中原中也・詩の宝島/ジュピターからクリストへ/「古代土器の印象」の沙漠
古代ギリシアではないのですが
「ノート1924」の中で触れておかなくてはならない一つが
クリストの出てくる「古代土器の印象」です。
◇
古代土器の印象
認識以前に書かれた詩――
沙漠(さばく)のただ中で
私は土人(どじん)に訊(たず)ねました
「クリストの降誕(こうたん)した前日までに
カラカネの
歌を歌って旅人が
何人ここを通りましたか」
土人は何にも答えないで
遠い沙丘(さきゅう)の上の
足跡をみていました
泣くも笑うも此(こ)の時ぞ
此の時ぞ
泣くも笑うも
(「新編中原中也全集」第2巻「詩Ⅱ」より。新かなに変えてあります。)
◇
この詩のタイトルに
古代が現われることにまず惹かれますが
古代土器と熟しては
ガーンとぶっ飛ばされて
たちまちダダの世界へ投げ出されるということになり
飛ばされたところが
クリストが生誕したあたりの沙漠ということになり
今度はポカンとなる格好です。
沙漠の中でそして
私が土人にものを尋ねるという設定が
どんな寓喩(ぐうゆ)を示しているのか
これだけでは絞り切れませんが
クリストの降誕、そしてその前日という限定
さらにはカラカネの歌へと私の問いがフォーカスしていくとき
このカラカネという意味不明な語彙は
どこかで聞いた覚えのあるような存在になっています。
この沙漠は
オリエントの沙漠ですし
カラカネのカラが唐であるのなら
この詩はいっそう近づいてきます。
この近づいてくるものが
古代土器の喩(印象)へと結びついてゆきますね。
◇
長谷川泰子との愛の暮らしが
破綻に瀕していたのか
それとも愛憎劇は頂点にさしかかっていたというべきなのか
この暮らしの中から生まれた「ノート1924」の詩篇は
ほとんどが恋愛詩の様相を見せるのですから
この詩「古代土器の印象」も
その流れのなかに読んだほうがよいのかもしれません。
よいかもしれないのですが
この詩の声調には
ダダイストらしからぬ
どこかさめざめとした響きが漂っているのはなぜでしょう。
それは
どこからやってくるものでしょうか。
泰子との暮らしに
反省の姿勢を示したからとも考えられますが。
◇
ダダイスト中也が
ダダイストである以前から貯めていた
原初の、あるいは認識以前の原形的思考みたいなものが
土器としてぬっくとこの詩に現われたと見るのは
無謀というものでしょうか。
富永太郎が差し出したランボーの詩篇に
中也は自らの中に無意識にあたためていた
この原形的思考(=詩の元)を引き出された――。
一種のリアクションであったのではないか。
◇
今回はここまで。
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