中原中也・詩の宝島/ランボーを介した交流<はじまり・その10>/「Au Rimbaud」続
病状が悪化する富永太郎を訪ねた小林秀雄が
富永から渡された紙片に記されていたのが
「Au Rimbaud」でした。
◇
Au Rimbaud
Ⅰ
Kiosque au Rimbaud,
“Manila” à la main,
Le ciel est beau,
Eh! tout le sang est Pain.
Ⅱ
Ne voici le poète,
Mille familles dans le même toit
Revoici le poète :
On ne fait que le droit.
Ⅲ
Que Dieu le luise et le pose!
Qu'il ne voie pas ouvrir
Les parasols bleus et rose
Parmi les flots : les martyrs!
(「ランボオⅢ」より。)
◇
小林秀雄は
この詩を暗誦するほどに読み慣れ
長く記憶していたため
「ランボオⅢ」(1947年)に書き出すことができました。
いっぽう、中原中也は
富永太郎の死に際して
太郎の残した作品を集中して読み
一時はそれらを所有していましたが
遺稿集の発行計画が進む中で返却します。
「ランボオへ」は
その中にありました。
そのあたりの事情を
中也が富永家に送った二つの書簡で
知ることができます。
◇
大正14年(1925年)
11月16日 富永家宛 封書
表 府下代々木富ヶ谷1456 富永様
裏 16日
発表順に書き付けます。
「橋の上の自画像」(1924、6、頃作)
「秋の悲嘆(ママ)」(1924、10、作)
「鳥獣剥製所」(1925年、1、作)
「四行詩」「頌歌」「恥の歌」「無題」(1925、2、頃作)
此の四つと共に作された「焦燥」があります。これは一時的な或感情のために発表さ
れなかつたのですが、韻文中最も立派なもので、自分でも余程自信のあつたものです。
「断片」(1925、4、作)
「ランボオへ」(1925、7、作)
其の他、ボオドレエルの「人工天国」中の、「ハシーシュの詩」の箇所だけの翻訳があ
ります。
茶色の原稿袋の中に、仙台にをられた頃の作が数篇ありますが、これは自分でも発表し
たくないと云ってゐられたものです。
発表された原稿は近々におとどけします
◇
11月下旬(推定) 富永家宛 封書
これは最初仏語で書かれたものです。それは富永君の床のまはりの何処かにあることだ
と思はれます。今年7月末頃の作で、そして最後の詩です。
ランボオへ(未定稿)
富永太郎
1
キオスクにランボオ
手にはマニラ
空は美しい
えゝ 血はみなパンだ
2
詩人が御不在になると
千家族が一家で軋めく
またおいでになると
掟(おきて)に適つたことしかしない
3
神様があいつを光らして、横にして下さるやうに!
それからあれが青や薔薇色の
パラソルを見ないやうに!
波の中は殉教者でうようよですよ
(「新編中原中也全集」第5巻「日記・書簡」より。※「富永太郎詩集」収録のものとは、表記
に若干の違いがあります。編者。)
◇
大岡昇平は「ランボオへ」について
フランス語に未熟だった中原中也のために
富永太郎がフランス語詩を
日本語詩にしたものと推理しています。
◇
今回はここまで。
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