中原中也・詩の宝島/「朝の歌」/ダダ脱皮
中原中也が
1926年(大正15年・昭和元年)に作った「朝の歌」は
後に詩人自らが「詩的履歴書」に記したように
自他ともに認める会心作になりました。
大正15年5月、「朝の歌」を書く。7月頃小林に見せる。それが東京に来て詩を人に見せる最初。つま
り「朝の歌」にてほぼ方針立つ。方針は立ったが、たった14行書くために、こんなに手数がかかるので
はとガッカリす。
――と記したのですが
小林秀雄の目にかなった作品であることによって
「朝の歌」は自他ともに認める詩とされたのでした。
◇
朝の歌
天井に 朱(あか)きいろいで
戸の隙(すき)を 洩(も)れ入(い)る光、
鄙(ひな)びたる 軍楽(ぐんがく)の憶(おも)い
手にてなす なにごともなし。
小鳥らの うたはきこえず
空は今日 はなだ色らし、
倦(う)んじてし 人のこころを
諫(いさ)めする なにものもなし。
樹脂の香(か)に 朝は悩まし
うしないし さまざまのゆめ、
森竝(もりなみ)は 風に鳴るかな
ひろごりて たいらかの空、
土手づたい きえてゆくかな
うつくしき さまざまの夢。
(「新編中原中也全集」第1巻・詩Ⅰより。新かなに変えてあります。)
◇
この詩が
詩人自身も納得し
小林秀雄も評価することになった第一の理由は
ダダイズムの痕跡が完全に消えて
独自の詩世界が拓(ひら)かれたところにありました。
第1詩集「山羊の歌」では
2番詩「月」にはじまり
「サーカス」「春の夜」を経て
「朝の歌」へ至り
「臨終」以降へと連なる流れに
そのダダ脱皮の苦闘の跡が見られます。
この過程で
宮沢賢治、富永太郎ら日本の詩や
ランボー、ボードレール、ヴェルレーヌらフランス詩を吸収します。
◇
1926年(大正15年・昭和元年)にはこうして
「むなしさ」
「朝の歌」
「臨終」
――を生みますが
この間の、小林秀雄との交流は
どのようなものだったのでしょうか。
ランボーの存在が
そこにあります。
◇
今回はここまで。
« 中原中也・詩の宝島/「臨終」ダダ脱皮の途上で/ランボー原書 | トップページ | 中原中也・詩の宝島/ランボーを介した交流<はじまり> »
「064面白い!中也の日本語」カテゴリの記事
- 中原中也・詩の宝島/ベルレーヌーの足跡(あしあと)/「ポーヴル・レリアン」その3(2018.08.11)
- 中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/「心象」の空(2018.06.28)
- 中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/「少年時」から「夏」へ(2018.06.27)
- 中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/「失せし希望」の空(2018.06.24)
- 中原中也・詩の宝島/ランボーの足跡(あしあと)/「木蔭」の空(2018.06.23)
« 中原中也・詩の宝島/「臨終」ダダ脱皮の途上で/ランボー原書 | トップページ | 中原中也・詩の宝島/ランボーを介した交流<はじまり> »
コメント