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2017年12月21日 (木)

新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/嵯峨信之「留守居」

 

 

 

留守居

 

ある日の午後を

じつとひとりで留守居をしている

子供の眼にうつる高い梢

その梢は遠い並木のはずれになつていて

たれも帰つてこない道がはるかにつづいている

子供はいつのまにか

たえがたい白い眠りにつつまれて

その羽根のながれのなかを漂う

きまつてくる夕がたの雨はまだこない

少し風が出てさわさわと芭蕉の葉が重くゆれる

そして子供のたましいに

どこかの遠い島がだんだん近づいてくる

                     ――都城旧居

 

(現代詩文庫98「嵯峨信之詩集」所収「愛と死の数え唄」より。)

 

 

この詩も第1詩集「愛と死の数え唄」にあるものです。

 

末尾にある都城は詩人出生の地ですから

上京する以前の記憶をたどって

戦後に書かれたものでしょうか。

 

孤独がここにも歌われ

それは子供のこころへ

詩への旅立ちの誘(いざな)いを生みます。

 

遠い島がだんだん近づいてくる

――は

まさしく詩への目覚めを暗示しているものですし

その目覚めの記憶をたどっての思い出(回想)と読めますし

後年、生地を訪れての確認の記録とも読めるでしょう。

 

孤独のうちに

次第に大きくかたまってくるものは

まだ遠い島でしたが

それが遠い島でなくなって後にも

詩人は宮崎に幾たびか足を運んだでしょうか。

 

 

前回読んだ「孤独者」で

促音便「つ」を小文字にしていないことを

歴史的表記と案内しましたが

これは戦後の一時期の癖ではなく

嵯峨信之、生涯にわたっての習慣であることがわかりました。

 

歴史的かな遣いへの信奉とか

むかしのものへの敬意とかというよりも

詩へのこだわりの形跡(歴史)でしょうか。

 

この詩では

「じつと」「なつていて」「帰つてこない」「きまつてくる」にあり

ほかの詩もことごとく

促音便を小文字にしていないことを知るとき

それは詩人が意識的に残したし形跡であり

形見のようなものに見えてきます。

 

 

現代詩文庫98「嵯峨信之詩集」巻末の「自己『半自伝』次第(抄)」は

大正6年(1917年※1918年とあるのは誤植でしょうか)15歳の項を

東京生活も半歳になったが、

――と書き出しますから

昔の旧制中学を東京で送ったことがわかりますが

この年に単身、満州へ行き

翌1918年(大正7年、16歳)4月には宮崎へ帰ったのですから

宮崎への帰省はこの時が初めてのことになります。

 

生涯、詩人が宮崎に帰ったのが何度ほどだったか。

 

16歳の時のこの帰省が

詩人の魂に刻んだものの大きさを想像できます。

 

詩心は

この頃、湧くようでした。

 

孤独とアンニュイ。

――と書きつけたのも

この帰省を記した続きでした。

 

 

途中ですが

今回はここまで。

 

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