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2017年12月30日 (土)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/嵯峨信之の「利根川」その2

 

 

「愛と死の数え唄」を冒頭から順に読んでくると

はじめて固有の名(地名)が現われるのが

「利根川」です。

 

これまでに、ノアとか、イヴとかが出てきますが

これは固有名でありながらも

一般化され比喩的に使われていますから

すでに固有名であることの意味をほぼ失っています。

 

「利根川」で初めて固有名が使われたのには

詩人の意図があるはずです。

 

どのような意図でしょうか。

 

なぜ利根川なのでしょうか。

 

 

巻末の「自己『半年譜』次第(抄)」を

ざっと読んで二つの記述が見つかります。

 

一つは、

昭和11年(1936)34歳の項。

 

3月半ばすぎに、疲労が出て社を休んだりしていたが、ある朝血痰が少し混っていた。菊

池社長に話したところしばらく休養するといい、というので、早速内房の佐貫の海岸へ出か

けた。

――などとあるところで

 

もう一つは、

昭和13年(1938)36歳の項に、

約1年近く房州のあちこちで過した。何篇かの詩を書く。

――とあるところ。

 

これよりずっと前の

大正12年(1923)21歳の項には

前橋の高橋元吉の住まいに食客となり

萩原朔太郎に師事した過去があり

前橋を流れる利根川上流に遊んだことが想像されるところですが

「利根川」には

直接、この前橋時代の利根川をイメージさせるものはありません。

 

いま目前にしているのは

広い川幅の利根川下流域ですが

だからといって

上流域の利根川が無縁のものであるといえば

即物的に過ぎることでしょう。

 

詩人が初めて上京したのは

そもそも砂村(現・葛飾区砂町)であり

この地は東京の東端に位置し

利根川が河口に入る房総圏に親近する地域です。

 

 

利根川は佐原のあたりで川幅がひろがつている

十月も終りにちかくなると水の色が薄くひかつて

一日中芦の影がふるえている

ふるえながらなおも流れる水に縋ろうとする

 

第4連のこの風景は

上流から流れ来たった川のイメージを

ぷんぷんと匂わせています。

 

第1連の、

そのはての茫茫とかすんでいる中流を一艘の舟が下つている

――や

その舟で遠く運ばれているのだろう

――にも

同じことが言えるでしょう。

 

はるばるとした

遠大な時間を孕(はら)んで

茫茫の

光と影の世界。

 

 

こうして、

人間は影が夢みる夢である

――と

ピンダロスを呼び出した詩(人)の意図を

それほど唐突には受け止めなくてよい姿勢になります。

 

人間は影

影が夢みる

夢みる夢。

 

この同義反覆と

茫茫と霞む利根川の流れを下っている一つの舟。

 

ピンダロスの引用は

この詩の作り(構造)を明かしています。

 

「人間は影が夢みる夢である」ように

目前の利根川は流れている

一艘の舟が河口へと下っている

ぼくたちは運ばれている。

 

「利根川」で詩人は

自らの生存の影を、影のような生存を振り返りながら

同行する女性との来し方そして行く末を

このように考える夢のような時間のなかにあります。

 

途中ですが

今回はここまで。

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