中原中也・詩の宝島/「ノート1924」ダダ脱皮の道・続続/(かつては私も)
(秋の日を歩み疲れて)の最終行に
夢のものうさ
――とあるのは
やがて「汚れっちまった悲しみに……」の
倦怠(けだい)のうちに死を夢む
――につながっていくものでしょう。
それを思うと
胸がゾクゾク騒ぎ出します。
そして……。
3つ前の作「浮浪歌」で歌われた
アストラカンの肩掛が
「汚れっちまった悲しみに……」の
狐の革裘(かわごろも)へと繋がっていくのに息を飲みます。
◇
昭和2、3年ごろに計画され
幻に終わった第1詩集のための詩篇で
「ノート1924」に記された詩篇を
さらに続けて読みましょう。
◇
(かつては私も)
かつては私も
何にも後悔したことはなかった
まことにたのもしい自尊(じそん)のある時
人の生命(いのち)は無限であった
けれどもいまは何もかも失った
いと苦しい程多量であった
まことの愛が
いまは自ら疑怪(ぎかい)なくらいくるめく夢で
偶性(ぐうせい)と半端(はんぱ)と木質(もくしつ)の上に
悲しげにボヘミヤンよろしくと
ゆっくりお世辞笑いも出来る
愛するがために
悪弁(あくべん)であった昔よいまはどうなったか
忘れるつもりでお酒を飲みにゆき、帰って来てひざに手を置く。
(「新編中原中也全集」第2巻・詩Ⅱより。新かなに変えてあります。)
◇
泰子を失った苦しみを
もろに歌った詩です。
◇
「浮浪歌」のややお道化た調子がここにはなく
けれどもいまは何もかも失った
――と慚愧(ざんき)の気持ちをあけすけに歌います。
かつては何にも後悔したことなどなかった。
苦しいほど多量にあった愛は
いまは疑うほどクラクラする夢の夢。
……。
愛するがゆえに
悪態もついた昔はどこへいってしまった。
忘れるために酒を飲みに行き
帰ればひとり
膝に手を置き……。
祈ります。
◇
未完成詩ですが
ソネットの形を維持しています。
第3連、
偶性(ぐうせい)と半端(はんぱ)と木質(もくしつ)の上に
――にダダの尻尾(しっぽ)がのぞきます。
◇
今回はここまで。
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