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2018年3月20日 (火)

中原中也・詩の宝島/東京漂流/「むなしさ」から「朝の歌」へ

東京漂流は

横浜の街にはじまりました。

 

「むなしさ」は

大正15年、というと、この年の末が昭和元年ですが

1926年の初め、2月の制作と推定されています。

 

 

むなしさ

 

臘祭(ろうさい)の夜の 巷(ちまた)に堕(お)ちて

 心臓はも 条網(じょうもう)に絡(から)み

脂(あぶら)ぎる 胸乳(むなぢ)も露(あら)わ

 よすがなき われは戯女(たわれめ)

 

せつなきに 泣きも得せずて

 この日頃 闇(やみ)を孕(はら)めり

遐(とお)き空 線条(せんじょう)に鳴る

 海峡岸 冬の暁風(ぎょうふう)

 

白薔薇(しろばら)の 造花の花弁(かべん)

 凍(い)てつきて 心もあらず

明けき日の 乙女の集(つど)い

 それらみな ふるのわが友

 

偏菱形(へんりょうけい)=聚接面(しゅうせつめん)そも

 胡弓(こきゅう)の音(ね) つづきてきこゆ

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えてあります。)

 

 

この詩に使われている

臘祭(ろうさい)や偏菱形(へんりょうけい)などの

難解で高踏的な漢語が

富永太郎や宮沢賢治らの影響であることや

白薔薇の比喩や

戯女を主語におく詩そのもののモチーフには

ベルレーヌの影響があることなどが

研究されています。

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰ「解題篇」。)

 

長い間何度も読んでいて

その指摘が理解できるようになりますが

これもダダイズムの詩からの脱皮を図ろうとする

詩人の格闘のあらわれの一つでした。

 

 

中原中也自らが

独創的なこの詩の世界を自負していたとしても

世間(周囲)の評価を得るには

しかし時間がかかることになりました。

 

それは

オリジナリティーというようなことかもしれませんし

ポピュラリティーというようなことかもしれませんし

現代詩のむずかしさというようなことかもしれません。

 

現在にいたっても

「朝の歌」の人気が

「むなしさ」への評価を上回っていることは

詩とは何かという遠大なテーマに関わっている大きな問題ですね。

 

 

自他ともに認める詩である「朝の歌」は

しかしすぐ手の届く距離にありました。

 

この年の夏には

「朝の歌」を完成します。

 

 

朝の歌

 

天井に 朱(あか)きいろいで

 戸の隙(すき)を 洩(も)れ入(い)る光、

鄙(ひな)びたる 軍楽(ぐんがく)の憶(おも)い

 手にてなす なにごともなし。

 

小鳥らの うたはきこえず

 空は今日 はなだ色らし、

倦(う)んじてし 人のこころを

 諫(いさ)めする なにものもなし。

 

樹脂の香(か)に 朝は悩まし

 うしないし さまざまのゆめ、

森竝(もりなみ)は 風に鳴るかな

 

ひろごりて たいらかの空、

 土手づたい きえてゆくかな

 うつくしき さまざまの夢。

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えてあります。)

 

 

「朝の歌」は

詩人自らもなんとか納得し

他者、とりわけ小林秀雄も認めざるを得なかった詩でした。

詩人は後年、「詩的履歴書」に、

大正15年5月、「朝の歌」を書く。7月頃小林に見せる。それが東京に来て詩を人に見せる

最初。つまり「朝の歌」にてほぼ方針立つ。方針は立ったが、たった14行書くために、こん

なに手数がかかるのではとガッカリす。

――と記したのです。

 

 

今回はここまで

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