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2018年3月15日 (木)

中原中也・詩の宝島/「ノート1924」ダダ脱皮の道・続続/(かつては私も)





(秋の日を歩み疲れて)の最終行に

夢のものうさ

――とあるのは

やがて「汚れっちまった悲しみに……」の

倦怠(けだい)のうちに死を夢む

――につながっていくものでしょう。

 

それを思うと

胸がゾクゾク騒ぎ出します。

 

そして……。

 

3つ前の作「浮浪歌」で歌われた

アストラカンの肩掛が

「汚れっちまった悲しみに……」の

狐の革裘(かわごろも)へと繋がっていくのに息を飲みます。

 

 

昭和2、3年ごろに計画され

幻に終わった第1詩集のための詩篇で

「ノート1924」に記された詩篇を

さらに続けて読みましょう。

 

 

(かつては私も)

 

かつては私も

何にも後悔したことはなかった

まことにたのもしい自尊(じそん)のある時

人の生命(いのち)は無限であった

 

けれどもいまは何もかも失った

いと苦しい程多量であった

まことの愛が

いまは自ら疑怪(ぎかい)なくらいくるめく夢で

 

偶性(ぐうせい)と半端(はんぱ)と木質(もくしつ)の上に

悲しげにボヘミヤンよろしくと

ゆっくりお世辞笑いも出来る

 

愛するがために

悪弁(あくべん)であった昔よいまはどうなったか

忘れるつもりでお酒を飲みにゆき、帰って来てひざに手を置く。

 

(「新編中原中也全集」第2巻・詩Ⅱより。新かなに変えてあります。)

 

 

泰子を失った苦しみを

もろに歌った詩です。

 

 

「浮浪歌」のややお道化た調子がここにはなく

けれどもいまは何もかも失った

――と慚愧(ざんき)の気持ちをあけすけに歌います。

 

かつては何にも後悔したことなどなかった。

 

苦しいほど多量にあった愛は

いまは疑うほどクラクラする夢の夢。

 

……。

 

愛するがゆえに

悪態もついた昔はどこへいってしまった。

 

忘れるために酒を飲みに行き

帰ればひとり

膝に手を置き……。

 

祈ります。

 

 

未完成詩ですが

ソネットの形を維持しています。

 

第3連、

偶性(ぐうせい)と半端(はんぱ)と木質(もくしつ)の上に

――にダダの尻尾(しっぽ)がのぞきます。

 

 

今回はここまで。

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