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2018年1月18日 (木)

年末年始に読む中原中也/含羞(はじらい)・その5

 

 

詩の謎を解こうとして

詩の背景や制作エピソードを漁(あさ)りだしては

詩から遠ざかるというジレンマになることはしばしばありますが

「含羞(はじらい)」を読むときにも

それは十分に留意したほうがよいことです。

 

詩を読む醍醐味(だいごみ)は

詩そのものにあり

詩の背景を探ることは主要な目的ではありませんから。

 

 

「含羞(はじらい)」はしかし

詩集「在りし日の歌」の冒頭詩であるという点で特別です。

 

多少は背景を知っておいて

越したことではありません。

 

 

第1に、

「含羞(はじらい)」のタイトルの副題に

「――在りし日の歌――」とあるのを

見過ごしてはならないことでしょう。

 

詩集のタイトルを「在りし日の歌」と決めたときに

「含羞(はじらい)」を詩集冒頭に配置することとともに

この副題を添えることも同時に決めたのでした。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰ解題篇。)

 

「含羞(はじらい)」は

在りし日の歌として書かれたのでした。

 

「含羞(はじらい)」は

在りし日の歌その歌なのです。

 

そして、

在りし日はこのとき

過ぎ去りし日です。

 

その在りし日の歌が

なにゆえに こころかくは羞じらう

――と歌い出します。

 

 

秋 風白き日の山かげなりき

――とあるのは

詩人の生地、山口県湯田温泉のあたりを示すものでしょう。

 

東京や京都や横浜でないのは確実です。

 

この詩が

なんらかの経験を歌ったものであるなら

このような限定から出発したほうが

詩世界に親近することでしょう。

 

その山は

中国山地に連なる小さな山であり

詩人は在りし日(過ぎし日)に足を運んだのでありましょう。

 

このあたりまでは

詩に仮構の入り込む余地はありません。

 

秋の風が白みを帯びた日、

冬の間近なその山かげの

椎の枯葉のたまった落窪というあたりも

実際の経験の範囲の場所です。

 

 

詩が大きく動きはじめるのは

幹々(みきみき)は いやにおとなび彳(た)ちいたり

――とあるところからです。

 

樹木の幹という幹が

ひどく大人びて立っているという擬人化の表現は

同時にこの詩が仮構へ旅立ったことを示します。

 

 

次回に続きます。

 

 

含 羞(はじらい)

        ――在りし日の歌――

 

なにゆえに こころかくは羞(は)じらう

秋 風白き日の山かげなりき

椎(しい)の枯葉の落窪(おちくぼ)に

幹々(みきみき)は いやにおとなび彳(た)ちいたり

 

枝々の 拱(く)みあわすあたりかなしげの

空は死児等(しじら)の亡霊にみち まばたきぬ

おりしもかなた野のうえは

“あすとらかん”のあわい縫(ぬ)う 古代の象の夢なりき

 

椎の枯葉の落窪に

幹々は いやにおとなび彳ちいたり

その日 その幹の隙(ひま) 睦(むつ)みし瞳

姉らしき色 きみはありにし

 

その日 その幹の隙 睦みし瞳

姉らしき色 きみはありにし

ああ! 過ぎし日の 仄(ほの)燃えあざやぐおりおりは

わが心 なにゆえに なにゆえにかくは羞じらう……

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えてあります。「あすとらかん」の傍

点は“ ”で表示しました。)

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