新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/木原孝一「音楽」へ・続
◇
わたしは
それがどんなものだったか記憶していない
生まれて はじめてないた 涙のない声
◇
「音楽1」をはじめの詩行から読んでいきましょう。
それとはなんでしょうか。
なにかを指示していますが
詩(人)にもどんなものだったか記憶されていないものと明らかにされて
この詩ははじまります。
記憶がないのに
記憶をたどり返そうとする詩のなかへ
いきなり投げ出されるのですが
実はいくらかの手がかりになる記憶があるようです。
記憶されていないとはいいながらも
それは
生まれて初めて泣いた
涙のない声へと遡っていきます。
それは
詩人の呱呱の声(誕生)の記憶らしい。
初めて泣いた
涙もない
声だけの記憶――。
◇
ロンドンでは ひとりの詩人が
「荒地」のなかにしきりに神の降誕を求めていた
パリでは
アッシュの棒を愛した 嗄れ声の亡命者が
紫外線と 娼婦のなかに われわれの
「ユリシイズ」を熱烈に夢みた
わたしは乳房を吸う舌のさきで
そのひとたちの言葉を聞いたように思う
あるいは 夜明けの鳥のはばたきだったかもしれない
◇
1922年(大正11年)生まれの詩人は
そのころ世界を騒がした歴史的事件を呼び出します。
記憶に残らないはずの
生年時の世界がどのようであったかを知れば
記憶が生じるかもしれないとでも考えたかのように。
そこで現われるロンドンの詩人は
「荒地」という詩を作ったT・S・エリオット。
「荒地」は
日本の「荒地」派詩人たちのバイブルのような詩です。
もう一人のパリの亡命者は
「ユリシイズ」という小説を著わしたジェームズ・ジョイス。
ジョイスは、アイルランド人ですが
海外生活が長かったので
亡命者と錯覚されたのか
意図したのか。
木原孝一が間違えて認識したか
詩作上の意図(技術)だかどうかわかりません。
アッシュの棒を愛した 嗄れ声の亡命者が
紫外線と 娼婦のなかに われわれの「ユリシイズ」を夢見た
――とあるのは
現代のオデュッセウス(ユリシ-ズはその英語読み)の冒険を指しています。
◇
記憶の定かでない誕生のころをたどろうとして
エリオットとジョイスを引っ張り出したのは
単なるペダントリー(衒学)ではもちろんなく
「音楽」というこの詩が目指そうとしているテーマへの導入に不可欠な存在です。
きっと神とか愛とか死とか……の
メタフィジカルな(形而上)問いへ
向かおうとしている印(しるし)に違いありません。
◇
わたしは乳房を吸う舌のさきで
そのひとたちの言葉を聞いたように思う
あるいは 夜明けの鳥のはばたきだったかもしれない
◇
母親の乳に吸いつく子は
すでに形而上の世界に存在していました。
誕生直後の乳児に残る記憶であるかのように
エリオットやジョイスの言葉を聞いたというのは
成人して後のことであるはずですから
乳房を吸いながら聞いた(見た)のは
夜明けの鳥のはばたきだったかもしれない。
形而上も形而下も
一つながりのものでした。
これは混同ではなく
あいまいなものでもなく
記憶にない記憶の記憶というようなものです。
◇
全行をまずはひと通り読み
もう一度じっくり意味を追いながら読みはじめると
3段階に分けられた字下げの構造が気になり出します。
この構造の意図はなんだろう?
字下げ段落(連)のそれぞれの語り手と詩(人)との位置関係は
どうなっているのだろう。
歴史は進んだのでしょうか。
少しは進んだのでしょう。
1923年の関東大震災の経験が語られますが
1歳になったかどうかの乳飲み子が見たのは
終末におののく母親であり
革命に恐怖する父親の姿でした。
◇
わたしは
確かに人間の死を見たらしい。
それもはっきりとした記憶というより
海の底の神話世界かなにかを見るように
魚のはねる音のようにも聞こえました。
◇
こうしていつしか
木原孝一が紡ぐ詩の世界に入っていますが
歴史は遅々として進みません。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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