中原中也・詩の宝島/「臨終」ダダ脱皮の途上で/富永太郎の死
横浜という所には、
1、常なるさんざめける湍水(たんすい)の哀歓の音と、
2、母さんの少女時代の幻覚と、
3、謂はば歴史の純良性があるのだ。
4、あんまりありがたいものではないが、同種療法さ。
――と、大正15年1月16日付け正岡忠三郎宛ての書簡の一部を取り出して
箇条書きに直しておきます。
湍水(たんすい)は
性は猶ほ湍水のごときなり、とある
人間の本性はちょうど渦を巻いている水のようなものである。
――という意味の「孟子」の格言に現われるボキャブラリー。
中也が無類の読書家であることの片鱗(へんりん)です。
◇
しかし、
ここで注目したいのは、同種療法です。
ここにどのような意味を込めたか
同種療法という大正ムードぷんぷんの新興療法に突っ込んでいくより
これも一種の比喩と考えて
横浜に同種のものがあるから行くのだということを
ここではつかんでおけばよいのではないでしょうか。
◇
むずかしく言えば、自己同一化。
仏教で言う、同苦同悲。
同病相憐れむ、と言ってもよいか。
同種のものが同種のものを治す、のです。
◇
「むなしさ」には
よすがなき われは戯女(たわれめ)
――とあり、
それらみな ふるのわが友
――とあったではないですか!
◇
「臨終」に
水涸(か)れて落つる百合花(ゆりばな)
――とあり、
窓近く婦(おみな)の逝(ゆ)きぬ
――とある死。
この死は女性の死ですが
詩人はこの死に同化しています。
しかはあれ この魂はいかにとなるか?
うすらぎて 空となるか?
――の魂も空も
詩人のものであります。
◇
この詩は
横浜の街の馴染みの娼婦の死を歌ったもののようですが
女性の死を歌って
自己の死を遠く思っている詩です。
この死にかすかに
富永太郎の死が重なっています。
◇
臨 終
秋空は鈍色(にびいろ)にして
黒馬(くろうま)の瞳のひかり
水涸(か)れて落つる百合花(ゆりばな)
ああ こころうつろなるかな
神もなくしるべもなくて
窓近く婦(おみな)の逝(ゆ)きぬ
白き空盲(めし)いてありて
白き風冷たくありぬ
窓際に髪を洗えば
その腕の優しくありぬ
朝の日は澪(こぼ)れてありぬ
水の音(おと)したたりていぬ
町々はさやぎてありぬ
子等(こら)の声もつれてありぬ
しかはあれ この魂はいかにとなるか?
うすらぎて 空となるか?
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えてあります。)
◇
今回はここまで。
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