2018年6月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

カテゴリー

ブログランキング参加中です

中原中也を歌う(曲と歌:桜木うさこさん)

電子書籍

無料ブログはココログ

« 2018年2月 | トップページ | 2018年4月 »

2018年3月

2018年3月31日 (土)

中原中也・詩の宝島/ランボーを介した交流<はじまり>

 

 

 

 葉書で驚いた。でもさきが見えてるので安心だ。僕先月25日に喀血をやりそれ以来すぐ

れぬ。が回復しつつあることはたしかだ。中原とのこと当り前のことだ。

 

 

これは、

富永太郎が小林秀雄に宛てた1925年11月4日付けの手紙ですが

投函されなかったものです。

 

これを書いた10日後に

富永太郎は絶命しました。

 

看護婦に

巻紙を頭の上に広げてもらって書いたが

力尽きて筆を落としたそうです。

 

 

この頃、小林秀雄は

大島旅行から帰ってすぐに盲腸炎にかかり

神田の泉橋病院に入院していました。

 

富永が「葉書で驚いた」と書いているのは

小林が盲腸炎で入院中であることを

小林が送った葉書で知ったためと推測されます。

 

長谷川泰子との関係も

この葉書に書かれてあったらしく

この時に初めて知ったのならば

そのことの驚きも含まれていたことでしょう。

 

(以上、現代詩文庫「富永太郎詩集」1975より。)

 

 

投函されなかったこの手紙の内容は

富永太郎の葬儀が終わって

正岡忠三郎、村井康男らが

泉橋病院の小林を訪ねる場面へとつながります。

 

 

14日午後2時、出棺。代々幡火葬場へ向かう。午後4時に辞した後、正岡忠三郎、冨倉徳

次郎、村井康男、斎藤寅郎は泉橋病院に入院中の小林秀雄を訪ねる。病室で長谷川泰

子と行き合う。

(「新編中原中也全集」別巻(上)「写真・図版篇」より。)

 

 

中原中也と小林秀雄の

ランボーを介した交流関係は

どうしても、

富永太郎に遡行(そこう)しますし

長谷川泰子に遡行します。

 

1926年の2人の関係を

切り取ろうとしてもそうなりますが……。

 

 

今回はここまで。

2018年3月30日 (金)

中原中也・詩の宝島/「朝の歌」/ダダ脱皮



中原中也が

1926年(大正15年・昭和元年)に作った「朝の歌」は

後に詩人自らが「詩的履歴書」に記したように

自他ともに認める会心作になりました。

 

大正15年5月、「朝の歌」を書く。7月頃小林に見せる。それが東京に来て詩を人に見せる最初。つま

り「朝の歌」にてほぼ方針立つ。方針は立ったが、たった14行書くために、こんなに手数がかかるので

はとガッカリす。

――と記したのですが

小林秀雄の目にかなった作品であることによって

「朝の歌」は自他ともに認める詩とされたのでした。

 

 

朝の歌

 

天井に 朱(あか)きいろいで

  戸の隙(すき)を 洩(も)れ入(い)る光、

鄙(ひな)びたる 軍楽(ぐんがく)の憶(おも)い

  手にてなす なにごともなし。

 

小鳥らの うたはきこえず

  空は今日 はなだ色らし、

倦(う)んじてし 人のこころを

  諫(いさ)めする なにものもなし。

 

樹脂の香(か)に 朝は悩まし

  うしないし さまざまのゆめ、

森竝(もりなみ)は 風に鳴るかな

 

ひろごりて たいらかの空、

  土手づたい きえてゆくかな

うつくしき さまざまの夢。

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えてあります。)

 

 

この詩が

詩人自身も納得し

小林秀雄も評価することになった第一の理由は

ダダイズムの痕跡が完全に消えて

独自の詩世界が拓(ひら)かれたところにありました。

 

第1詩集「山羊の歌」では

2番詩「月」にはじまり

「サーカス」「春の夜」を経て

「朝の歌」へ至り

「臨終」以降へと連なる流れに

そのダダ脱皮の苦闘の跡が見られます。

 

この過程で

宮沢賢治、富永太郎ら日本の詩や

ランボー、ボードレール、ヴェルレーヌらフランス詩を吸収します。

 

 

1926年(大正15年・昭和元年)にはこうして

「むなしさ」

「朝の歌」

「臨終」

――を生みますが

この間の、小林秀雄との交流は

どのようなものだったのでしょうか。

 

ランボーの存在が

そこにあります。

 

 

今回はここまで。

 

2018年3月29日 (木)

中原中也・詩の宝島/「臨終」ダダ脱皮の途上で/ランボー原書

 

 

大正15年(1926年)1月16日付け正岡忠三郎宛の書簡にある

もう一つ見逃せない記述は、

仏語雑誌、ありがたう。

ランボオの詩集お送り願ふ、切に切に。

――という下りです。

 

この下りでは

正岡忠三郎にフランス語の雑誌を借りたか

譲ってもらったかしたのに対する礼を言い、

同時にランボー詩集の原書を郵送してほしいことを依頼しているのです。

 

このランボー詩集は

ベリション版ランボオ著作集のことで

中原中也はこの日の直後には

これを入手しています。

 

横浜行きの感想を述べるいっぽうで

ランボー詩集の原書を依頼し

そしてそれを入手するという

この頃の詩人の状況が

端的にこの書簡に現れていることになります。

 

このことはつまり

ランボーへの取り組み(ランボーという事件)と

横浜彷徨(東京漂流)は同じ起源にあったことを物語ります。

 

 

この年(大正15年、1926年)の年末には

大正天皇が崩御し昭和元年がはじまります。

 

(※昭和元年は、わずか1週間で昭和2年・1927年がはじまりますから、3年が流れたよ

うな錯覚に陥らないよう注意しましょう。)

 

 

ここで大正15年・昭和元年(1926年)の年譜を

少しひもといておきましょう。

 

2月

「むなしさ」を制作。



4月

日本大学予科に入学。

 

5月

「朝の歌」を制作。

メッサン版ヴェルレーヌ全集第1巻を購入。

 

7月

「朝の歌」を小林に見せる。

9月

日本大学予科を退学。

 

11月

「夭折した富永」を「山繭」に寄稿。

アテネ・フランセへ通う。

 

12月

小林秀雄の著作「人生斫断家アルチュル・ランボオ」の感想を送る。

 

 

「臨終」も

この年のどこかで書かれました。



中原中也は

「むなしさ」

「朝の歌」

「臨終」

――を書いた年に

ランボー原書を手に入れました。

 

「山羊の歌」は

この「臨終」を「朝の歌」の後に配置します。

 

 

今回はここまで。

 

 

臨 終

 

秋空は鈍色(にびいろ)にして

黒馬(くろうま)の瞳のひかり

  水涸(か)れて落つる百合花(ゆりばな)

  ああ こころうつろなるかな

 

神もなくしるべもなくて

窓近く婦(おみな)の逝(ゆ)きぬ

  白き空盲(めし)いてありて

  白き風冷たくありぬ

 

窓際に髪を洗えば

その腕の優しくありぬ

  朝の日は澪(こぼ)れてありぬ

  水の音(おと)したたりていぬ

 

町々はさやぎてありぬ

子等(こら)の声もつれてありぬ

  しかはあれ この魂はいかにとなるか?

  うすらぎて 空となるか?

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えてあります。)

2018年3月27日 (火)

中原中也・詩の宝島/「臨終」ダダ脱皮の途上で/富永太郎の死

 

横浜という所には、

1、常なるさんざめける湍水(たんすい)の哀歓の音と、

2、母さんの少女時代の幻覚と、

3、謂はば歴史の純良性があるのだ。

4、あんまりありがたいものではないが、同種療法さ。

――と、大正15年1月16日付け正岡忠三郎宛ての書簡の一部を取り出して

箇条書きに直しておきます。

 

湍水(たんすい)は

性は猶ほ湍水のごときなり、とある

人間の本性はちょうど渦を巻いている水のようなものである。

――という意味の「孟子」の格言に現われるボキャブラリー。

 

中也が無類の読書家であることの片鱗(へんりん)です。

 

 

しかし、

ここで注目したいのは、同種療法です。

 

ここにどのような意味を込めたか

同種療法という大正ムードぷんぷんの新興療法に突っ込んでいくより

これも一種の比喩と考えて

横浜に同種のものがあるから行くのだということを

ここではつかんでおけばよいのではないでしょうか。

 

 

むずかしく言えば、自己同一化。

 

仏教で言う、同苦同悲。

 

同病相憐れむ、と言ってもよいか。

 

同種のものが同種のものを治す、のです。

 

 

「むなしさ」には

よすがなき われは戯女(たわれめ)

――とあり、

それらみな ふるのわが友

――とあったではないですか!

 

 

「臨終」に

水涸(か)れて落つる百合花(ゆりばな)

――とあり、

窓近く婦(おみな)の逝(ゆ)きぬ

――とある死。

 

この死は女性の死ですが

詩人はこの死に同化しています。

 

しかはあれ この魂はいかにとなるか?

うすらぎて 空となるか?

――の魂も空も

詩人のものであります。

 

 

この詩は

横浜の街の馴染みの娼婦の死を歌ったもののようですが

女性の死を歌って

自己の死を遠く思っている詩です。

 

この死にかすかに

富永太郎の死が重なっています。

 

 

臨 終

 

秋空は鈍色(にびいろ)にして

黒馬(くろうま)の瞳のひかり

  水涸(か)れて落つる百合花(ゆりばな)

  ああ こころうつろなるかな

 

神もなくしるべもなくて

窓近く婦(おみな)の逝(ゆ)きぬ

  白き空盲(めし)いてありて

  白き風冷たくありぬ

 

窓際に髪を洗えば

その腕の優しくありぬ

  朝の日は澪(こぼ)れてありぬ

  水の音(おと)したたりていぬ

 

町々はさやぎてありぬ

子等(こら)の声もつれてありぬ

  しかはあれ この魂はいかにとなるか?

  うすらぎて 空となるか?

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えてあります。)

 

 

今回はここまで。

2018年3月26日 (月)

中原中也・詩の宝島/「臨終」ダダ脱皮の途上で/横浜彷徨

 



 

臨 終

 

秋空は鈍色(にびいろ)にして

黒馬(くろうま)の瞳のひかり

  水涸(か)れて落つる百合花(ゆりばな)

  ああ こころうつろなるかな

 

神もなくしるべもなくて

窓近く婦(おみな)の逝(ゆ)きぬ

  白き空盲(めし)いてありて

  白き風冷たくありぬ

 

窓際に髪を洗えば

その腕の優しくありぬ

  朝の日は澪(こぼ)れてありぬ

  水の音(おと)したたりていぬ

 

町々はさやぎてありぬ

子等(こら)の声もつれてありぬ

  しかはあれ この魂はいかにとなるか?

  うすらぎて 空となるか?

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えてあります。)

 

 

窓近く婦(おみな)の逝(ゆ)きぬ、と

窓際に髪を洗えば、と

2度現われる窓の女性は

緋の衣装を羽織っていたでしょうか。

 

横浜についての詩人の最初の記述は

大正15年(1926年)1月16日付け正岡忠三郎宛ての書簡とされていますが

この書簡、興味深い色々なことが書かれていますから

全文を読んでおきましょう。

 

 

1月16日 正岡忠三郎宛

 

 手紙を書くことが対話しているやうに思へる程、それ程みじめなのだ。 

 頭の中にメリヤス屋の軒先に吊るしてある女の児の赤い股引が、カーギン電球の光をう

けてユラユラ、ユラユラしてるやうだ。

 

 今日あたりまた横浜へでも出掛けたいのだが、古道具屋の親爺が郷里で親父が危篤だ

とかでゐなくつて借れないのだ。――

 

 横浜という所には、常なるさんざめける湍水(たんすい)の哀歓の音と、母さんの少女時代

の幻覚と、謂はば歴史の純良性があるのだ。あんまりありがたいものではないが、同種療

法さ。

 

仏語雑誌、ありがたう。

ランボオの詩集お送り願ふ、切に切に。

 

 文化学院に大学部の出来たことを知って、喜んでる。殆ど無試験だ。校舎に行ってみた

ら、階段がカンヴァス地で張つてあるのだ。また門表に並べて、「明星」発行所とある。立

命館よりもつと上等らしい。                     

                                           左様なら

                                          中也

 

  1月16日

 正岡忠三郎様

 

(「新編中原中也全集」第5巻「日記・書簡」本文篇より。改行を加え、洋数字に改めまし

た。編者。)

 

 

富永太郎の死があり

長谷川泰子との別れがあり

泰子との別れは同時にそれは小林秀雄との暮らしのはじまりであり……。

 

それからおよそ2か月後の手紙なのです、これは。

中に横浜彷徨への動機が

記されてあります。

 

 

第一に言っておきたいのは

この女性の死に

富永太郎の死がかぶって来るのを

抑えきれないことです。

 

 

今回はここまで。

中原中也・詩の宝島/「臨終」ダダ脱皮の途上で

 

 

中原中也が「秋の愁嘆」を書いた丁度そのころ

富永太郎は臨終のベッドにありました。

 

1925年(大正14年)11月6日に他界します。

 

同月13日に納棺、14日に火葬されますが

その様子を

新全集の「中原中也年譜」(加藤邦彦)は

次のように記しています。

 

 

11月13日 昼、富永太郎納棺。夕方、中也、富永宅を訪れる。「dadacin青いかほをして

来る。二晩ねなかつたと」(*47)。村井康男を知ったは、このときか(*48)。富永の遺稿

を見ながら徹夜。

 

14日午後2時、出棺。代々幡火葬場へ向かう。午後4時に辞した後、正岡忠三郎、冨倉徳

次郎、村井康男、斎藤寅郎は泉橋病院に入院中の小林秀雄を訪ねる。病室で長谷川泰

子と行き合う(*49)。

 

   ※*で示された語註――。

     *47 正岡忠三郎日記。

      *48 村井康男「思い出すままに」。

      *49 正岡忠三郎日記。小林は当時、盲腸炎のために入院していた。

 

(「新編中原中也全集」別巻・写真図表篇の巻末に収載。改行を加えました。編者。)

 

 

このあたりのことは

大岡昇平の「朝の歌」に詳しいから

それを読まないでは話が通じませんが

「秋の愁嘆」が書かれた頃にはじまる混沌(とした状況)は

中原中也の詩の混沌(とした豊穣)であり

ダダイズムを脱皮する過程でした。

 

過程である以上の混沌でした。

 

一挙に世界が混沌と化し

詩人が混沌を漂流するのは

「酔いどれ船」さながらでありました。

 

大海の中の小舟でしたが

この小舟、積み切れないほどの豊穣を抱えます。

 

 

「臨終」が書かれたのも

この頃でした。

 

 

臨 終

 

秋空は鈍色(にびいろ)にして

黒馬(くろうま)の瞳のひかり

  水涸(か)れて落つる百合花(ゆりばな)

  ああ こころうつろなるかな

 

神もなくしるべもなくて

窓近く婦(おみな)の逝(ゆ)きぬ

  白き空盲(めし)いてありて

  白き風冷たくありぬ

 

窓際に髪を洗えば

その腕の優しくありぬ

  朝の日は澪(こぼ)れてありぬ

  水の音(おと)したたりていぬ

 

町々はさやぎてありぬ

子等(こら)の声もつれてありぬ

  しかはあれ この魂はいかにとなるか?

  うすらぎて 空となるか?

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えてあります。)

 



中原中也19歳の年の制作です。



今回はここまで。

2018年3月24日 (土)

中原中也・詩の宝島/「或る心の一季節」ダダ脱皮の途上で/富永太郎「秋の悲歎」のパロディー・その2

 

 

富永太郎の「秋の悲歎」に呼応した

中原中也の詩で

もう一つ読んでおきたいのは

「或る心の一季節」という散文詩です。

 

中也が上京して書いた

初の作品です。

 

 

或る心の一季節

           ――散文詩

 

 最早(もはや)、あらゆるものが目を覚ました、黎明(れいめい)は来た。私の心の中に住

む幾多のフェアリー達は、朝露の傍(そば)では草の葉っぱのすがすがしい線を描いた。

 私は過去の夢を訝(いぶか)しげな眼で見返る………何故(ナニユエ)に夢であったかは

まだ知らない。其処(そこ)に安座(あんざ)した大饒舌(だいじょうぜつ)で漸(ようや)く癒る

程暑苦しい口腔(こうくう)を、又整頓を知らぬ口角を、樺色(かばいろ)の勝負部屋を、私

は懐(なつか)しみを以(もっ)て心より胸にと汲(く)み出だす。だが次の瞬間に、私の心は

はや、懐しみを棄てて慈(いつく)しみに変っている。これは如何(どう)したことだ?………

けれども、私の心に今は残像に過ぎない、大饒舌で漸く癒る程暑苦しい口腔、整頓を知ら

ぬ口角、樺色の勝負部屋……それ等の上にも、幸いあれ!幸いあれ!

 併(しか)し此(こ)の願いは、卑屈(ひくつ)な生活の中では「ああ昇天は私に涙である」と

いう、計(はか)らない、素気(すげ)なき呟(つぶや)きとなって出て来るのみだ。それは何

故(なぜ)か?

 

 私の過去の環境が、私に強請(きょうせい)した誤れる持物は、釈放さるべきアルコール

の朝(アシタ)の海を昨日得ている。だが、それを得たる者の胸に訪れる筈(はず)の天使

はまだ私の黄色の糜爛(びらん)の病床に来ては呉(く)れない。――(私は風車の上の空

を見上げる)――私の唸(うめ)きは今や美(うる)わしく強き血漿(けっしょう)であるに、そ

の最も親わしき友にも了解されずにいる。………

 私はそれが苦しい。――「私は過去の夢を訝しげな眼で見返る………何故に夢であった

かはまだ知らない。其処に安座した大饒舌で漸く癒る程暑苦しい口腔を、又整頓を知らぬ

口角を、樺色の勝負部屋を、私は懐しみを以て心より胸にと汲み出す」――さればこそ私

は恥辱を忘れることによっての自由を求めた。

 友よ、それを徒(いたず)らな天真爛漫と見過(みあやま)るな。

 だが、その自由の不快を、私は私の唯一つの仕事である散歩を、終日した後、やがての

こと己が机の前に帰って来、夜の一点を囲う生暖き部屋に、投げ出された自分の手足を見

懸ける時に、泌々(しみじみ)知る。掛け置いた私の置時計の一秒々々の音に、茫然(ぼう

ぜん)耳をかしながら私は私の過去の要求の買い集めた書物の重なりに目を呉れる、又

私の燈(ともしび)に向って瞼(まぶた)を見据える。

 間もなく、疲労が軽く意識され始めるや、私は今日一日の巫戲(ふざ)けた自分の行蹟

(ぎょうせき)の数々が、赤面と後悔を伴って私の心に蘇るのを感ずる。――まあ其処にあ

る俺は、哄笑(こうしょう)と落胆との取留(とりとめ)なき混交(こんこう)の放射体ではな

かったか!――だが併(しか)し、私のした私らしくない事も如何(いか)にか私の意図した

ことになってるのは不思議だ………「私の過去の環境が、私に強請した誤れる私の持物

は、釈放さるべきアルコールの朝(アシタ)の海を昨日得ている。だが、それを得たる者の

胸に訪れる筈の天使はまだ私の黄色の糜爛の病床に来ては呉れない。――(私は風車

の上の空を見上げる)――私の唸きは今や美わしく強き血漿であるに、その最も親わしき

友にも了解されずにいる」………そうだ、焦点の明確でないこと以外に、私は私に欠点を

見出すことはもう出来ない。

 

 私は友を訪れることを避けた。そして砂埃の立ち上がり巻き返る広場の縁をすぐって歩

いた。

 今日もそれをした。そして今もう夜中が来ている。終列車を当てに停車場の待合室にチョ

コンと坐っている自分自身である。此所から二里近く離れた私の住居である一室は、夜空

の下に細い赤い口をして待っているように思える――

 

 私は夜、眠いリノリュームの、停車場の待合室では、沸き返る一抱きの蒸気釜を要求し

た。

 

(「新編中原中也全集」第2巻・詩Ⅱより。新かなに変えてあります。)

 

 

冒頭の、

 最早(もはや)、あらゆるものが目を覚ました、黎明(れいめい)は来た。私の心の中に住

む幾多のフェアリー達は、朝露の傍(そば)では草の葉っぱのすがすがしい線を描いた。

――が富永太郎の「秋の悲歎」の冒頭、

 私は透明な秋の薄暮の中に墜ちる。戦慄は去つた。道路のあらゆる直線が甦る。あれら

のこんもりとした貪婪な樹々さへも闇を招いてはゐない。

――を意識して書かれたことは明らかです。

 

ほかにも呼応し重なっている詩行が見られますが

詩の結末に

微妙とは言えない

大きな差異があるのがわかります。

 

 

私は私自身を救助しよう。

――と富永太郎が書くのは

結核の病状が進むわが身を励ます気持ちを

まっすぐに歌ったものですが

中也は、

停車場の待合室では、沸き返る一抱きの蒸気釜を要求した。

――とダダっぽく歌います。

 

孤独を歌うのですが

お道化て

熱いもの(=沸き返る蒸気釜)を欲しがっている自己を

見つめているのです。

 

 

これも

パロディーのうちに入る詩です。

 

 

富永太郎は前年11月には

京大の学友、村井康男に宛てた書簡に

「ダダイストとのDegoutに満ちたamitieに淫して40日を徒費した」

と記しました。

 

Degout(デグゥ)はフランス語で不快とか嫌悪

Amitie(アミティエ)は友情とか交友という意味です。

 

富永は

わずか5か月あまりの京都滞在中の

中原中也との40日間の激越な交流を

そのように村井に報告せざるを得なかったのです。

 

 

今回はここまで。

2018年3月23日 (金)

中原中也・詩の宝島/「秋の愁嘆」ダダ脱皮の途上で/富永太郎「秋の悲歎」のパロディー

 

 

 

秋の愁嘆

 

ああ、秋が来た

眼に琺瑯(ほうろう)の涙沁(し)む。

ああ、秋が来た

胸に舞踏の終らぬうちに

もうまた秋が、おじゃったおじゃった。

野辺を 野辺を 畑を 町を

人達を蹂躪(じゅうりん)に秋がおじゃった。

 

その着る着物は寒冷紗(かんれいしゃ)

両手の先には 軽く冷い銀の玉

薄い横皺(よこじわ)平らなお顔で

笑えば籾殻(もみがら)かしゃかしゃと、

へちまのようにかすかすの

悪魔の伯父(おじ)さん、おじゃったおじゃった。

          (一九二五・一〇・七)

 

(「新編中原中也全集」第2巻・詩Ⅱより。新かなに変えてあります。)

 

 

大岡昇平はこの詩が

富永太郎の「秋の悲歎」の戯画化であることを推測しています。

 

あきらかにパロディーですが

「秋の悲歎」への返歌であり

競作であり

反歌であったのかもしれません。

 

意図がどうであれ

詩は

ダダっぽい道化調を残しながら

ダダを脱皮し

独自の詩世界に到達しているところに驚かされます。

 

 

この詩の末尾に

制作日1925年10月7日とある日の

翌日の10月8日、

小林秀雄は長谷川泰子と忍びあい

伊豆大島への旅行に出る予定でしたが

待ち合わせ場所の品川駅に泰子は現れなかったため

一人で大島に出発したという事件がありました。

 

また、およそ1か月後の11月12日に

富永太郎が亡くなるという事態に

中也は衝撃を受けます。

 

長谷川泰子が小林秀雄と暮らしはじめるのは

11月下旬(推定)になりますが

その直前に泰子から離別を告げられるまで

中也は二人の間に進行する恋愛劇に気づかなかったそうです。

 

(「新編中原中也全集」第2巻・詩Ⅱ、「秋の愁嘆」解題篇。)

 

 

詩(テキスト)の外で起こっている事実に

悪魔の伯父さんとあるのが

あまりにも符号していて

俄(にわ)かに信じがたい詩のリアリティーというものにも驚かされます。

 

 

今回はここまで。

中原中也・詩の宝島/「秋の愁嘆」ダダ脱皮の途上で/富永太郎「秋の悲歎」への反歌

 


一つの詩が

ある他の詩(の詩語・詩句・詩行)に触発されて作られるケースは

いくらでもあることです。

 

詩人は

自分以外の詩人の詩に

貪欲な関心(好奇心)を抱き

楽しもうとしたり

味わおうとしたり

ヒントを見つけたり

糧(かて)としたり

学ぼうとしたり

盗もうとしたり

らんらんと目を輝かせていることでしょうから。

 

中也は

宮沢賢治の詩集「春の修羅」に出合う少し前に

富永太郎を知りました。

 

絵を描きながら

詩を書いていた富永に

フランス詩人の動きを学び

上京を決意します。

 

 

富永太郎の詩を読んでみましょう。

 

原詩とともに

現代かな遣いに直したものも掲出します。

 

 

秋の悲歎

 

 私は透明な秋の薄暮の中に墜ちる。戦慄は去つた。道路のあらゆる直線が甦る。あれら

のこんもりとした貪婪な樹々さへも闇を招いてはゐない。

 私はたゞ微かに煙を挙げる私のパイプによつてのみ生きる。あの、ほつそりとした白陶土

製のかの女の頸に、私は千の静かな接吻をも惜しみはしない。今はあの銅色(あかゞね)の

空を蓋ふ公孫樹の葉の、光沢のない非道な存在をも赦さう。オールドローズのおかつぱさ

んは埃も立てずに土塀に沿つて行くのだが、もうそんな後姿も要りはしない。風よ、街上に

光るあの白痰を掻き乱してくれるな。

 私は炊煙の立ち騰る都会を夢みはしない――土瀝青(チヤン)色の疲れた空に炊煙の立

ち騰る都会などを。今年はみんな松茸を食つたかしら、私は知らない。多分柿ぐらゐは食

へたのだらうか、それも知らない。黒猫と共に坐る残虐が常に私の習ひであつた……

 夕暮、私は立ち去つたかの女の残像と友である。天の方に立ち騰るかの女の胸の襞(ひだ)

を、夢のやうに萎れたかの女の肩の襞を私は昔のやうにいとほしむ。だが、かの女の髪の

中に挿し入つた私の指は、昔私の心の支へであつた、あの全能の暗黒の粘状体に触れる

ことがない。私たちは煙になつてしまつたのだらうか? 私はあまりに硬い、あまりに透明

な秋の空気を憎まうか?

 繁みの中に坐らう。枝々の鋭角の黒みから生れ出る、かの「虚無」の性相(フイジオグノ

ミー)をさへ点検しないで済む怖ろしい怠惰が、今私には許されてある。今は降り行くべき

時だ――金属や蜘蛛の巣や瞳孔の栄える、あらゆる悲惨の市(いち)にまで。私には舵は

要らない。街燈に薄光るあの枯芝生の斜面に身を委せよう。それといつも変らぬ角度を保

つ、錫箔のやうな池の水面を愛しよう……私は私自身を救助しよう。

 

(思潮社、現代詩文庫「富永太郎詩集」、1975年より。ルビは( )で示しました。編者。)

 

 

秋の悲歎

 

 私は透明な秋の薄暮の中に墜ちる。戦慄は去った。道路のあらゆる直線が甦る。あれら

のこんもりとした貪婪な樹々さえも闇を招いてはいない。

 私はただ微かに煙を挙げる私のパイプによってのみ生きる。あの、ほっそりとした白陶土

製のかの女の頸に、私は千の静かな接吻をも惜しみはしない。今はあの銅色(あかがね)

の空を蓋う公孫樹の葉の、光沢のない非道な存在をも赦そう。オールドローズのおかっぱ

さんは埃も立てずに土塀に沿って行くのだが、もうそんな後姿も要りはしない。風よ、街上

に光るあの白痰を掻き乱してくれるな。

 私は炊煙の立ち騰る都会を夢みはしない――土瀝青(チヤン)色の疲れた空に炊煙の立

ち騰る都会などを。今年はみんな松茸を食ったかしら、私は知らない。多分柿ぐらいは食

えたのだろうか、それも知らない。黒猫と共に坐る残虐が常に私の習いであった……

 夕暮、私は立ち去ったかの女の残像と友である。天の方に立ち騰るかの女の胸の襞(ひ

だ)を、夢のように萎れたかの女の肩の襞を私は昔のようにいとおしむ。だが、かの女の髪

の中に挿し入った私の指は、昔私の心の支えであった、あの全能の暗黒の粘状体に触れ

ることがない。私たちは煙になってしまったのだろうか? 私はあまりに硬い、あまりに透

明な秋の空気を憎もうか?

 繁みの中に坐ろう。枝々の鋭角の黒みから生れ出る、かの「虚無」の性相(フィジオグノ

ミー)をさえ点検しないで済む怖ろしい怠惰が、今私には許されてある。今は降り行くべき

時だ――金属や蜘蛛の巣や瞳孔の栄える、あらゆる悲惨の市(いち)にまで。私には舵は

要らない。街燈に薄光るあの枯芝生の斜面に身を委せよう。それといつも変らぬ角度を保

つ、錫箔のような池の水面を愛しよう……私は私自身を救助しよう。

 

 

中に

ほっそりとした白陶土製のかの女

――とあるのは

仙台滞在中の富永太郎が恋した人妻を指しているでしょう。

 

死期のせまった詩人に

いまだその傷跡は癒えていません。

 

そして

その「かの女」が「彼女」でないのは

中也の詩「かの女」につながるものでしょうか。

 

大正期に一般的な使い方だったのでしょうか。

 

 

このような硬質の文体は

高踏的と評されるようですが

中原中也はこの詩に対する反歌のような詩「秋の愁嘆」を作ります。

 



今回はここまで。

2018年3月21日 (水)

中原中也・詩の宝島/「サーカス」ダダ脱皮の途上で/宮沢賢治「原体剣舞連」

 

 

中原中也の詩の中に

宮沢賢治を読んだ跡がある例は

数え上げればいくつか見つかるはずですが

ここでは「サーカス」を見ておきましょう。

 

「山羊の歌」の3番詩に置かれたこの詩は

中也ファンが

第1にあげる人気の詩ですし

現代詩中の名作です。

 

この詩の初稿の制作は

大正14年から15年の間と推定されています。

 

この詩が作られたころ

長谷川泰子は詩人の元を去りました。

 

小林秀雄との「奇怪な三角関係」は

はじまっていましたし

富永太郎の死もありました。

茶色い戦争の1語に

泰子との過ぎ去った愛憎劇が込められているのか

富永太郎、小林秀雄との確執が反響しているのか

断定できないことですが

さまざまな想像が誘い出される詩です。

 

 

サーカス

 

幾時代かがありまして

   茶色い戦争ありました

 

幾時代かがありまして

   冬は疾風(しっぷう)吹きました

 

幾時代かがありまして

   今夜此処(ここ)での一(ひ)と殷盛(さか)り

      今夜此処での一と殷盛り

 

サーカス小屋は高い梁(はり)

   そこに一つのブランコだ

見えるともないブランコだ

 

頭倒(あたまさか)さに手を垂れて

   汚れ木綿(もめん)の屋蓋(やね)のもと

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

 

それの近くの白い灯(ひ)が

   安値(やす)いリボンと息を吐(は)き

 

観客様はみな鰯(いわし)

   咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)と

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

 

      屋外(やがい)は真ッ闇(くら) 闇の闇

      夜は劫々と更けまする

      落下傘奴(らっかがさめ)のノスタルジアと

      ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えてあります。)

 

 

最終連第1行の、

屋外(やがい)は真ッ闇(まっくら) 闇の闇(くらのくら)

――が

宮沢賢治「春の修羅」にある「原体剣舞連(はらたいけんばいれん)」の

まつくらくらの二里の洞(ほら)

――に触発(インスパイアー)されたことは間違いないでしょう。

 

サーカスが演じられている外の闇が

ややユーモラスなリズムを刻んで更けていく描写に

ピタリとはまっています。

 

この詩のオリジナリティーを

いささかも揺るがしていません。

 

 

ついでに言えば

一と殷盛り

――という語彙も

高踏的ではありますが

この詩の世界に生きていて

しっかりとはまっています。

 

自己の詩世界が

確立されているのです。

 

 

今回はここまで。

中原中也・詩の宝島/「かの女」ダダ脱皮の途上で/宮沢賢治「春と修羅」の跡

 

 

東京漂流は

横浜の街からはじまりました。

 

「むなしさ」に似た未発表詩に

「かの女」があります。

 

この詩も

大正15年(1926年)の制作と推定されています。

 

 

かの女

 

千の華燈(かとう)よりとおくはなれ、

笑める巷(ちまた)よりとおくはなれ、

露じめる夜のかぐろき空に、

かの女はうたう。

 

「月汞(げっこう)はなし、

低声(こごえ)誇りし男は死せり。

皮肉によりて瀆(けが)されたりし、

生よ歓喜よ!」かの女はうたう。

 

鬱悒(うつゆう)のほか訴うるなき、

翁(おきな)よいましかの女を抱け。

自覚なかりしことによりて、

 

いたましかりし純美の心よ。

かの女よ憔(じ)らせ、狂い、踊れ、

汝(なれ)こそはげに、太陽となる!

 

(「新編中原中也全集」第2巻・詩Ⅱより。新かなに変えてあります。)

 

 

ここに歌われている女性が

横浜の街の娼婦であること も疑いないことでしょうし

この女性に長谷川泰子の面影を読むことも可能でしょうが

「むなしさ」と同様に

詩人自身が投影されていることが

第一に重要なポイントです。

 

自身を重ね合わせることなくして

彼女に同情する上から目線では

詩が成り立ちません。

 

 

千の華燈(かとう)

月汞(げっこう)

鬱悒(うつゆう)

純美の心

……などの漢語表現が

高踏的であると見なされ

富永太郎や宮沢賢治らの影響があるというのも

「むなしさ」と同様です。

 

とりわけ

月汞(げっこう)の一語は

宮沢賢治「春と修羅」中の「風の偏倚」にあり

日本語として使われた珍しい例であるため

これに倣(なら)ったものと考えられています。

 

「春と修羅」は

大正13年.(1924年)4月に自費出版され

中也は翌年末か、翌々年初めに入手しています。

 

(※「風の偏倚」は、青空文庫「春と修羅」で読むことができます。)

 

 

遊女を歌っているのも

ランボーやベルレーヌやボードレールなどフランス詩の影ともいえますし

これもダダ詩からの脱皮の跡でしょう。

 

第2連に「 」で括(くく)られて引用された詩句の出所は

おそらくフランス詩でしょうが

定かではありません。

 

 

今回はここまで。

2018年3月20日 (火)

中原中也・詩の宝島/東京漂流/「むなしさ」から「朝の歌」へ

東京漂流は

横浜の街にはじまりました。

 

「むなしさ」は

大正15年、というと、この年の末が昭和元年ですが

1926年の初め、2月の制作と推定されています。

 

 

むなしさ

 

臘祭(ろうさい)の夜の 巷(ちまた)に堕(お)ちて

 心臓はも 条網(じょうもう)に絡(から)み

脂(あぶら)ぎる 胸乳(むなぢ)も露(あら)わ

 よすがなき われは戯女(たわれめ)

 

せつなきに 泣きも得せずて

 この日頃 闇(やみ)を孕(はら)めり

遐(とお)き空 線条(せんじょう)に鳴る

 海峡岸 冬の暁風(ぎょうふう)

 

白薔薇(しろばら)の 造花の花弁(かべん)

 凍(い)てつきて 心もあらず

明けき日の 乙女の集(つど)い

 それらみな ふるのわが友

 

偏菱形(へんりょうけい)=聚接面(しゅうせつめん)そも

 胡弓(こきゅう)の音(ね) つづきてきこゆ

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えてあります。)

 

 

この詩に使われている

臘祭(ろうさい)や偏菱形(へんりょうけい)などの

難解で高踏的な漢語が

富永太郎や宮沢賢治らの影響であることや

白薔薇の比喩や

戯女を主語におく詩そのもののモチーフには

ベルレーヌの影響があることなどが

研究されています。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰ「解題篇」。)

 

長い間何度も読んでいて

その指摘が理解できるようになりますが

これもダダイズムの詩からの脱皮を図ろうとする

詩人の格闘のあらわれの一つでした。

 

 

中原中也自らが

独創的なこの詩の世界を自負していたとしても

世間(周囲)の評価を得るには

しかし時間がかかることになりました。

 

それは

オリジナリティーというようなことかもしれませんし

ポピュラリティーというようなことかもしれませんし

現代詩のむずかしさというようなことかもしれません。

 

現在にいたっても

「朝の歌」の人気が

「むなしさ」への評価を上回っていることは

詩とは何かという遠大なテーマに関わっている大きな問題ですね。

 

 

自他ともに認める詩である「朝の歌」は

しかしすぐ手の届く距離にありました。

 

この年の夏には

「朝の歌」を完成します。

 

 

朝の歌

 

天井に 朱(あか)きいろいで

 戸の隙(すき)を 洩(も)れ入(い)る光、

鄙(ひな)びたる 軍楽(ぐんがく)の憶(おも)い

 手にてなす なにごともなし。

 

小鳥らの うたはきこえず

 空は今日 はなだ色らし、

倦(う)んじてし 人のこころを

 諫(いさ)めする なにものもなし。

 

樹脂の香(か)に 朝は悩まし

 うしないし さまざまのゆめ、

森竝(もりなみ)は 風に鳴るかな

 

ひろごりて たいらかの空、

 土手づたい きえてゆくかな

 うつくしき さまざまの夢。

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えてあります。)

 

 

「朝の歌」は

詩人自らもなんとか納得し

他者、とりわけ小林秀雄も認めざるを得なかった詩でした。

詩人は後年、「詩的履歴書」に、

大正15年5月、「朝の歌」を書く。7月頃小林に見せる。それが東京に来て詩を人に見せる

最初。つまり「朝の歌」にてほぼ方針立つ。方針は立ったが、たった14行書くために、こん

なに手数がかかるのではとガッカリす。

――と記したのです。

 

 

今回はここまで

2018年3月18日 (日)

中原中也・詩の宝島/ランボーへの旅立ちと東京漂流/「むなしさ」から

 

 

中原中也が読んだ初めてのランボーは

「酔いどれ船」Bateau ivreの翻訳でした。

 

フランス語を知らないので

翻訳で詩を読むのは

それ以外に道がないわけですから当然のことでしたが

大正13年(1924年)から2年の間に3回筆写した生の原稿が残っているのですから

熱の入れようが想像できるというものです。

 

 

中也は生前に

「アルチュル・ランボオ詩集<学校時代の詩>」(昭和8年12月)

「ランボオ詩抄」(昭和11年6月)

「ランボオ詩集」(昭和12年10月)

――の3冊を刊行。

 

雑誌に

アンドレ・ジイドなども翻訳し発表しました。

 

「ランボオ詩集」は

小林秀雄の「地獄の季節」「飾画」と補足関係にあったと

大岡昇平は記しています。

 

 

ランボー以外の詩人についても

多量の未定稿を残しましたが

それは角川書店発行の「新編中原中也全集」第3巻「翻訳」に収録されています。

 

大正末年にフランス語を学習しはじめて

10数年でランボーの全訳詩集を発行するまでになったことのほか

角川新全集のこの翻訳のうちわけを見ると

半端ではなかった業績をあらためて知ることになりますし

近年、ますますその評価は高まっています。

 

 

しかし、今、まだ

昭和の初めに中原中也はいます。

 

ランボーと出会ったばかりで

自選詩集を出していない

駆け出しの詩人です。

 

連れだって上京してきたパートナーは

詩人の元を去り

「地獄の季節」に熱中していた東大生と暮らしています。

 

詩人は

「酔いどれ船」さながら

東京の街を漂流しています。

 

漂流のはじまりに

「むなしさ」は書かれました。

 

 

むなしさ

 

臘祭(ろうさい)の夜の 巷(ちまた)に堕(お)ちて

 心臓はも 条網(じょうもう)に絡(から)み

脂(あぶら)ぎる 胸乳(むなぢ)も露(あら)わ

 よすがなき われは戯女(たわれめ)

 

せつなきに 泣きも得せずて

 この日頃 闇(やみ)を孕(はら)めり

遐(とお)き空 線条(せんじょう)に鳴る

 海峡岸 冬の暁風(ぎょうふう)

 

白薔薇(しろばら)の 造花の花弁(かべん)

 凍(い)てつきて 心もあらず

明けき日の 乙女の集(つど)い

 それらみな ふるのわが友

 

偏菱形(へんりょうけい)=聚接面(しゅうせつめん)そも

 胡弓(こきゅう)の音(ね) つづきてきこゆ

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えてあります。)

 

 

今回はここまで。

中原中也・詩の宝島/ランボー初体験/上田敏訳「酔いどれ船」を筆写




「ノート1924」には

1924年に制作された

ダダイズムの詩ばかりが記されてあるのではなく

ダダを脱皮する過程の詩が記されてあるのを見てきました。

 

昭和2、3年(1927、28年)に計画され

陽の目を見なかった第1詩集のための詩篇群がそれでした。

 

「ノート1924」でもう一つ注目されるのは

上田敏訳「酔ひどれ船(未定稿)」の筆写です。

 

 

中原中也が

アルチュール・ランボーの作品に

初めて接したのが「酔ひどれ船」であったか

ほかの作品であったか

京都滞在中の富永太郎を通じてであることは

広く知られたことです。

 

中也自身が「詩的履歴書」に、

大正13年夏富永太郎京都に来て、彼より仏国詩人等の存在を学ぶ

――と記していることもよく知られています。

 

 

上田敏訳の「酔ひどれ船(未定稿)」は

大正12年(1923年)発行の「上田敏詩集」に収録されてあり

これを中原中也はわかっているだけで3回筆写しています。

1回目が「ノート1924」に記されたものです。

 

フランス語の学習をはじめる前のことですから

翻訳を読む以外にありませんでした。

 

富永太郎が自らつけていた詩帖には

原文での筆写があり

中也は富永のフランス語の朗読を聞かされたそうです。

(佐々木幹郎「沈黙の音楽」。)

 

 

上田敏の訳を読みましょう。

 

 

酔ひどれ船(未定稿)

             アルテュル・ランボオ

 

われ非情の大河を下り行くほどに

曳舟の綱手のさそひいつか無し。

喊(わめ)き罵る赤人等、水夫を裸に的にして

色鮮やかにゑどりたる杙(くひ)に結ひつけ射止めたり。

 

われいかでかかる船員に心残あらむ、

ゆけ、フラマンの小麦船、イギリスの綿船よ、

かの乗組の去りしより騒擾はたと止みければ、

大河はわれを思ひのままに下り行かしむ。

 

荒潮の哮(たけ)りどよめく波にゆられて、

冬さながらの吾心、幼児の脳よりなほ鈍く、

水のまにまに漾(ただよ)へば、陸を離れし半島も

かかる劇しき混沌に擾れしことや無かりけむ。

 

颶風はここにわが漂浪の目醒に祝別す、

身はコルクの栓より軽く波に跳りて、

永久にその牲(にへ)を転ばすといふ海の上に

うきねの十日(いくよ)、灯台の空(うつ)けたる眼は顧みず。

 

酸き林檎の果を小児等の吸ふよりも柔かく、

さみどりの水はわが松板の船に浸み透りて、

青みたる葡萄酒のしみを、吐瀉物のいろいろを

わが身より洗ひ、舵もうせぬ、錨もうせぬ。

 

これよりぞわれは星をちりばめ乳色にひたる

おほわたつみのうたに浴しつつ、

緑のそらいろを貪(むさぼ)りゆけば、其吃水(みづぎは)蒼ぐもる

物思はしげなる水死者の、愁然として下り行く。

 

また忽然として青海の色をかき乱し、

日のきらめきの其下に、もの狂ほしくはたゆるく、

つよき酒精にいやまさり、大きさ琴に歌ひえぬ

愛執のいと苦き朱(あか)みぞわきいづる。

 

われは知る、霹靂に砕くる天を、竜巻を、

寄波(よせなみ)を、潮ざゐを。また夕ぐれを知るなり。

白鳩のむれ立つ如き曙の色も知るなり。

人のえ知らぬ不思議をも偶(たま)には見たり。

 

神秘のおそれにくもる入日のかげ、

紫色の凝結にたなびきてかがよふも見たり。

古代の劇の俳優(わざをぎ)が歩んで進む姿なる

波のうねりの一列がをちにひれふるかしこさよ。

 

夜天の色の深(こ)みどりはましろの雪のまばゆくて

静かに流れ、眼にのぼるくちづけをさへゆめみたり。

世にためしなき霊液は大地にめぐりただよひて

歌ふが如き不知火の青に黄いろにめざむるを。

 

幾月もいくつきもヒステリの牛小舎に似たる

怒涛が暗礁に突撃するを見たり、

おろかや波はマリヤのまばゆきみあしの

いきだはしき大洋の口を箝(かん)し得ると知らずや。

 

君見ずや、世にふしぎなるフロリダ州、

花には豹の眼のひかり、人のはだには

手綱のごとく張りつめし虹あざやかに染みたるを、

また水天の間には海緑色のもののむれ。

 

海上の沸きたちかえへる底見ればひろき穽(わな)あり、

海草の足にかわみて腐爛するレヰ゛ヤタン、

無風(なぎ)のもなかに大水はながれそそぎて、

をちかたの海はふち瀬に瀧となる。

 

氷河、銀色の大陽、真珠の波、炭火の空、

鳶色の入江の底にものすごき破船のあとよ、

そこには蟲にくはれたるうはばみのあり、

黒き香に、よぢくねりたる木の枝よりころがり落つ。

 

をさなごに見せまほし、青波にうかびゐる

鯛の族(ぞう)、黄金(こがね)の魚(いろ)くづ、歌へるいさな。

花と散る波のしぶきは漂流を祝ひ、

えも言へぬ風、時々に、われをあふれり。

 

時としては地極と地帯の旅にあきたる殉教者、

吐息をついてわが漂浪を楽しくしながら、

海は、われに黄色の吸盤をもてる影の花をうかぶ、

その時われは跪く女のごとくなり。

 

半島のわが舷(ふなべり)の上に投げ落すものは、

亜麻いろの眼をしたる怪鳥の争、怪鳥の糞、

かくて波のまにまに浮き行く時、わが細綱をよこぎりて、

水死の人はのけざまに眠にくだる……

 

入江の底の丈長髪(たけなががみ)に道迷ふわれは小舟ぞ、

あらし颶風によつて鳥もゐぬ空に投げられ、

甲鉄船(モニトル)もハンザの帆船も

水に酔ひたるわがむくろ、いかでひろはむ。

 

思ひのままに、煙ふきて、むらさき色の霧立てて、

天をもとほすわが舟よ、空の赤きは壁のごと、

詩人先生にはあつらへの名句とも

大陽の蘚苔(こけ)あり、青海の鼻涕(はな)あり。

 

エレキの光る星をあび、黒き海馬の護衛にて、

くるひただよう板小舟、それ七月は

杖ふりて燃ゆる漏斗のかたちせる

瑠璃いろの天をこぼつころ。

 

五十里のあなた、うめき泣く

河馬と鳴門の渦の発情(さかり)をききて慄(ふる)へたるわれ、

嗚呼、青き不動を永久に紡ぐもの、

昔ながらの壁にゐる欧羅巴こそかなしけれ。

 

星てる群島、島々、その狂ほしく美はしき

空はただよふもののためにひらかる、

そもこの良夜(あたらよ)の間に爾はねむり、遠のくか。

紫摩金鳥の幾百万、ああ当来の勢力(せいりき)よ。

 

しかはあれども、われはあまりに哭きたり、あけぼのはなやまし、

月かげはすべていとはし、日はすべてにがし、

切なる恋に酔ひしれてわれは泣くなり、

竜骨よ、千々に砕けよ、われは海に死なむ。

 

もしわれ欧羅巴の水を望むとすれば、

そは冷ややかに黒き沼なり、かぐはしき夕まぐれ、

うれひに沈むをさな児が、腹つくばひてその上に

五月の蝶にさながらの笹舟を流す。

 

ああ波よ、一たび汝れが倦怠にうかんでは

綿船の水脈(みを)ひくあとを奪ひもならず、

旗と炎の驕慢を妨げもならず、

また逐船(おひぶね)の恐しき眼の下におよぎもえせじ。

 

(岩波文庫「上田敏全訳詩集」山内義雄、矢野峰人編より。 新漢字に改めてあります。編者。)

 

 

今回はここまで。

2018年3月17日 (土)

中原中也・詩の宝島/「ノート1924」ダダ脱皮の道・続続続続/「無題(緋のいろに)」



昭和2、3年(1927、28年)ごろに計画され

結局は陽の目を見なかった詩集のために作られた詩篇が

「ノート1924」の末尾に書かれてあり

その詩篇を読んできましたが

最後の作品になります。

 

 

無 題

 

緋(ひ)のいろに心はなごみ

蠣殻(かきがら)の疲れ休まる

 

金色の胸綬(コルセット)して

町を行く細き町行く

 

死の神の黒き涙腺(るいせん)

美しき芥(あくた)もみたり

 

自らを恕(ゆる)す心の

展(ひろが)りに女を据(す)えぬ

 

緋の色に心休まる

あきらめの閃(ひらめ)きをみる

 

静けさを罪と心得(こころえ)

きざむこと善(よ)しと心得

 

明らけき土の光に

浮揚する

   蜻蛉となりぬ

 

(「新編中原中也全集」第2巻・詩Ⅱより。新かなに変えてあります。)

 

 

心はなごみ、とあり

心休まる、とある緋のいろ(色)は

おそらく遊女がはおる着物のことでしょう。

 

詩人は折々に

横浜の娼婦の街へ遊んだことが知られています。

 

名作「むなしさ」は

この詩の書かれたころに作られました。

 

心なごみ、心休まる場所で

横浜の街はあったのです。







女性たちの着る緋色の衣装が

いつしか赤とんぼの緋に成り代わる最終行が

見事です!



横浜のその土地(明るい土)の光に溶け込んで

詩人は空に浮んでいる蜻蛉(あきつ又はトンボ)になったのでした。

 

 

今回はここまで。

2018年3月16日 (金)

中原中也・詩の宝島/「ノート1924」ダダ脱皮の道・続続続/「秋の日」

 

続けて「ノート1924」に書かれ

幻に終わった第1詩集のための詩篇を読みます。

 

秋は

泰子との別れの傷跡が刻まれた

特別な季節です。

 

 

秋の日

 

秋の日は 白き物音

むきだせる 舗石(ほせき)の上に

人の目の 落ち去りゆきし

ああ すぎし 秋の日の夢

 

空にゆき 人群(ひとむれ)に分け

いまここに たどりも着ける

老の眼の 毒ある訝(いぶか)り

黒き石 興(きょう)をおさめて

 

ああ いかに すごしゆかんかな

乾きたる 砂金は頸(くび)を

めぐりてぞ 悲しきつつましさ

 

涙腺(るいせん)をみてぞ 静かに

あきらめに しりごむきょうを

ああ天に 神はみてもある

 

(「新編中原中也全集」第2巻・詩Ⅱより。新かなに変えてあります。)

 

 

忘れるつもりでお酒を飲みにゆき、帰って来てひざに手を置く。

――と前作(かつては私も)で

一人、祈る姿勢をとった詩人。

 

この詩には

神が現れます。

 

 

この詩は完成稿です。

文語57調のソネット、

分かち書き

……などと定型への意志はいよいよくっきりし

ダダの言葉遣いもほとんど消えています。

 

「朝の歌」に

詩人はかなり近くにいるようです

技法の上で。

 

 

今回はここまで。

2018年3月15日 (木)

中原中也・詩の宝島/「ノート1924」ダダ脱皮の道・続続/(かつては私も)





(秋の日を歩み疲れて)の最終行に

夢のものうさ

――とあるのは

やがて「汚れっちまった悲しみに……」の

倦怠(けだい)のうちに死を夢む

――につながっていくものでしょう。

 

それを思うと

胸がゾクゾク騒ぎ出します。

 

そして……。

 

3つ前の作「浮浪歌」で歌われた

アストラカンの肩掛が

「汚れっちまった悲しみに……」の

狐の革裘(かわごろも)へと繋がっていくのに息を飲みます。

 

 

昭和2、3年ごろに計画され

幻に終わった第1詩集のための詩篇で

「ノート1924」に記された詩篇を

さらに続けて読みましょう。

 

 

(かつては私も)

 

かつては私も

何にも後悔したことはなかった

まことにたのもしい自尊(じそん)のある時

人の生命(いのち)は無限であった

 

けれどもいまは何もかも失った

いと苦しい程多量であった

まことの愛が

いまは自ら疑怪(ぎかい)なくらいくるめく夢で

 

偶性(ぐうせい)と半端(はんぱ)と木質(もくしつ)の上に

悲しげにボヘミヤンよろしくと

ゆっくりお世辞笑いも出来る

 

愛するがために

悪弁(あくべん)であった昔よいまはどうなったか

忘れるつもりでお酒を飲みにゆき、帰って来てひざに手を置く。

 

(「新編中原中也全集」第2巻・詩Ⅱより。新かなに変えてあります。)

 

 

泰子を失った苦しみを

もろに歌った詩です。

 

 

「浮浪歌」のややお道化た調子がここにはなく

けれどもいまは何もかも失った

――と慚愧(ざんき)の気持ちをあけすけに歌います。

 

かつては何にも後悔したことなどなかった。

 

苦しいほど多量にあった愛は

いまは疑うほどクラクラする夢の夢。

 

……。

 

愛するがゆえに

悪態もついた昔はどこへいってしまった。

 

忘れるために酒を飲みに行き

帰ればひとり

膝に手を置き……。

 

祈ります。

 

 

未完成詩ですが

ソネットの形を維持しています。

 

第3連、

偶性(ぐうせい)と半端(はんぱ)と木質(もくしつ)の上に

――にダダの尻尾(しっぽ)がのぞきます。

 

 

今回はここまで。

中原中也・詩の宝島/「ノート1924」ダダ脱皮の道・続/(秋の日を歩み疲れて)

 

幻の第1詩集のための草稿詩篇を

つづけて読みましょう。

 

(秋の日を歩み疲れて)は

完成稿ではなく

題名もつけられていない下書き稿ですから

( )の中に詩の第1行を記す習わしです。

 

 

(秋の日を歩み疲れて)

 

秋の日を歩み疲れて

橋上を通りかかれば

秋の草 金にねむりて

草分ける 足音をみる

 

忍従(にんじゅう)の 君は默(もく)せし

われはまた 叫びもしたり

川果(かわはて)の 灰に光りて

感興(かんきょう)は 唾液(だえき)に消さる

 

人の呼気(こき) われもすいつつ

ひとみしり する子のまなこ

腰曲げて 走りゆきたり

 

台所暗き夕暮

新しき生木(なまき)の かおり

われはまた 夢のものうさ

 

(「新編中原中也全集」第2巻・詩Ⅱより。新かなに変えてあります。)

 

 

この詩にも幾つか

ダダ脱皮が試みられています。

 

4行-4行-3行-3行のソネット

5音7音の57調

文語

そして、分かち書き(行を句ごとに空白で分けて書く詩の方法)。

 

 

忍従(にんじゅう)の 君は默(もく)せし

われはまた 叫びもしたり

――の「君」は泰子で

「われ」は詩人のようです。

 

ならば

京都の匂いがしないでもないですが……。

 

台所暗き夕暮

新しき生木(なまき)の かおり

われはまた 夢のものうさ

――は泰子の新生活を垣間見た詩人のこころの内でしょうか。

 

それが

「夢のものうさ」と吐露(とろ)されているのならば

ハッとせざるをえません。

 

 

今回はここまで。

中原中也・詩の宝島/「ノート1924」ダダ脱皮の道/「涙語」「無題(ああ雲は)」

「涙語」は
ダダ脱皮の意図があっても
ダダ脱皮が完全に行われた詩ではありませんね。

まづいビフテキ
寒い夜
――の冒頭の75調で
定型を目指しますが

澱粉(でんぷん)過剰の胃にたいし
この明滅燈の分析的なこと!
――の言葉遣いは
ダダの尻尾(しっぽ)が見えます。

生活の肩掛とある「肩掛」は
前作「浮浪歌」の「アストラカンの肩掛」に
まっすぐにつながっています。

つづけて「ノート1924」にある
幻の第1詩集のための詩篇を読みましょう。

無 題
 
ああ雲はさかしらに笑い
さかしらに笑い
この農夫 愚(おろ)かなること
小石々々
エゴイストなり
この農夫 ためいきつくこと

しかすがに 結局のとこ
この空は 胸なる空は
農夫にも 遠き家にも
誠意あり
誠意あるとよ

すぎし日や胸のつかれや
びろうどの少女みずもがな
腕をあげ 握りたるもの
放すとよ 地平のうらに

心籠(こ)め このこと果(はて)し
あなたより 白き虹より
道を選び道を選びて
それからよ芥箱(ごみばこ)の蓋

(「新編中原中也全集」第2巻・詩Ⅱより。新かなに変えてあります。)

こちらの「びろうどの少女」は
泰子でしょうね。

「浮浪歌」も
「涙語」も
この詩「無題(ああ雲は)」も
みんな長谷川泰子を歌っているのに気づきます。

今回はここまで。

2018年3月14日 (水)

中原中也・詩の宝島/ダダ脱皮の道/「ノート1924」の背景

「ノート1924」は
使われているノートに1924の印字があることから
編者がつけた仮称です。

角川全集の初期から呼ばれていたか
もっと前からの習慣か
仮称が定着しました。

1924とあるから
中に書かれたものが
すべて1924年に記されたものかというと
そうではありません。

ノートの終りの部分に
昭和2、3年頃に計画された
第1詩集のための草稿と推定されている詩篇が存在します。

この草稿のうちわけは
「浮浪歌」
「涙語」
「無題(ああ雲はさかしらに笑い)」
(秋の日をあゆみ疲れて)
(かつては私も)
「秋の日」
「無題(緋のいろに心はなごみ)」
――の7篇です。
(「 」は清書稿、( )は下書き稿。)

これら7篇が
ダダイズムの詩を脱皮した詩風を示しているのは
まずは富永太郎との交友関係の影響と見なされていることですが
これは富永が作った詩の影響であるばかりではなく
富永が小林秀雄とともに熱中していたランボーの存在がありました。

背景にランボーという事件があったのですが
詩境や詩風の変化は
そればかりでなく
富永太郎の死や
長谷川泰子との離別(11月の事件)や
小林秀雄、長谷川泰子との「奇怪な三角関係」(小林秀雄)の進行にも促されました。



7篇の中の1篇を読んでおきましょう。



涙 語

まずいビフテキ
寒い夜
澱粉(でんぷん)過剰の胃にたいし
この明滅燈の分析的なこと!

あれあの星というものは
地球と人との様(さま)により
新古自在(しんこじざい)に見えるもの

とおい昔の星だって
いまの私になじめばよい

私の意志の尽きるまで
あれはああして待ってるつもり

私はそれをよく知ってるが
遂々のとこははむかっても
ここのところを親しめば
神様への奉仕となるばかりの
愛でもがそこですまされるというもの

この生活の肩掛(かたかけ)や
この生活の相談が
みんな私に叛(そむ)きます
なんと藁紙(わらがみ)の熟考よ

私はそれを悲しみます
それでも明日は元気です

(新編中原中也全集」第2巻・詩Ⅱより。新かなに変えてあります。)

今回はここまで。

2018年3月12日 (月)

中原中也・詩の宝島/「羊」への愛着/「初恋集 むつよ」

 

テキスト(作品)の外部の言葉として

もう一つ。

 

中原中也と山羊の関わりについて

中原家の4男、思郎(中也は長男)が書き残すのは

父、謙助が実際に飼っていた山羊のことです。


 

① 中也の父謙助は、湯田医院長のとき山羊を飼った。牡牝2頭。飼った当初は、小枝のよ

うな角が突き出ていたが、日が経つにつれて角は太くなり後ろに曲ってきた。やがて牝が

妊娠し2頭の仔山羊を産んだ。

中也たちは分娩の現場を目撃し、溢れる羊水と、ブラリと垂れ下がった胎盤に衝撃を受け

た。産後は悪く牝は死に、間もなく牡も何処かに消えた。

 

② 山羊健在の頃、中也たちは、近くの野原に山羊を連れていき、近所の子供たちに誇示

するかのように山羊に巻きついて戯れた。山羊は首をのばしてメーメーと鳴いた。

――などと「事典・中也詩と故郷」(「中原中也必携」学燈社、1979年)に記しました。

 

山羊を飼っていたころに

中也が山口中学を落第する事件がありました。

 

謙助の落胆は深刻で

これを機に湯田医院の衰微がはじまったそうです。

 

山羊の乳と牛の乳の栄養学的な比較研究と

入院患者へ羊乳を試飲させるサービスをかねた

医院の権威づけを意図したものでした。

 

山羊は

湯田医院の消長の象徴であったと

記したものでした。

 

 

中也本人が

これらのことを認識していなかったものとは思えませんから

山羊への思い入れは一入(ひとしお)であったことが想像できますね。

 

テキスト(詩作品)を離れた現実生活の

第1次資料として

これらの証言は貴重ですし

溜飲の下がる思いになります。

 

 

思郎はこれらの記述につづけて

「初恋集 むつよ」を案内しています。

 

なかに野羊が現われますから。

 

 

初恋集

 

むつよ

 

あなたは僕より年が一つ上で

あなたは何かと姉さんぶるのでしたが

実は僕のほうがしっかりしてると

僕は思っていたのでした

 

ほんに、思えば幼い恋でした

僕が十三で、あなたが十四だった。

その後、あなたは、僕を去ったが

僕は何時まで、あなたを思っていた……

 

それから暫(しばら)くしてからのこと、

野原に僕の家(うち)の野羊(やぎ)が放してあったのを

あなたは、それが家(うち)のだとしらずに、

それと、暫く遊んでいました

 

僕は背戸(せど)から、見ていたのでした。

僕がどんなに泣き笑いしたか、

野原の若草に、夕陽が斜めにあたって

それはそれは涙のような、きれいな夕方でそれはあった。 

(1935・1・11)

 

(「新編中原中也全集」第2巻・詩Ⅱより。新かなに変えてあります。)

 

 

今回はここまで。

2018年3月 9日 (金)

中原中也・詩の宝島/「山羊の歌」/トラゴイディア(悲劇)と「羊」への愛着

 

 

ギリシア悲劇を意味する「トラゴーイディアー」(ギリシア語: τραγδία)は、

「山羊」(ディオニューソスの象徴の1つ)を意味する「トラゴス」(ギリシャ語: τραγος, tragos)と、

「歌」を意味する「オーイデー」(ギリシャ語: δή, oide)の合成語であり、

「山羊の歌」の意味。

英語のtragedy等も、この語に由来する。

 

――Wikipedia

「ギリシア悲劇」をこのように概括(がいかつ)しています。

 

中原中也が

第1詩集「山羊の歌」に

このような含意を込めたかどうか断言はできませんが

羊への愛着は否定しようにありません。

 

 

ここで「山羊の歌」のネーミングについて

幾つかのエピソードを見ておきましょう。

 

詩人は

「山羊の歌」の由来について

記述することはありませんでしたが

口頭の証言が伝わっています。

 

そのうちの一つ。

 

大岡昇平が

中也の晩年の友人であり詩人である高森文夫に取材した話を

紹介しています。

 

 

その内容をまとめてみると

 中原中也は、第1詩集のタイトルを、校正の段階になっても、「山羊の歌」か「修羅街輓歌」かと迷い、高森文夫に相談した。

 中原中也は未年(ひつじどし)の生まれだったために、自分をおとなしい人間だと思いたがった。山羊と羊の違いは、角の有無にあり、山羊にしたのは、攻撃されれば抵抗するぞという意気込みを示した。

 「自分は顎が細く、耳が立っているから山羊だ」と、高森文夫に語ったことがある。

 マラルメの肖像を見て、親近感を表明した、とも高森に語ったという。

――ということです。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰ「解題篇」より。)

 

 

テキスト(作品)の外部の言葉ですが

なかなか説得力あるエピソードですね。

 

 

今回はここまで。

中原中也・詩の宝島/「幼獣の歌」の太古

ランボーの「太陽と肉体」と「フォーヌの頭」を読んだ後で

中原中也の「幼獣の歌」を読み直したくなるのは

唐突というものでしょうか。

 

「在りし日の歌」の13番目に

この詩が不意に現れる謎を

その度に通りすぎてきたものですが

ここでじっくりこの詩に向き合うのも

空想の果てには面白いことになりそうです。

 

 

幼獣の歌

 

黒い夜草深い野にあって、

一匹の獣(けもの)が火消壺(ひけしつぼ)の中で

燧石(ひうちいし)を打って、星を作った。

冬を混ぜる 風が鳴って。

 

獣はもはや、なんにも見なかった。

カスタニェットと月光のほか

目覚ますことなき星を抱いて、

壺の中には冒瀆(ぼうとく)を迎えて。

 

雨後らしく思い出は一塊(いっかい)となって

風と肩を組み、波を打った。

ああ なまめかしい物語――

奴隷(どれい)も王女と美しかれよ。

 

     卵殻(らんかく)もどきの貴公子の微笑と

     遅鈍(ちどん)な子供の白血球とは、

     それな獣を怖がらす。

 

黒い夜草深い野の中で、

一匹の獣の心は燻(くすぶ)る。

黒い夜草深い野の中で――――

太古(むかし)は、独語(どくご)も美しかった!……

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えてあります。)

 

 

この詩が

冒頭詩「含羞(はじらい)」の流れの中に現われ

太古をしのぶ

幼い獣のつぶやきのような歌であってみれば

それはアストラカンや古代の象へと

かすかにそして強く響き合っているように聞こえてきませんか?

 

 

黒い夜

草深い野

 

冬を混ぜる 

風が鳴って

 

風と肩を組み

波を打った

 

これらの自然は

太古のものですが

ここにパンやサチールやフォーヌが躍動していても

まったく矛盾しませんし

そこに奴隷や王女が登場する謎が

解(ほど)けてくるようです。

 

 

今回はここまで。

2018年3月 8日 (木)

中原中也・詩の宝島/「フォーヌの頭」の羊

 

 

サチールや

フォーヌや

パンが

羊のからだを持つ半人半獣の神であることを

指摘するまでもありませんが

ランボーが「太陽と肉体」を書いたときに

「羊」を格別に意識していたかどうか。

 

ランボーが意識していなくても

中原中也はどうであったかといえば

やはり、相当に特別な関心を抱いていたであろうことは

終生にわたる「羊」へのこだわりの跡を見れば

わかろうというものです。

 

第1詩集「山羊の歌」という詩集タイトル一つが

「羊」へのこだわりから生まれていることを

ここでは想起しておきましょう。

 

アストラカンも

そのこだわりの一つですし。

 

 

さて、中也の羊へのこだわりは

どこから生まれたのでしょうか。

 

フォーヌが「太陽と肉体」に現われたところで

ランボーの詩「フォーヌの頭」に

目を向けておきましょう。


ここにヒントはあります。

 

 

フォーヌの頭

 

緑金に光る葉繁みの中に、

接唇(くちづけ)が眠る大きい花咲く

けぶるがような葉繁みの中に

活々として、佳き刺繍(ぬいとり)をだいなしにして

 

ふらふらフォーヌが二つの目を出し

その皓(しろ)い歯で真紅(まっか)な花を咬んでいる。

古酒と血に染み、朱(あけ)に浸され、

その唇は笑いに開く、枝々の下。

 

と、逃げ隠れた――まるで栗鼠(りす)、――

彼の笑いはまだ葉に揺らぎ

鷽(うそ)のいて、沈思の森の金の接唇(くちづけ)

掻きさやがすを、われは見る。

 

(「新編中原中也全集」第3巻・翻訳より。新かなに変えてあります。)

 

 

ランボーの原作に圧倒されますが

中原中也の翻訳も絶品ですね。

 

緑金に光る葉繁み

――という書き出しの1フレーズからして

息を飲まされる輝かしさではありませんか!

 

古酒と血に染み、朱(あけ)に浸され、

その唇は笑いに開く、枝々の下。

――というあたりには

ゾクゾクさせるものがありますね。

 

牧神の昼下がり

否、夜の景色でしょうか。

 

これらのわくわくする描写と

フォーヌをランボーが扱った動機とは

強く直結する重大な問題です。

 

それは

フリードリッヒ・ニーチェが「悲劇の誕生」で

サチール(サチュルス)合唱団に着目したのに似た

ランボーのこだわりに違いありません。

 

 

今回はここまで。

2018年3月 6日 (火)

中原中也・詩の宝島/「太陽と肉体」の半獣神たち

 

 

ヴィーナス

サチール

フォーヌ

ニンフ

パン

シベール

アスタルテ

アフロデテ

エロス

カリピイジュ

アリアドネ

テーゼ

リジアス、

ゼウス

ユウロペ

ヘラクレス

ドリアード

セレネー

エンデミオン

……。

 

「太陽と肉体」に登場する神々もしくは英雄を拾うと

このようなラインアップになります。

 

ランボーはこの詩で

古代ギリシアの神々への讃歌を歌い

キリスト教の異教である世界を追惜したということになっています。

 

アンチクリストの詩ということですが

ここではそのことが問題なのではありません。

 

詩の冒頭部に現われる

次の下りに目を凝(こ)らします――。

 

 

若々しい古代の時を、放逸な半人半山羊神(サチール)たちを。
獣的な田野の神々(フォーヌ)を私は追惜します、


愛の小枝の樹皮をば齧(かじ)り、
金髪ニンフを埃及蓮(はす)の中にて、接唇しました彼等です。


地球の生気や河川の流れ、
樹々の血潮(ちしお)が仄紅(ほのくれない)に
牧羊神(パン)の血潮と交(まざ)り循(めぐ)った、かの頃を私は追惜します。

 

当時大地は牧羊神の、山羊足の下に胸ときめかし、
牧羊神が葦笛とれば、空のもと
愛の頌歌(しょうか)はほがらかに鳴渡ったものでした、


野に立って彼は、その笛に答える天地の
声々をきいていました。
黙(もだ)せる樹々も歌う小鳥に接唇(くちづけ)し、
大地は人に接唇し、海という海
生物という生物が神のごと、情けに篤いことでした。

 

(※改行を加え、文意をわかりやすくしました。編者。)

 

 

いわゆる、パンの時代。

 

自然と神々たちが融和し

自由奔放で

光と音楽に溢れた生気が躍動する世界。

 

その時代に活躍する

半人半山羊神(サチール)たち

獣的な田野の神々(フォーヌ)

牧羊神パン

金髪ニンフ

……。

 

とりわけ目を引くのが

ニンフ以外の

半人半獣の神々です。

 

中でも

羊族(属)の神々が

アストラカンのイメージへと連なっていきます。

 

 

今回はここまで。

 

2018年3月 5日 (月)

中原中也・詩の宝島/ランボー「太陽と肉体」の神々

 

アストラカンがはたして

古代ギリシアにつながるのでしょうか――。

 

空想に近いものですけれど

一つのかすかな手がかりは

ランボーの詩「太陽と肉体」にあります。

 

遠い迂回かも知れませんが

まずはこの詩を読んでみましょう。

 

 

中原中也の訳を

現代かな遣いに直して読みます。

 


太陽と肉体

太陽、この愛と生命の家郷は、
嬉々たる大地に熱愛を注ぐ。
我等谷間に寝そべっている時に、
大地は血を湧き肉を躍らす、
その大いな胸が人に激昂させられるのは
神が愛によって、女が肉によって激昂させられる如くで、
また大量の樹液や光、
あらゆる胚種を包蔵している。

一切成長、一切増進!


          おお美神(ヴィーナス)、おお女神!
若々しい古代の時を、放逸な半人半山羊神(サチール)たちを。
獣的な田野の神々(フォーヌ)を私は追惜します、
愛の小枝の樹皮をば齧(かじ)り、
金髪ニンフを埃及蓮(はす)の中にて、接唇しました彼等です。
地球の生気や河川の流れ、
樹々の血潮(ちしお)が仄紅(ほのくれない)に
牧羊神(パン)の血潮と交(まざ)り循(めぐ)った、かの頃を私は追惜します。
当時大地は牧羊神の、山羊足の下に胸ときめかし、
牧羊神が葦笛とれば、空のもと
愛の頌歌(しょうか)はほがらかに鳴渡ったものでした、
野に立って彼は、その笛に答える天地の
声々をきいていました。
黙(もだ)せる樹々も歌う小鳥に接唇(くちづけ)し、
大地は人に接唇し、海という海
生物という生物が神のごと、情けに篤いことでした。
壮観な市々(まちまち)の中を、青銅の車に乗って
見上げるように美しかったかのシベールが、
走り廻っていたという時代を私は追惜します。
乳房ゆたかなその胸は顥気(こうき)の中に
不死の命の霊液をそそいでいました。
『人の子』は吸ったものです、よろこんでその乳房をば、
子供のように、膝にあがって。
だが『人の子』は強かったので、貞潔で、温和でありました。

 

なさけないことに、今では彼は言うのです、俺は何でも知ってると、
そして、眼(め)をつぶり、耳を塞(ふさ)いで歩くのです。
それでいて『人の子』が今では王であり、
『人の子』が今では神なのです! 『愛』こそ神であるものを!
おお! 神々と男達との大いなる母、シベールよ、
そなたの乳房をもしも男が、今でも吸うのであったなら!
昔青波(せいは)の限りなき光のさ中に顕れ給い
浪かおる御神体、泡降りかかる
紅(とき)の臍(ほぞ)をば示現し給い、
森に鶯(うぐいす)、男の心に、愛を歌わせ給いたる
大いなる黒き瞳も誇りかのかの女神
アスタルテ、今も此の世におわしなば!

    Ⅱ

私は御身を信じます、聖なる母よ、
海のアフロデテよ!――他の神がその十字架に
我等を繋ぎ給いてより、御身への道のにがいこと!
肉、大理石、花、ヴィーナス、私は御身を信じます!
そうです、『人の子』は貧しく醜い、空のもとではほんとに貧しい、
彼は衣服を着けている、何故ならもはや貞潔でない、
何故なら至上の肉体を彼は汚してしまったのです、
気高いからだを汚いわざで
火に遇った木偶(でく)といじけさせました!
それでいて死の後までも、その蒼ざめた遺骸の中に
生きんとします、最初の美なぞもうないくせに!
そして御身が処女性を、ゆたかに賦与され、
神に似せてお造りなすったあの偶像、『女』は、
その哀れな魂を男に照らして貰ったおかげで
地下の牢から日の目を見るまで、
ゆるゆる暖められたおかげで、
おかげでもはや娼婦にゃなれぬ!
――奇妙な話! かくて世界は偉大なヴィーナスの
優しく聖なる御名(みな)に於て、ひややかに笑っている。

     Ⅲ

もしかの時代が帰りもしたらば! もしかの時代が帰りもしたらば!……
だって『人の子』の時代は過ぎた、『人の子』の役目は終った。
かの時代が帰りもしたらば、その日こそ、偶像壊(こぼ)つことにも疲れ、
彼は復活するでもあろう、あの神々から解き放たれて、
天に属する者の如く、諸天を吟味しだすであろう。
理想、砕くすべなき永遠の思想、
かの肉体(にく)に棲む神性は
昇現し、額の下にて燃えるであろう。
そして、あらゆる地域を探索する、彼を御身が見るだろう時、
諸々の古き軛(くびき)の侮蔑者にして、全ての恐怖に勝てる者、
御身は彼に聖・贖罪(しょくざい)を給うでしょう。
海の上にて荘厳に、輝く者たる御身はさて、
微笑みつつは無限の『愛』を、
世界の上に投ぜんと光臨されることでしょう。
世界は顫(ふる)えることでしょう、巨大な竪琴さながらに
かぐわしき、巨(おお)いな愛撫にぞくぞくしながら……

 

――世界は『愛』に渇(かつ)えています。御身よそれをお鎮め下さい、
おお肉体のみごとさよ! おお素晴らしいみごとさよ!
愛の来復、黎明(よあけ)の凱旋
神々も、英雄達も身を屈め、
エロスや真白のカリピイジュ
薔薇の吹雪にまよいつつ
足の下(もと)なる花々や、女達をば摘むでしょう!

    Ⅳ

おお偉大なるアリアドネ、おまえはおまえの悲しみを
海に投げ棄てたのだった、テーゼの船が
陽に燦いて、去ってゆくのを眺めつつ、
おお貞順なおまえであった、闇が傷めたおまえであった、
黒い葡萄で縁取った、金の車でリジアスが、
驃駻(ひょうかん)な虎や褐色の豹に牽かせてフリージアの
野をあちこちとさまよって、青い流に沿いながら
進んでゆけば仄暗(ほのぐら)い波も恥じ入るけはいです。
牡牛ゼウスはユウロペの裸かの身をば頸にのせ、
軽々とこそ揺すぶれば、波の中にて寒気(さむけ)する
ゼウスの丈夫なその頸(くび)に、白い腕(かいな)をユウロペは掛け、
ゼウスは彼女に送ります、悠然として秋波(ながしめ)を、
彼女はやさしい蒼ざめた自分の頬をゼウスの顔に
さしむけて眼(まなこ)を閉じて、彼女は死にます
神聖な接唇(ベーゼ)の只中に、波は音をば立ててます
その金色の泡沫(しわぶき)は、彼女の髪毛に花となる。
夾竹桃と饒舌(おしゃべり)な白蓮の間(あわい)をすべりゆく
夢みる大きい白鳥は、大変恋々(れんれん)しています、
その真っ白の羽をもてレダを胸には抱締めます、
さてヴィーナス様のお通りです、
めずらかな腰の丸みよ、反身(そりみ)になって
幅広の胸に黄金(こがね)をはれがましくも、
雪かと白いそのお腹(なか)には、まっ黒い苔が飾られて、
ヘラクレス、この調練師(ならして)は誇りかに、
獅(しし)の毛皮をゆたらかな五体に締めて、
恐(こわ)いうちにも優しい顔して、地平の方(かた)へと進みゆく!……
おぼろに照らす夏の月の、月の光に照らされて
立って夢みる裸身のもの
丈長髪(たけなががみ)も金に染み蒼ざめ重き波をなす
これぞ御存じドリアード、沈黙(しじま)の空を眺めいる……
苔も閃めく林間の空地(あきち)の中の其処にして、
肌も真白のセレネーは面帕(かつぎ)なびくにまかせつつ、
エンデミオンの足許(あしもと)に、怖ず怖ずとして、
蒼白い月の光のその中で一寸接唇(くちづけ)するのです……
泉は遐(とお)くで泣いてます うっとり和(なご)んで泣いてます……
甕(かめ)に肘をば突きまして、若くて綺麗な男をば
思っているのはかのニンフ、波もて彼を抱締める……
愛の微風は闇の中、通り過ぎます……
さてもめでたい森の中、大樹々々の凄さの中に、
立っているのは物言わぬ大理石像、神々の、
それの一つの御顔(おんかお)に鶯(うそ)は塒(ねぐら)を作り、
神々は耳傾けて、『人の子』と『終わりなき世』を案じ顔。
                                   (1870、5月)

 

(「新編中原中也全集」第3巻・翻訳より。神々の名を一部、現代通用語に改めました。編者。)

2018年3月 3日 (土)

中原中也・詩の宝島/「浮浪歌」のアストラカン

 

 

「ノート1924」には

 ダダイズムの詩。(大正13年制作推定)

 第1詩集に予定していた詩篇。(昭和2、3年制作推定)

 ランボー「酔ひどれ舟」の上田敏訳・未定稿の筆写。

――が記されています。

 

中也はこのノートの使用中に

長谷川泰子と同棲し(大正13年4月17日以降)

富永太郎(大正13年7月初旬に京都訪問)と知り合っています。
 
泰子とともに上京したのが
大正14年(1925年)3月10日、

小林秀雄を知ったのが同年4月、

富永太郎が死亡したのが同年11月、

この11月に泰子は中也と別れ小林と同棲しはじめます。
 

 

②の第1詩集というのは

昭和2、3年の頃に計画され

結局は陽の目をみなかった最初の詩集のことです。

 

この詩集のために

再びこのノートを使うことになって

最終頁から逆向きに

7篇の詩篇の清書稿と下書き稿が記されました。

 

これらの詩篇は

明らかにダダイズムではない制作手法で書かれていますから

「ノート1924」は

富永太郎を知ったことをきっかけに

ダダからの脱皮が図られた経緯が

歴然と明かされる資料になっているのです。

 

①に「古代土器の印象」はあり

②に「浮浪歌」があります。

 

 

浮浪歌

 

暗い山合(やまあい)、

簡単なことです、

つまり急いで帰れば

これから一時間というものの後には

すきやきやって湯にはいり

赤ン坊にはよだれかけ

それから床にはいれるのです

 

川は罪ないおはじき少女

なんのことかを知ってるが

こちらのつもりを知らないものとおんなじことに

後を見(み)後を見かえりゆく

アストラカンの肩掛(かたかけ)に

口角の出た叔父(おじ)につれられ

そんなにいってはいけませんいけません

 

あんなに空は額(ひたい)なもの

あなたははるかに葱(ねぎ)なもの

薄暗(うすぐら)はやがて中枢なもの

 

それではずるいあきらめか

天才様のいうとおり

 

崖が声出す声を出す。

おもえば真面目不真面目の

けじめ分たぬわれながら

こんなに暖い土色の

代証人の背(せな)の色

 

それ仕合せぞ偶然の、

されば最後に必然の

愛を受けたる御身(おみ)なるぞ

さっさと受けて、わすれっしゃい、

この時ばかりは例外と

あんまり堅固(けんこ)な世間様

私は不思議でございます

そんなに商売というものは

それはそういうもんですのが。

 

朝鮮料理屋がございます

目契(もっけい)ばかりで夜更(よふけ)まで

虹や夕陽のつもりでて、

 

あらゆる反動は傍径(ぼうけい)に入(い)り

そこで英雄になれるもの

 

(「新編中原中也全集」第2巻「詩Ⅱ」より。新かなに変えてあります。)

 

 

この詩の第1連冒頭の調子は非定型ですが

後半、

 

すきやきやって湯にはいり

赤ン坊にはよだれかけ

――には75のリズムが顔をだします。

 

そして、第2連以降は

ずっと75調の強い定型が保たれます。

 

それだけでも

ダダイズムの詩とは異なることがわかります。

 

 

ここではそういうことよりも

第2連のアストラカンの肩掛けに

息を飲んで惹きつけられます。

 

この肩掛けが泰子のものであるのにも注目されますが

アストラカンという語彙(ボキャブラリー)が現われることに

身を乗り出す姿勢になります。

 

 

クリストからアストラカンへ――。

 

うっすらと古代ギリシアへの道が

開けているような兆です。

 

 

今回はここまで。

 

2018年3月 2日 (金)

中原中也・詩の宝島/ジュピターからクリストへ/「古代土器の印象」の沙漠

 

 

古代ギリシアではないのですが

「ノート1924」の中で触れておかなくてはならない一つが

クリストの出てくる「古代土器の印象」です。

 

 

古代土器の印象

 

認識以前に書かれた詩――

沙漠(さばく)のただ中で

私は土人(どじん)に訊(たず)ねました

「クリストの降誕(こうたん)した前日までに

カラカネの

歌を歌って旅人が

何人ここを通りましたか」

土人は何にも答えないで

遠い沙丘(さきゅう)の上の

足跡をみていました

 

泣くも笑うも此(こ)の時ぞ

此の時ぞ

泣くも笑うも

 

(「新編中原中也全集」第2巻「詩Ⅱ」より。新かなに変えてあります。)

 

 

この詩のタイトルに

古代が現われることにまず惹かれますが

古代土器と熟しては

ガーンとぶっ飛ばされて

たちまちダダの世界へ投げ出されるということになり

飛ばされたところが

クリストが生誕したあたりの沙漠ということになり

今度はポカンとなる格好です。

 

沙漠の中でそして

私が土人にものを尋ねるという設定が

どんな寓喩(ぐうゆ)を示しているのか

これだけでは絞り切れませんが

クリストの降誕、そしてその前日という限定

さらにはカラカネの歌へと私の問いがフォーカスしていくとき

このカラカネという意味不明な語彙は

どこかで聞いた覚えのあるような存在になっています。

 

この沙漠は

オリエントの沙漠ですし

カラカネのカラが唐であるのなら

この詩はいっそう近づいてきます。

 

この近づいてくるものが

古代土器の喩(印象)へと結びついてゆきますね。

 

 

長谷川泰子との愛の暮らしが

破綻に瀕していたのか

それとも愛憎劇は頂点にさしかかっていたというべきなのか

この暮らしの中から生まれた「ノート1924」の詩篇は

ほとんどが恋愛詩の様相を見せるのですから

この詩「古代土器の印象」も

その流れのなかに読んだほうがよいのかもしれません。

 

よいかもしれないのですが

この詩の声調には

ダダイストらしからぬ

どこかさめざめとした響きが漂っているのはなぜでしょう。

 

それは

どこからやってくるものでしょうか。

 

泰子との暮らしに

反省の姿勢を示したからとも考えられますが。

 

 

ダダイスト中也が

ダダイストである以前から貯めていた

原初の、あるいは認識以前の原形的思考みたいなものが

土器としてぬっくとこの詩に現われたと見るのは

無謀というものでしょうか。

 

富永太郎が差し出したランボーの詩篇に

中也は自らの中に無意識にあたためていた

この原形的思考(=詩の元)を引き出された――。

 

一種のリアクションであったのではないか。

 

 

今回はここまで。

« 2018年2月 | トップページ | 2018年4月 »