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2017年12月24日 (日)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/嵯峨信之「声」

 

 

嵯峨信之の第1詩集「愛と死の数え唄」は1957年に発行されたものですから

55歳の発表ということですが

いったいそれぞれの詩が

いつごろに制作されたものであるのか

戦前なのか戦後なのか

見当をつけることが容易ではないので

内容から推測するしかないのには

ある種不安のようなものが残る時があります。

 

何らかの手がかりを

詩に見つけようとしますが

やすやすとは詩人の来歴や経験と結びつくものでもなく

時代の匂いさえわからないこともあり

それが逆に時を超えた詩に対座する習慣を身につけさせもします。

 

◇

 

そうであるとはいえ

詩集には自ずと流れる「時」が存在し

まれにドラマらしきものさえ見えてくることもあります。

 

そのドラマを想像する楽しみさえ

あるといえばあります。

 

◇

 

声

 

大凪の海で知りあつたのだから

ふたりは

どこの港からも遠い

 

櫂は

心のなかにしまつておいても

夜中になるとひとりでに水面をぴちやぴちやたたいている

 

ふたりは話し合うのに

はじめて自分の声をつかつた

生れたときのままの真裸の声を

 

やがてふたりは港にはいるだろう

あれほどの深い時をありふれた幸福にかえるために

ふたたびめぐり合うことのない自分を海の上に残して

 

(現代詩文庫98「嵯峨信之詩集」所収「愛と死の数え唄」より。)

 

◇

 

大凪の海で知り合ったふたり――。

 

ここにドラマを読むことは

不自然ではないでしょう。

 

長い孤独の詩人に

変化が訪れたことを想像させるのは

ここに「ふたり」が現われるからです。

 

ふたりが

男と女であることを疑う余地はありません。

 

あれほどの深い時をありふれた幸福にかえるために

ふたたびめぐり合うことのない自分を海の上に残して

――という2行は

そのことを確信させるに足りるでしょう。

 

あれほどの深い時は

ありふれた幸福にかえるに値したものでした、

たとえその時をふたたび経験することがないことを知っていても。

 

◇

 

ふたりとはだれのこと? と問うことは必要でしょうか。

 

そう問い返しても

その相手を特定することなどできるものでもありませんし

答は出てくるものでもありませんし。

 

詩に

そのことが書かれていないのですから

そのことを追求する意味ははじめからありません。

 

詩集の流れが

ここに来てたどった変化だけを受け入れれば

この詩を読むことは可能なはずです。

 

◇

 

この詩「声」は

現代詩文庫98「嵯峨信之詩集」では

「愛と死の数え唄」の10番目にありますから

これも初期作品であることでしょう。

 

孤独の色が濃い初期詩篇のなかに

その孤独をこじあけるような存在が現れます。

 

「孤独者」

「心性」

「ノアの方舟」

「別離」

「イヴ以前の女」

「時」

「夜」

「火」

「死」

――と続いてきた詩篇の中には

かすかな兆しかなかった幸福が

ここで突如現われるのです。

 

「ふたり」とともに。

 

◇

 

途中ですが

今回はここまで。

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