年末年始に読む中原中也/雪の賦
よくもまあ晴天が続くこととうれしいのですが
北日本には爆弾低気圧が居座って
連日の猛吹雪ということで
喜んでばかりもいられません。
家康公よ
よくぞ東京に居城を置いてくれたものですと
ふだん思いもしないことを思ってみるのですが
東京にも雪は降ります。
2・26事件が起きた昭和11年(1936年)2月26日は
少し前に降った大雪の雪が残り
その上に再び降ったということです。
◇
雪の賦
雪が降るとこのわたくしには、人生が、
かなしくもうつくしいものに――
憂愁(ゆうしゅう)にみちたものに、思えるのであった。
その雪は、中世の、暗いお城の塀にも降り、
大高源吾(おおたかげんご)の頃にも降った……
幾多(あまた)々々の孤児の手は、
そのためにかじかんで、
都会の夕べはそのために十分悲しくあったのだ。
ロシアの田舎の別荘の、
矢来(やらい)の彼方(かなた)に見る雪は、
うんざりする程永遠で、
雪の降る日は高貴の夫人も、
ちっとは愚痴(ぐち)でもあろうと思われ……
雪が降るとこのわたくしには、人生が
かなしくもうつくしいものに――
憂愁にみちたものに、思えるのであった。
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えてあります。)
◇
この詩は
昭和11年4月10日発行の「四季」に発表されていますから
2・26事件のイメージがかぶさるのはごく自然のなりゆきです。
その上、雪の風景ということで
赤穂浪士の討ち入りを詩人はオーバーラップさせたのでしょうし
なかでも浪士の一人、大高源吾には特別のシンパシーを抱いていたのでしょうけれど
見落としてならないのは
つづいて登場する
孤児と高貴の夫人です。
高貴の夫人には
かつての恋人、泰子の面影がありますが
ここに現われる孤児を
とりわけ見過ごしてはなりません。
◇
この詩に
孤児が現われなかったならば
この詩の深みは一気に吹き飛んでしまいます。
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