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2018年3月23日 (金)

中原中也・詩の宝島/「秋の愁嘆」ダダ脱皮の途上で/富永太郎「秋の悲歎」への反歌

 


一つの詩が

ある他の詩(の詩語・詩句・詩行)に触発されて作られるケースは

いくらでもあることです。

 

詩人は

自分以外の詩人の詩に

貪欲な関心(好奇心)を抱き

楽しもうとしたり

味わおうとしたり

ヒントを見つけたり

糧(かて)としたり

学ぼうとしたり

盗もうとしたり

らんらんと目を輝かせていることでしょうから。

 

中也は

宮沢賢治の詩集「春の修羅」に出合う少し前に

富永太郎を知りました。

 

絵を描きながら

詩を書いていた富永に

フランス詩人の動きを学び

上京を決意します。

 

 

富永太郎の詩を読んでみましょう。

 

原詩とともに

現代かな遣いに直したものも掲出します。

 

 

秋の悲歎

 

 私は透明な秋の薄暮の中に墜ちる。戦慄は去つた。道路のあらゆる直線が甦る。あれら

のこんもりとした貪婪な樹々さへも闇を招いてはゐない。

 私はたゞ微かに煙を挙げる私のパイプによつてのみ生きる。あの、ほつそりとした白陶土

製のかの女の頸に、私は千の静かな接吻をも惜しみはしない。今はあの銅色(あかゞね)の

空を蓋ふ公孫樹の葉の、光沢のない非道な存在をも赦さう。オールドローズのおかつぱさ

んは埃も立てずに土塀に沿つて行くのだが、もうそんな後姿も要りはしない。風よ、街上に

光るあの白痰を掻き乱してくれるな。

 私は炊煙の立ち騰る都会を夢みはしない――土瀝青(チヤン)色の疲れた空に炊煙の立

ち騰る都会などを。今年はみんな松茸を食つたかしら、私は知らない。多分柿ぐらゐは食

へたのだらうか、それも知らない。黒猫と共に坐る残虐が常に私の習ひであつた……

 夕暮、私は立ち去つたかの女の残像と友である。天の方に立ち騰るかの女の胸の襞(ひだ)

を、夢のやうに萎れたかの女の肩の襞を私は昔のやうにいとほしむ。だが、かの女の髪の

中に挿し入つた私の指は、昔私の心の支へであつた、あの全能の暗黒の粘状体に触れる

ことがない。私たちは煙になつてしまつたのだらうか? 私はあまりに硬い、あまりに透明

な秋の空気を憎まうか?

 繁みの中に坐らう。枝々の鋭角の黒みから生れ出る、かの「虚無」の性相(フイジオグノ

ミー)をさへ点検しないで済む怖ろしい怠惰が、今私には許されてある。今は降り行くべき

時だ――金属や蜘蛛の巣や瞳孔の栄える、あらゆる悲惨の市(いち)にまで。私には舵は

要らない。街燈に薄光るあの枯芝生の斜面に身を委せよう。それといつも変らぬ角度を保

つ、錫箔のやうな池の水面を愛しよう……私は私自身を救助しよう。

 

(思潮社、現代詩文庫「富永太郎詩集」、1975年より。ルビは( )で示しました。編者。)

 

 

秋の悲歎

 

 私は透明な秋の薄暮の中に墜ちる。戦慄は去った。道路のあらゆる直線が甦る。あれら

のこんもりとした貪婪な樹々さえも闇を招いてはいない。

 私はただ微かに煙を挙げる私のパイプによってのみ生きる。あの、ほっそりとした白陶土

製のかの女の頸に、私は千の静かな接吻をも惜しみはしない。今はあの銅色(あかがね)

の空を蓋う公孫樹の葉の、光沢のない非道な存在をも赦そう。オールドローズのおかっぱ

さんは埃も立てずに土塀に沿って行くのだが、もうそんな後姿も要りはしない。風よ、街上

に光るあの白痰を掻き乱してくれるな。

 私は炊煙の立ち騰る都会を夢みはしない――土瀝青(チヤン)色の疲れた空に炊煙の立

ち騰る都会などを。今年はみんな松茸を食ったかしら、私は知らない。多分柿ぐらいは食

えたのだろうか、それも知らない。黒猫と共に坐る残虐が常に私の習いであった……

 夕暮、私は立ち去ったかの女の残像と友である。天の方に立ち騰るかの女の胸の襞(ひ

だ)を、夢のように萎れたかの女の肩の襞を私は昔のようにいとおしむ。だが、かの女の髪

の中に挿し入った私の指は、昔私の心の支えであった、あの全能の暗黒の粘状体に触れ

ることがない。私たちは煙になってしまったのだろうか? 私はあまりに硬い、あまりに透

明な秋の空気を憎もうか?

 繁みの中に坐ろう。枝々の鋭角の黒みから生れ出る、かの「虚無」の性相(フィジオグノ

ミー)をさえ点検しないで済む怖ろしい怠惰が、今私には許されてある。今は降り行くべき

時だ――金属や蜘蛛の巣や瞳孔の栄える、あらゆる悲惨の市(いち)にまで。私には舵は

要らない。街燈に薄光るあの枯芝生の斜面に身を委せよう。それといつも変らぬ角度を保

つ、錫箔のような池の水面を愛しよう……私は私自身を救助しよう。

 

 

中に

ほっそりとした白陶土製のかの女

――とあるのは

仙台滞在中の富永太郎が恋した人妻を指しているでしょう。

 

死期のせまった詩人に

いまだその傷跡は癒えていません。

 

そして

その「かの女」が「彼女」でないのは

中也の詩「かの女」につながるものでしょうか。

 

大正期に一般的な使い方だったのでしょうか。

 

 

このような硬質の文体は

高踏的と評されるようですが

中原中也はこの詩に対する反歌のような詩「秋の愁嘆」を作ります。

 



今回はここまで。

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