中原中也・詩の宝島/ジュピター神の砲(ひづつ)/ランボーという事件
「冬の明け方」の初出は
「歴程」の昭和11年(1936年)4月号です。
中也はこの頃
草野心平の誘いに応じるまま(といっていいか)
「歴程」の同人になっています。
驚くべきことに(驚かないでいられる人もあるかもしれませんが)
この歴程(第2次)の編輯同人に
尾形亀之助の名がありました。
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰ解題篇)
◇
ジュピター神の砲(ひづつ)という表現が
いつしか心の中に喰いこんでいたのに気づいたのは
冬の早朝の職場への道すがらでありましたが
早朝どころか太陽が東の空を割って出て
次第に青空が開け
そしてみなぎる陽光が街にかぎろいを生むまでの(それ以後ももちろん!)
お天道様の僥倖(ぎょうこう)を目撃し実感したからでありました。
陽一つが
星一つが
花一つが
生きていることの無駄でないことを
ジュピター神の砲(ひづつ)はあらためて教えてくれているように思えたのですが
その時、同時にランボーの詩篇を介した
小林秀雄と富永太郎の交感の物語(事件)が
頭の中を駆けめぐっていました。
◇
京都の中原中也を訪れた富永太郎は
自らの詩のノートに筆写して持っていたランボーの詩篇「酔っぱらった船」を
中也に読み聞かせました。
初めて「酔っぱらった船」を読んだ中也は
以後、何度もこの詩を筆写するどころか
富永太郎が帰京したあとを追いかけるように上京し
フランス語でランボーほかの詩人の作品を読みながら
本気で詩人の道を歩みはじめます。
これが東京漂流のはじまりです。
佐々木幹郎「中原中也――沈黙の音楽」(岩波新書)は
その経緯をスリリングに記しています。
◇
中也がダダイズムの詩から離れるきっかけに
富永太郎との交流のなかで知った
ランボーとの出合いがありました。
中也は以来ランボーをはじめとするフランス象徴詩を学びはじめ
フランス語を習得しつつ翻訳にも取り組んで
1933年(昭和8年)に「ランボオ詩集<学校時代の詩>」
1937年(昭和12年)には「ランボオ詩集」を翻訳刊行するまでになります。
◇
今回はここまで。
◇
冬の明け方
残(のこ)んの雪が瓦(かわら)に少なく固く
枯木の小枝が鹿のように睡(ねむ)い、
冬の朝の六時
私の頭も睡い。
烏(からす)が啼(な)いて通る――
庭の地面も鹿のように睡い。
――林が逃げた農家が逃げた、
空は悲しい衰弱。
私の心は悲しい……
やがて薄日(うすび)が射し
青空が開(あ)く。
上の上の空でジュピター神の砲(ひづつ)が鳴る。
――四方(よも)の山が沈み、
農家の庭が欠伸(あくび)をし、
道は空へと挨拶する。
私の心は悲しい……
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