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2017年12月24日 (日)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/嵯峨信之「声」

 

 

嵯峨信之の第1詩集「愛と死の数え唄」は1957年に発行されたものですから

55歳の発表ということですが

いったいそれぞれの詩が

いつごろに制作されたものであるのか

戦前なのか戦後なのか

見当をつけることが容易ではないので

内容から推測するしかないのには

ある種不安のようなものが残る時があります。

 

何らかの手がかりを

詩に見つけようとしますが

やすやすとは詩人の来歴や経験と結びつくものでもなく

時代の匂いさえわからないこともあり

それが逆に時を超えた詩に対座する習慣を身につけさせもします。

 

 

そうであるとはいえ

詩集には自ずと流れる「時」が存在し

まれにドラマらしきものさえ見えてくることもあります。

 

そのドラマを想像する楽しみさえ

あるといえばあります。

 

 

 

大凪の海で知りあつたのだから

ふたりは

どこの港からも遠い

 

櫂は

心のなかにしまつておいても

夜中になるとひとりでに水面をぴちやぴちやたたいている

 

ふたりは話し合うのに

はじめて自分の声をつかつた

生れたときのままの真裸の声を

 

やがてふたりは港にはいるだろう

あれほどの深い時をありふれた幸福にかえるために

ふたたびめぐり合うことのない自分を海の上に残して

 

(現代詩文庫98「嵯峨信之詩集」所収「愛と死の数え唄」より。)

 

 

大凪の海で知り合ったふたり――。

 

ここにドラマを読むことは

不自然ではないでしょう。

 

長い孤独の詩人に

変化が訪れたことを想像させるのは

ここに「ふたり」が現われるからです。

 

ふたりが

男と女であることを疑う余地はありません。

 

あれほどの深い時をありふれた幸福にかえるために

ふたたびめぐり合うことのない自分を海の上に残して

――という2行は

そのことを確信させるに足りるでしょう。

 

あれほどの深い時は

ありふれた幸福にかえるに値したものでした、

たとえその時をふたたび経験することがないことを知っていても。

 

 

ふたりとはだれのこと? と問うことは必要でしょうか。

 

そう問い返しても

その相手を特定することなどできるものでもありませんし

答は出てくるものでもありませんし。

 

詩に

そのことが書かれていないのですから

そのことを追求する意味ははじめからありません。

 

詩集の流れが

ここに来てたどった変化だけを受け入れれば

この詩を読むことは可能なはずです。

 

 

この詩「声」は

現代詩文庫98「嵯峨信之詩集」では

「愛と死の数え唄」の10番目にありますから

これも初期作品であることでしょう。

 

孤独の色が濃い初期詩篇のなかに

その孤独をこじあけるような存在が現れます。

 

「孤独者」

「心性」

「ノアの方舟」

「別離」

「イヴ以前の女」

「時」

「夜」

「火」

「死」

――と続いてきた詩篇の中には

かすかな兆しかなかった幸福が

ここで突如現われるのです。

 

「ふたり」とともに。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

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