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2018年3月27日 (火)

中原中也・詩の宝島/「臨終」ダダ脱皮の途上で/富永太郎の死

 

横浜という所には、

1、常なるさんざめける湍水(たんすい)の哀歓の音と、

2、母さんの少女時代の幻覚と、

3、謂はば歴史の純良性があるのだ。

4、あんまりありがたいものではないが、同種療法さ。

――と、大正15年1月16日付け正岡忠三郎宛ての書簡の一部を取り出して

箇条書きに直しておきます。

 

湍水(たんすい)は

性は猶ほ湍水のごときなり、とある

人間の本性はちょうど渦を巻いている水のようなものである。

――という意味の「孟子」の格言に現われるボキャブラリー。

 

中也が無類の読書家であることの片鱗(へんりん)です。

 

 

しかし、

ここで注目したいのは、同種療法です。

 

ここにどのような意味を込めたか

同種療法という大正ムードぷんぷんの新興療法に突っ込んでいくより

これも一種の比喩と考えて

横浜に同種のものがあるから行くのだということを

ここではつかんでおけばよいのではないでしょうか。

 

 

むずかしく言えば、自己同一化。

 

仏教で言う、同苦同悲。

 

同病相憐れむ、と言ってもよいか。

 

同種のものが同種のものを治す、のです。

 

 

「むなしさ」には

よすがなき われは戯女(たわれめ)

――とあり、

それらみな ふるのわが友

――とあったではないですか!

 

 

「臨終」に

水涸(か)れて落つる百合花(ゆりばな)

――とあり、

窓近く婦(おみな)の逝(ゆ)きぬ

――とある死。

 

この死は女性の死ですが

詩人はこの死に同化しています。

 

しかはあれ この魂はいかにとなるか?

うすらぎて 空となるか?

――の魂も空も

詩人のものであります。

 

 

この詩は

横浜の街の馴染みの娼婦の死を歌ったもののようですが

女性の死を歌って

自己の死を遠く思っている詩です。

 

この死にかすかに

富永太郎の死が重なっています。

 

 

臨 終

 

秋空は鈍色(にびいろ)にして

黒馬(くろうま)の瞳のひかり

  水涸(か)れて落つる百合花(ゆりばな)

  ああ こころうつろなるかな

 

神もなくしるべもなくて

窓近く婦(おみな)の逝(ゆ)きぬ

  白き空盲(めし)いてありて

  白き風冷たくありぬ

 

窓際に髪を洗えば

その腕の優しくありぬ

  朝の日は澪(こぼ)れてありぬ

  水の音(おと)したたりていぬ

 

町々はさやぎてありぬ

子等(こら)の声もつれてありぬ

  しかはあれ この魂はいかにとなるか?

  うすらぎて 空となるか?

 

(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えてあります。)

 

 

今回はここまで。

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