中原中也・詩の宝島/「秋の愁嘆」ダダ脱皮の途上で/富永太郎「秋の悲歎」のパロディー
◇
秋の愁嘆
ああ、秋が来た
眼に琺瑯(ほうろう)の涙沁(し)む。
ああ、秋が来た
胸に舞踏の終らぬうちに
もうまた秋が、おじゃったおじゃった。
野辺を 野辺を 畑を 町を
人達を蹂躪(じゅうりん)に秋がおじゃった。
その着る着物は寒冷紗(かんれいしゃ)
両手の先には 軽く冷い銀の玉
薄い横皺(よこじわ)平らなお顔で
笑えば籾殻(もみがら)かしゃかしゃと、
へちまのようにかすかすの
悪魔の伯父(おじ)さん、おじゃったおじゃった。
(一九二五・一〇・七)
(「新編中原中也全集」第2巻・詩Ⅱより。新かなに変えてあります。)
◇
大岡昇平はこの詩が
富永太郎の「秋の悲歎」の戯画化であることを推測しています。
あきらかにパロディーですが
「秋の悲歎」への返歌であり
競作であり
反歌であったのかもしれません。
意図がどうであれ
詩は
ダダっぽい道化調を残しながら
ダダを脱皮し
独自の詩世界に到達しているところに驚かされます。
◇
この詩の末尾に
制作日1925年10月7日とある日の
翌日の10月8日、
小林秀雄は長谷川泰子と忍びあい
伊豆大島への旅行に出る予定でしたが
待ち合わせ場所の品川駅に泰子は現れなかったため
一人で大島に出発したという事件がありました。
また、およそ1か月後の11月12日に
富永太郎が亡くなるという事態に
中也は衝撃を受けます。
長谷川泰子が小林秀雄と暮らしはじめるのは
11月下旬(推定)になりますが
その直前に泰子から離別を告げられるまで
中也は二人の間に進行する恋愛劇に気づかなかったそうです。
(「新編中原中也全集」第2巻・詩Ⅱ、「秋の愁嘆」解題篇。)
◇
詩(テキスト)の外で起こっている事実に
悪魔の伯父さんとあるのが
あまりにも符号していて
俄(にわ)かに信じがたい詩のリアリティーというものにも驚かされます。
◇
今回はここまで。
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