中原中也・詩の宝島/東京漂流/「むなしさ」から「朝の歌」へ
東京漂流は
横浜の街にはじまりました。
「むなしさ」は
大正15年、というと、この年の末が昭和元年ですが
1926年の初め、2月の制作と推定されています。
◇
むなしさ
臘祭(ろうさい)の夜の 巷(ちまた)に堕(お)ちて
心臓はも 条網(じょうもう)に絡(から)み
脂(あぶら)ぎる 胸乳(むなぢ)も露(あら)わ
よすがなき われは戯女(たわれめ)
せつなきに 泣きも得せずて
この日頃 闇(やみ)を孕(はら)めり
遐(とお)き空 線条(せんじょう)に鳴る
海峡岸 冬の暁風(ぎょうふう)
白薔薇(しろばら)の 造花の花弁(かべん)
凍(い)てつきて 心もあらず
明けき日の 乙女の集(つど)い
それらみな ふるのわが友
偏菱形(へんりょうけい)=聚接面(しゅうせつめん)そも
胡弓(こきゅう)の音(ね) つづきてきこゆ
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えてあります。)
◇
この詩に使われている
臘祭(ろうさい)や偏菱形(へんりょうけい)などの
難解で高踏的な漢語が
富永太郎や宮沢賢治らの影響であることや
白薔薇の比喩や
戯女を主語におく詩そのもののモチーフには
ベルレーヌの影響があることなどが
研究されています。
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰ「解題篇」。)
長い間何度も読んでいて
その指摘が理解できるようになりますが
これもダダイズムの詩からの脱皮を図ろうとする
詩人の格闘のあらわれの一つでした。
◇
中原中也自らが
独創的なこの詩の世界を自負していたとしても
世間(周囲)の評価を得るには
しかし時間がかかることになりました。
それは
オリジナリティーというようなことかもしれませんし
ポピュラリティーというようなことかもしれませんし
現代詩のむずかしさというようなことかもしれません。
現在にいたっても
「朝の歌」の人気が
「むなしさ」への評価を上回っていることは
詩とは何かという遠大なテーマに関わっている大きな問題ですね。
◇
自他ともに認める詩である「朝の歌」は
しかしすぐ手の届く距離にありました。
この年の夏には
「朝の歌」を完成します。
◇
朝の歌
天井に 朱(あか)きいろいで
戸の隙(すき)を 洩(も)れ入(い)る光、
鄙(ひな)びたる 軍楽(ぐんがく)の憶(おも)い
手にてなす なにごともなし。
小鳥らの うたはきこえず
空は今日 はなだ色らし、
倦(う)んじてし 人のこころを
諫(いさ)めする なにものもなし。
樹脂の香(か)に 朝は悩まし
うしないし さまざまのゆめ、
森竝(もりなみ)は 風に鳴るかな
ひろごりて たいらかの空、
土手づたい きえてゆくかな
うつくしき さまざまの夢。
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えてあります。)
◇
「朝の歌」は
詩人自らもなんとか納得し
他者、とりわけ小林秀雄も認めざるを得なかった詩でした。
詩人は後年、「詩的履歴書」に、
大正15年5月、「朝の歌」を書く。7月頃小林に見せる。それが東京に来て詩を人に見せる
最初。つまり「朝の歌」にてほぼ方針立つ。方針は立ったが、たった14行書くために、こん
なに手数がかかるのではとガッカリす。
――と記したのです。
◇
今回はここまで
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