が夢みる夢である」ように
目前の利根川は流れている
一艘の舟が河口へと下っている
ぼくたちは運ばれている。
「利根川」で詩人は
自らの生存の影を、影のような生存を振り返りながら
同行する女性との来し方そして行く末を
このように考える夢のような時間のなかにあります。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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