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2017年12月11日 (月)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/木原孝一「音楽」へ・続続続

 

 

 

「音楽1」は

いよいよ終局にさしかかります。

 

 

わたしにはわかっていた

この船は沈むのだ と

海には国境がないが われわれには戦争があった

 

 

この船というのは

わたしが乗り組んでいるこの船のことで

それがいずれ沈むことがわかっていたというのです。

 

いや、実際に乗り組んでいた船をイメージする必要もなく

この船は戦争というものの比喩です。

 

戦争に勝つ見込みのないことを

詩人は早い時期に自覚していたのでしょう。

 

海に国境はなくても

戦争は国と国との戦いですから

勝ちか負けしかなく

負けることがはっきりしていたことを

わたしは戦いのさなかに知っていました。

 

 

櫂がなかったというのは

武器弾薬がなかったことをいうのでしょうし

舵がなかったというのは

よきリーダーがいなかったことをいうのでしょうか。

 

救命具を背負って浮いていた戦友たちは

広大な海のなかで

孤独な心を繋ぐのに必死でした。

 

この広大で底深くて巨大な海、太平洋に

一人浮んでいるという恐ろしく孤独であるとき

わたしははっきり聞きます。

 

何を聞いたのだろう?

――という疑問はすぐさま

この詩(人)が渾身の魂を込めて刻み出した言葉と

格闘するしかないところへと導かれてゆきます。

 

 

光りのなかの暗黒。

 

強烈な光を見てしまったときに

思わず目を瞑(つぶ)り

網膜上に暗黒が映し出されるといった自然現象を

この詩行は示しているでしょうか。

 

死のなかの時。

 

死のなかに生があるというような奇跡を

この言葉は示しているでしょうか。

 

あるいは、それに似たようなことを

言っているかもしれません。

 

暴風雨のなかの沈黙の音の流れ、というのは

光りのなかの暗黒、と

死のなかの時、と

同じようなもの、あるいは似たようなものと受け取ってよいはずですから

暴風雨のさなかにも

一瞬、沈黙が訪れることがあり

沈黙の音が、音のしない音が流れて

その沈黙の音を

詩(人)ははっきり聞いたのでした。

 

 

いや、これではまだ

うまくつかまえ切れていないようですね。

 

こう言った方がいいかもしれません。

 

詩人が聞いたのは

暴風雨の音でないことは確かですから

沈黙の音の流れは

自然に存在する音ではないことに思い致したほうがよいでしょう。

 

それは詩人の想念のなかに

渦巻いていた音の流れです。

 

詩人はそれを音楽と名づけたのであり

それは想像するしかない音楽です。

 

光りのなかの暗黒、と

死のなかの時、と

暴風のなかの沈黙の音の流れ

――とは、それを想像するための有力なヒントになるものです。

 

ヒントであり

しかし答えでもあります。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

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