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2017年12月14日 (木)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/「詩学」の詩人・嵯峨信之

 

 

木原孝一が初めて秋谷豊を知ったのは

戦時下行われていた交書会の場だったでしょうか。

 

実際にどのような言葉を交わしたのか

さだかではありませんが、

 

(略)月に1回くらい、B29の爆撃のなかを集まっては、交書会というのをやっていた。おた

がいの古本を持ち寄ってそれぞれが入札して交換し合うもので、これは空襲がはげしく

なってもつづけられた。

 

現在「詩学」の発行者である城左門は、もんぺをはき着物姿で焼跡の会場にやってきて、

憲兵やお巡りにつかまったという話もあったりしました。

 

若い詩人では中桐、木原、私など。木原は硫黄島から帰還したばかりでした。

 

――などと秋谷豊は書き残しています。

 

(「戦後詩の出発――『純粋詩』創刊の周辺」より。改行を加えました。編者。)

 

 

秋谷豊は「純粋詩」を経て「ゆうとぴあ」へ行き

やがて「地球」創刊にこぎつけるのですが

木原孝一は「荒地」に属しながら

「詩学」の編集者になります。

 

「ゆうとぴあ」が改題して「詩学」になり

その「詩学」の編集者に木原孝一がなったのですから

木原孝一は秋谷豊のあたかも後継者のような関係といえば正確さを欠きますが

後任の仕事に就いたことは確かなことでした。

 

「ゆうとぴあ」は第6号(1947年5月)で終刊になり、

第7号から「詩学」に改題しこれを創刊号としますが

この創刊号から「文芸春秋」編集者の経歴がある嵯峨信之が編集長になりました。

 

こうして嵯峨信之、木原孝一による「詩学」の

編集体制が出発します。

 

 

新川和江が第1詩集「睡り椅子」を出したのは1953年、

直後に秋谷豊の「地球」に参加します。

 

「詩学」が「睡り椅子」を広告(という言葉を新川和江は使っています)するというので

詩学社を訪れて木原孝一と会ったのもこの頃でした。

 

おそらくこの時に嵯峨信之との面識を得たはずですから

その後の交流もはじまったことでしょう。

 

新川和江24歳。

木原孝一31歳。

嵯峨信之51歳。

 

嵯峨信之は1902年生まれですから

新川和江や木原孝一のずっと上になります。

 

ちなみに中原中也は1907年生まれで

嵯峨信之が中也の年上になります。

 

 

旅情

 

ぼくにはゆるされないことだつた

かりそめの愛でしばしの時をみたすことは

それは椅子を少しそのひとに近づけるだけでいいのに

ほんとうにそんな他愛もないことなのに

 

二人が越えてきたところにゆるやかな残雪の峰々があつた

そこから山かげのしずかな水車小屋の横へ下りてきた

小屋よりも大きな水車が山桜の枝をはじきはじき

時のなかにひそかに何か充実させていた

 

ぼくたちは大きく廻る水車をいつまでもあきずに見あげた

いわば一つの不安が整然とめぐり実るのを

落ちこんだ自らのなかからまた頂きにのぼりつめるのを

 

あのひとは爽やかな重さで腰かけている

ぼくは聞くともなく遠い雲雀のさえずりに耳をかたむけている

いつのまにか旅の終りはまた新しい旅の始めだと考えはじめている

 

(現代詩文庫98「嵯峨信之詩集」より。)

 

 

この詩は「日本の詩歌27現代詩集」(中央公論社)に収められてある

嵯峨信之の作品。

 

初めて読んだときに

静かな調べのなかにある強固な意思みたいなものを感じたものですが

もっともっと他の詩を読んでみたくなったのは

新川和江の「ミンダの店」のエピグラフに

ジュール・シュペルヴィエルが引用されているからでありました。

 

神さまが吃るように書け、とシュペリヴィエルも言っているよ

――と新川和江に教えたのは嵯峨信之であって

そのことが嶋岡晨の新川和江論「新川和江の<詩論>」に案内されていて

シュペルヴィエルという詩人が気になっていたのですが

そのシュペルヴィエルが新川和江の詩に引用されてあったのです。

 

その引用部は、

その馬はうしろをふりむいて

誰もまだ見たことのないものを見た

――というなぞに満ちた詩行でした。

 

以来、「シュペルヴィエルの馬」は頭を離れないまま

シュペルヴィエルを熱心に読むこともないのに

なぞのまま残り続けています。

 

どうやら嵯峨信之という詩人が

新川和江とシュペルヴィエルとともに

インプットされてしまったようでした。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

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