中原中也・詩の宝島/「秋の愁嘆」ダダ脱皮の途上で/富永太郎「秋の悲歎」への反歌
一つの詩が
ある他の詩(の詩語・詩句・詩行)に触発されて作られるケースは
いくらでもあることです。
詩人は
自分以外の詩人の詩に
貪欲な関心(好奇心)を抱き
楽しもうとしたり
味わおうとしたり
ヒントを見つけたり
糧(かて)としたり
学ぼうとしたり
盗もうとしたり
らんらんと目を輝かせていることでしょうから。
中也は
宮沢賢治の詩集「春の修羅」に出合う少し前に
富永太郎を知りました。
絵を描きながら
詩を書いていた富永に
フランス詩人の動きを学び
上京を決意します。
◇
富永太郎の詩を読んでみましょう。
原詩とともに
現代かな遣いに直したものも掲出します。
◇
秋の悲歎
私は透明な秋の薄暮の中に墜ちる。戦慄は去つた。道路のあらゆる直線が甦る。あれら
のこんもりとした貪婪な樹々さへも闇を招いてはゐない。
私はたゞ微かに煙を挙げる私のパイプによつてのみ生きる。あの、ほつそりとした白陶土
製のかの女の頸に、私は千の静かな接吻をも惜しみはしない。今はあの銅色(あかゞね)の
空を蓋ふ公孫樹の葉の、光沢のない非道な存在をも赦さう。オールドローズのおかつぱさ
んは埃も立てずに土塀に沿つて行くのだが、もうそんな後姿も要りはしない。風よ、街上に
光るあの白痰を掻き乱してくれるな。
私は炊煙の立ち騰る都会を夢みはしない――土瀝青(チヤン)色の疲れた空に炊煙の立
ち騰る都会などを。今年はみんな松茸を食つたかしら、私は知らない。多分柿ぐらゐは食
へたのだらうか、それも知らない。黒猫と共に坐る残虐が常に私の習ひであつた……
夕暮、私は立ち去つたかの女の残像と友である。天の方に立ち騰るかの女の胸の襞(ひだ)
を、夢のやうに萎れたかの女の肩の襞を私は昔のやうにいとほしむ。だが、かの女の髪の
中に挿し入つた私の指は、昔私の心の支へであつた、あの全能の暗黒の粘状体に触れる
ことがない。私たちは煙になつてしまつたのだらうか? 私はあまりに硬い、あまりに透明
な秋の空気を憎まうか?
繁みの中に坐らう。枝々の鋭角の黒みから生れ出る、かの「虚無」の性相(フイジオグノ
ミー)をさへ点検しないで済む怖ろしい怠惰が、今私には許されてある。今は降り行くべき
時だ――金属や蜘蛛の巣や瞳孔の栄える、あらゆる悲惨の市(いち)にまで。私には舵は
要らない。街燈に薄光るあの枯芝生の斜面に身を委せよう。それといつも変らぬ角度を保
つ、錫箔のやうな池の水面を愛しよう……私は私自身を救助しよう。
(思潮社、現代詩文庫「富永太郎詩集」、1975年より。ルビは( )で示しました。編者。)
◇
秋の悲歎
私は透明な秋の薄暮の中に墜ちる。戦慄は去った。道路のあらゆる直線が甦る。あれら
のこんもりとした貪婪な樹々さえも闇を招いてはいない。
私はただ微かに煙を挙げる私のパイプによってのみ生きる。あの、ほっそりとした白陶土
製のかの女の頸に、私は千の静かな接吻をも惜しみはしない。今はあの銅色(あかがね)
の空を蓋う公孫樹の葉の、光沢のない非道な存在をも赦そう。オールドローズのおかっぱ
さんは埃も立てずに土塀に沿って行くのだが、もうそんな後姿も要りはしない。風よ、街上
に光るあの白痰を掻き乱してくれるな。
私は炊煙の立ち騰る都会を夢みはしない――土瀝青(チヤン)色の疲れた空に炊煙の立
ち騰る都会などを。今年はみんな松茸を食ったかしら、私は知らない。多分柿ぐらいは食
えたのだろうか、それも知らない。黒猫と共に坐る残虐が常に私の習いであった……
夕暮、私は立ち去ったかの女の残像と友である。天の方に立ち騰るかの女の胸の襞(ひ
だ)を、夢のように萎れたかの女の肩の襞を私は昔のようにいとおしむ。だが、かの女の髪
の中に挿し入った私の指は、昔私の心の支えであった、あの全能の暗黒の粘状体に触れ
ることがない。私たちは煙になってしまったのだろうか? 私はあまりに硬い、あまりに透
明な秋の空気を憎もうか?
繁みの中に坐ろう。枝々の鋭角の黒みから生れ出る、かの「虚無」の性相(フィジオグノ
ミー)をさえ点検しないで済む怖ろしい怠惰が、今私には許されてある。今は降り行くべき
時だ――金属や蜘蛛の巣や瞳孔の栄える、あらゆる悲惨の市(いち)にまで。私には舵は
要らない。街燈に薄光るあの枯芝生の斜面に身を委せよう。それといつも変らぬ角度を保
つ、錫箔のような池の水面を愛しよう……私は私自身を救助しよう。
◇
中に
ほっそりとした白陶土製のかの女
――とあるのは
仙台滞在中の富永太郎が恋した人妻を指しているでしょう。
死期のせまった詩人に
いまだその傷跡は癒えていません。
そして
その「かの女」が「彼女」でないのは
中也の詩「かの女」につながるものでしょうか。
大正期に一般的な使い方だったのでしょうか。
◇
このような硬質の文体は
高踏的と評されるようですが
中原中也はこの詩に対する反歌のような詩「秋の愁嘆」を作ります。
◇
今回はここまで。
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