中原中也・詩の宝島/ランボーを介した交流<はじまり・その12>/富永太郎の死、その前後
家族と医者の忠告を無視して、富永は小林や中原と共に、町を歩いた。
「彼に全く無関心な群集」を眺めながら、「おい、こゝ曲らう、こんな処で血を吐いちや、つま
らないからな」と呟く富永の姿を小林は伝えている(「富永太郎」)。
「思へば、私は彼の夭折を随分助けた」(「ランボオⅡ」)。
――と大岡昇平は記しています。
(講談社文芸文庫「中原中也」中の「朝の歌」。改行を加えました。編者。)
◇
富永太郎が小林秀雄と東京の街を
そして中原中也とは京都の街を
それぞれ歩いたことは確かですが
3人が一緒に歩いたことがあったでしょうか。
大岡昇平は
3人が共に歩いたことを言ってはいません。
それを実証する資料は
現在のところないようですが
なかったと断言できるものでもありません。
日記や書簡から読み取ることのできる事実の隙間(すきま)に
10分でも1時間でも
3人が顔を揃えた時間があった可能性を否定できません。
◇
こうして実証的姿勢になっているのは
研究者のそれであるようで気が引けますが
たとえば、
「新編中原中也全集」の年譜の
1925年(大正14年)4月9日の項に、
東京出発、山口へ向かう。小林秀雄とともに富永太郎を片瀬に見舞ったのは、このときか(*26)。
――とあるのに出くわすと
街を歩いたとまで言わずとも
3人が同じ場所に居合わせたことを想像させるに十分ではありませんか。
※(*26)の語註として、大岡昇平「富永太郎――書簡を通して見た生涯と作品」(大岡昇
平全集第17巻)が付記されています。
山口へ向かうとあるのは
中也が小林から20円を借りて
一時帰省した時のことです。
上京後1か月のことでした。
◇
富永太郎が
片瀬の療養先を抜け出すのは5月3日でした。
年譜の5月11日の項には
富永太郎来訪か。
――とあり
富永太郎は療養先から帰った後も
中也を訪ねた可能性があるのですし
外出する機会があったようですから
6月に面会謝絶を言い渡されるまでの間に
街に出なかったと断定するまでもないことでしょう。
可能性は
極めて小さいにもかかわらず
ゼロであったと断定はできません。
研究がどこかで誰かが進められているのかわかりませんが
3人が会したという事実が
たとえなくても
3人の間には
ランボーを介した交流交感が続いていたことは
これまでその一部を見て来たように確かです。
◇
それは
富永太郎の死後にも3人以外の周辺に伝播し
そして中原中也の死後にも継承されてゆきます。
ランボーという事件は
富永太郎の死の前後に
はじまったばかりでした。
◇
今回はここまで。
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