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« 中原中也・詩の宝島/ジュピター神の砲(ひづつ)と古代ギリシア | トップページ | 中原中也・詩の宝島/「浮浪歌」のアストラカン »

2018年3月 2日 (金)

中原中也・詩の宝島/ジュピターからクリストへ/「古代土器の印象」の沙漠

 

 

古代ギリシアではないのですが

「ノート1924」の中で触れておかなくてはならない一つが

クリストの出てくる「古代土器の印象」です。

 

 

古代土器の印象

 

認識以前に書かれた詩――

沙漠(さばく)のただ中で

私は土人(どじん)に訊(たず)ねました

「クリストの降誕(こうたん)した前日までに

カラカネの

歌を歌って旅人が

何人ここを通りましたか」

土人は何にも答えないで

遠い沙丘(さきゅう)の上の

足跡をみていました

 

泣くも笑うも此(こ)の時ぞ

此の時ぞ

泣くも笑うも

 

(「新編中原中也全集」第2巻「詩Ⅱ」より。新かなに変えてあります。)

 

 

この詩のタイトルに

古代が現われることにまず惹かれますが

古代土器と熟しては

ガーンとぶっ飛ばされて

たちまちダダの世界へ投げ出されるということになり

飛ばされたところが

クリストが生誕したあたりの沙漠ということになり

今度はポカンとなる格好です。

 

沙漠の中でそして

私が土人にものを尋ねるという設定が

どんな寓喩(ぐうゆ)を示しているのか

これだけでは絞り切れませんが

クリストの降誕、そしてその前日という限定

さらにはカラカネの歌へと私の問いがフォーカスしていくとき

このカラカネという意味不明な語彙は

どこかで聞いた覚えのあるような存在になっています。

 

この沙漠は

オリエントの沙漠ですし

カラカネのカラが唐であるのなら

この詩はいっそう近づいてきます。

 

この近づいてくるものが

古代土器の喩(印象)へと結びついてゆきますね。

 

 

長谷川泰子との愛の暮らしが

破綻に瀕していたのか

それとも愛憎劇は頂点にさしかかっていたというべきなのか

この暮らしの中から生まれた「ノート1924」の詩篇は

ほとんどが恋愛詩の様相を見せるのですから

この詩「古代土器の印象」も

その流れのなかに読んだほうがよいのかもしれません。

 

よいかもしれないのですが

この詩の声調には

ダダイストらしからぬ

どこかさめざめとした響きが漂っているのはなぜでしょう。

 

それは

どこからやってくるものでしょうか。

 

泰子との暮らしに

反省の姿勢を示したからとも考えられますが。

 

 

ダダイスト中也が

ダダイストである以前から貯めていた

原初の、あるいは認識以前の原形的思考みたいなものが

土器としてぬっくとこの詩に現われたと見るのは

無謀というものでしょうか。

 

富永太郎が差し出したランボーの詩篇に

中也は自らの中に無意識にあたためていた

この原形的思考(=詩の元)を引き出された――。

 

一種のリアクションであったのではないか。

 

 

今回はここまで。

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