中原中也・詩の宝島/「フォーヌの頭」の羊
サチールや
フォーヌや
パンが
羊のからだを持つ半人半獣の神であることを
指摘するまでもありませんが
ランボーが「太陽と肉体」を書いたときに
「羊」を格別に意識していたかどうか。
ランボーが意識していなくても
中原中也はどうであったかといえば
やはり、相当に特別な関心を抱いていたであろうことは
終生にわたる「羊」へのこだわりの跡を見れば
わかろうというものです。
第1詩集「山羊の歌」という詩集タイトル一つが
「羊」へのこだわりから生まれていることを
ここでは想起しておきましょう。
アストラカンも
そのこだわりの一つですし。
◇
さて、中也の羊へのこだわりは
どこから生まれたのでしょうか。
フォーヌが「太陽と肉体」に現われたところで
ランボーの詩「フォーヌの頭」に
目を向けておきましょう。
ここにヒントはあります。
◇
フォーヌの頭
緑金に光る葉繁みの中に、
接唇(くちづけ)が眠る大きい花咲く
けぶるがような葉繁みの中に
活々として、佳き刺繍(ぬいとり)をだいなしにして
ふらふらフォーヌが二つの目を出し
その皓(しろ)い歯で真紅(まっか)な花を咬んでいる。
古酒と血に染み、朱(あけ)に浸され、
その唇は笑いに開く、枝々の下。
と、逃げ隠れた――まるで栗鼠(りす)、――
彼の笑いはまだ葉に揺らぎ
鷽(うそ)のいて、沈思の森の金の接唇(くちづけ)
掻きさやがすを、われは見る。
(「新編中原中也全集」第3巻・翻訳より。新かなに変えてあります。)
◇
ランボーの原作に圧倒されますが
中原中也の翻訳も絶品ですね。
緑金に光る葉繁み
――という書き出しの1フレーズからして
息を飲まされる輝かしさではありませんか!
古酒と血に染み、朱(あけ)に浸され、
その唇は笑いに開く、枝々の下。
――というあたりには
ゾクゾクさせるものがありますね。
牧神の昼下がり
否、夜の景色でしょうか。
これらのわくわくする描写と
フォーヌをランボーが扱った動機とは
強く直結する重大な問題です。
それは
フリードリッヒ・ニーチェが「悲劇の誕生」で
サチール(サチュルス)合唱団に着目したのに似た
ランボーのこだわりに違いありません。
◇
今回はここまで。
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