新川和江とその周辺/「始発駅」のころ・1953年の詩人たち/嵯峨信之「留守居」
◇
留守居
ある日の午後を
じつとひとりで留守居をしている
子供の眼にうつる高い梢
その梢は遠い並木のはずれになつていて
たれも帰つてこない道がはるかにつづいている
子供はいつのまにか
たえがたい白い眠りにつつまれて
その羽根のながれのなかを漂う
きまつてくる夕がたの雨はまだこない
少し風が出てさわさわと芭蕉の葉が重くゆれる
そして子供のたましいに
どこかの遠い島がだんだん近づいてくる
――都城旧居
(現代詩文庫98「嵯峨信之詩集」所収「愛と死の数え唄」より。)
◇
この詩も第1詩集「愛と死の数え唄」にあるものです。
末尾にある都城は詩人出生の地ですから
上京する以前の記憶をたどって
戦後に書かれたものでしょうか。
孤独がここにも歌われ
それは子供のこころへ
詩への旅立ちの誘(いざな)いを生みます。
遠い島がだんだん近づいてくる
――は
まさしく詩への目覚めを暗示しているものですし
その目覚めの記憶をたどっての思い出(回想)と読めますし
後年、生地を訪れての確認の記録とも読めるでしょう。
孤独のうちに
次第に大きくかたまってくるものは
まだ遠い島でしたが
それが遠い島でなくなって後にも
詩人は宮崎に幾たびか足を運んだでしょうか。
◇
前回読んだ「孤独者」で
促音便「つ」を小文字にしていないことを
歴史的表記と案内しましたが
これは戦後の一時期の癖ではなく
嵯峨信之、生涯にわたっての習慣であることがわかりました。
歴史的かな遣いへの信奉とか
むかしのものへの敬意とかというよりも
詩へのこだわりの形跡(歴史)でしょうか。
この詩では
「じつと」「なつていて」「帰つてこない」「きまつてくる」にあり
ほかの詩もことごとく
促音便を小文字にしていないことを知るとき
それは詩人が意識的に残したし形跡であり
形見のようなものに見えてきます。
◇
現代詩文庫98「嵯峨信之詩集」巻末の「自己『半自伝』次第(抄)」は
大正6年(1917年※1918年とあるのは誤植でしょうか)15歳の項を
東京生活も半歳になったが、
――と書き出しますから
昔の旧制中学を東京で送ったことがわかりますが
この年に単身、満州へ行き
翌1918年(大正7年、16歳)4月には宮崎へ帰ったのですから
宮崎への帰省はこの時が初めてのことになります。
生涯、詩人が宮崎に帰ったのが何度ほどだったか。
16歳の時のこの帰省が
詩人の魂に刻んだものの大きさを想像できます。
詩心は
この頃、湧くようでした。
孤独とアンニュイ。
――と書きつけたのも
この帰省を記した続きでした。
◇
途中ですが
今回はここまで。
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